7 悲しい記憶
僕たちは三沢さんが誘導するまま店の奥へと歩いた。
使い古された木の階段を四段ほど上がったそこは、入り口のスペースの半分くらいの広さで、不思議なほど落ち着く空間が広がっている。
「意外と広いんですね」
僕の言葉に三沢さんがにっこりと笑った。
「うん、ここは二階もあるんだよ。ほら、あそこのガラス戸の奥が階段だ。でも二階にはまだ渡せていない言葉を綴った本で溢れかえっていてね、足の踏み場も無いほどだよ」
「まだ渡せてない言葉?」
「そうだよ。ここは愛する人に先立たれた人達が、逝ってしまった人に向けて、最後に贈った言葉を預かる場所なんだ。本来なら、その心の声は自分のお葬式で聞くことになるのだけど、いろいろな事情があってその場に居合わせられないこともあるからね」
僕がよっぽど不思議そうな顔をしていたのだろう。
プッと吹き出した店長さんが、手を伸ばして僕の頬を突いた。
「僕の名前を教えただろう? だからこれからは名前で呼んでくれ。名前で呼び合うということは、とても深い意味があるんだよ」
頷く僕の顔を見ながら、古村さんは続けた。
「一度に話しても無理さ。この子はまだ九歳なんだぜ? しかも親の葬式に行くこともできなかったんだ。言葉を贈ることもできず、言葉を贈ってもらうこともできなかったのだから」
三沢さんが頷きながら僕の頭を撫でた。
「そうだよね。ごめんね、急かしてるわけではないんだよ。ゆっくりでいいから、受け入れて欲しい。君はね、聡志君。死んじゃったんだ」
ずっと僕の手を握ったままのばあちゃんが優しい声で言った。
「聡志ちゃん、ばあちゃんもね……死んじゃったの」
僕の頭の中に事故の記憶がものすごい勢いで雪崩れ込んだ。
耳をつんざくブレーキ音。
突然消えたお父さんの体。
僕に覆いかぶさったまま息を止めたお母さん。
白い壁と天井、そして身動きができないほど何本もの細い管に繋がれた僕の体。
知らない大人に囲まれて、僕は怖くなって走って逃げたんだ。
誰も追ってこなくて、そしたら余計に怖くなって、そのままばあちゃんの町まで走ったんだ。
走った? え? どういうこと?
「ずっと聡志ちゃんの魂を抱えていてあげたかったのだけれど、ばあちゃんの心臓の血管がとうとう破れちゃった。だからもうどうしようもなくてね。本当なら聡志ちゃんが納得するまで頑張りたかったのだけれど、寿命が来ちゃったみたいでね。だからね聡志ちゃん、ばあちゃんと行かないかい? ひとりじゃ寂しいけれど一緒なら平気だろう?」
ばあちゃんはそう言うと、ぽろぽろと涙を流しながら、何度もごめんねと言っていた。
「ばあちゃんが謝る事じゃないよ。僕が……僕があの時逃げちゃったから。ごめんね、ばあちゃん……ごめんなさい」
「聡志ちゃんが逝っちゃったあの日は、ばあちゃんの手術の日だった。それで聡志ちゃんが死んだのも知らなくてね。麻酔から覚めた時には、もう全部終わっていたんだよ。だからお前に……可愛い可愛い孫のお前に、最後の言葉を贈ってやれなかった……ずっと後悔していたよ。なんで私が生きて聡志ちゃんが死んじゃったのかって。毎日泣いていたよ。そしたらある日、ひょっこりと聡志ちゃんがやってきたんだ」
三沢さんが続ける。
「君のケースはそれほど特別なことでも無いんだ。だからこの店の天井が抜けそうなくらいに『心の声の本』が溜まっていくんだけれどね。そういったケースのほとんどは、戦争という非人道的な事象に起因している。とても悲しいことだよね」
古村さんが僕を抱き上げて膝に乗せた。
「天災でも人災でも、自分が命を落としているということに気付かないままというケースは、どうしても発生する。私たちはそれを『厄災』と呼んでいるんだけれど、君の場合は違う。君が死んだということを悲しんだ人はとても多かったし、今でも君を覚えている人もたくさんいる。でも君の葬儀をした人達は、君に同情はしていたけれど、君への愛情を持っている人達では無かったんだよ。だから、本来葬式で聞くはずの心からの言葉が存在していないんだ。でもね、君への言葉は確かにあるんだよ。ちゃんと預かっている。ただ少し短すぎてね。だから君は気付けなかった」
「気付く? 自分への言葉が残っているということに、普通は気付くのですか?」
「普通というか……引き寄せられるという方が正しいかな。ほら、この前の小さい男の子、覚えている?」
「あの迷子の子ですか? 覚えています」
「あの子も引き寄せられてきたんだ。一年くらいは自分が死んだことを認めることができずにずっと漂っていたけれど、自分がこの世界に残ることで、大切な人たちがその苦しみから逃れることができないのだと本能で理解してしまうからね。みんないつかは必ずここを訪れる」
「いつかは必ず? ではなぜ僕は? 僕って死んでいるんですよね?」
「うん、死んでいるね。でも君は悪くないよ。君を見送った大人たちの責任だ」
三沢さんがとても優しい声で言った。
その声を僕の心が嬉々として吸い込んでいるのがわかる。
どうやら僕はこの人のこの言葉を待ち望んでいたようだ。
「僕は……これからどうすれば良いのですか?」
三沢さんが笑顔を浮かべた。
「君の好きなようにすればいいんだ。でもいずれは行かないとね。ずっとここにいるのに、誰にも気付いてもらえないっていうのも苦しいだろう?」
確かにその通りだ。
罵られるより無視される方がずっと心が抉られる。
この町に来てからの辛い思い出が、パラパラマンガのように頭の中で踊った。
「そう……ですね。とても悲しかったです」
「うん、わかった。それで、君へ贈る最後の言葉なんだけれど」
僕は三沢さんが最後まで話す前に声を出した。
「きっと無いんですよね? だって僕は気づけなかったんだもの。でもそれは……きっと仕方がないことだったんですよね?」
三沢さんと古村さんが顔を見合わせた。
「あるって言っただろう? お父さんとお母さんからの言葉が、ちゃんとあるんだ」
「えっ? お父さんとお母さんの? 教えてください! お願いします」
「うん。もちろん伝えるけれど、言葉じゃなく叫びなんだ。だから君が気付けなかったのも当たり前なんだよ」
「叫び?」
「そうだよ。聡志君のお父さんもお母さんも、ほぼ同時に同じことを叫んでいた。物凄い愛情がこもった心からの叫びだよ」
僕は拳を握りしめた。
「では始めるね。短いからちゃんと聞いて」
三沢さんの声が不思議な重さを纏った。
厳かな声とでも言えば良いのだろうか。
「聡志!」
「聡志!」
お父さんとお母さんの声だ。
あまりの迫力に僕の体がビクッと跳ねた。
誰も口を開かない。
静かすぎて耳の奥でキーンという機械音が鳴り響いている。
「凄いね……ここまでの情念はなかなか無い」
最初に声を出したのは古村さんだった。
「そうだよね、私も頑張ったけれど、あの思いは再現しきれていないだろう」
三沢さんの額にうっすらと汗が浮かんでいる。
僕は自分の呼吸音が煩すぎて、どうして良いのか分からなかった。
「愛されていたんだね、聡志君」
古村さんが僕の頭を撫でた。
斉藤さんが静かに言った。
「君はご両親より数日だけど長く生きていた。お母さんが君を守ったからだ。そうでないと君はフロントガラスを突き破って放り出されていただろうからね」
「泣きなさい。泣くことも供養だ。君はよく頑張ったって私も古村も知っているよ」
三沢さんの声に、全てを堰き止めていた僕の中の何かが崩れ落ちた。
ばあちゃんがギュッと抱きしめてくれる。
懐かしい匂いだ。
会うたびに抱きしめてくれたばあちゃんの匂い。
「ばあちゃん……」
僕はそれしか言えず、ただひたすら泣いた。