42 狐神の要望
渡り廊下の方に顔を向けると、裕子さんの背中が見えた。
「ダメだ! 裕子さん! 開けちゃダメ!」
僕は洗っていたカップを放り投げて駆け寄った。
後ろで陶器が割れる音がしたが、構ってなんかいられない。
ドアの把手に手をかけた裕子さんの手首を掴んで引き寄せる。
「ダメだよ。全てを壊すつもり?」
「だって! 子供の声が!」
「厄者の罠かもしれない」
「本当に助けを求めているのかもしれないわ」
「ダメだ。匂いがきつくなっているのがわからない?」
「でも!」
ふっと僕と裕子さんの体が浮いた。
まるで透明な球体の中に入って浮遊しているような感覚だ。
「汝ら、ここに留まることを命ず」
狐神の声だ。
「我が参る。下がりおれ」
そう言うなり僕たちはカウンター前まで飛ばされた。
やっと立ち上がった僕たちを見た狐神が声を出す。
「聡志、我は所望す」
「畏まって承り申す」
狐神の姿が渡り廊下の方へと消えて行った。
もう大丈夫だろう。
「裕子さん、所望されちゃったよ」
まだ肩で息をしている裕子さんが、泣きそうな顔のまま言った。
「……ごめん……悪かったわ」
「じゃあ手伝ってくれる?」
「もちろんよ」
玲子さんにも声をかける。
そう言えば彼女とはお稲荷さんを一緒に食べたことはないね。
「私、お稲荷さん作るの得意よ!」
場を明るくしようとしてくれているのがわかる。
恐ろしいだろうに、それでも気丈に振る舞おうとする玲子さん。
様々な経験をしてきた大人の女性ってやっぱり強くてカッコいい! 三沢さんが一目惚れするはずだ。
そんなことを考えていたら、渡り廊下の扉の鍵がガチャリと開いた。
一瞬緊張した僕たちの前に現れたのは、顔色の悪い古村さんと三沢さんだった。
「終わったよ。狐の神さんが尻尾に巻いて連れて行った」
古村さんはまだ肩で息をしている。
玲子さんから濡れたおしぼりを受け取りながら三沢さんが声を出した。
「拙いな、徐々に力を蓄えてきている。そろそろかもしれん」
裕子さんが古村さんの背中を擦り、玲子さんが三沢さんを心配そうに見上げている。
良いよなぁ、大人ってさ。
まあここで拗ねても仕方がないので、僕は僕にできることを始めることにした。
大鍋に湯を沸かし、買ってきて冷凍保存している古村さん御用達の油揚げを出す。
沸騰するまでに米を研ぎ、少し固めに炊けるよう水を張った。
油抜きを終えた油揚げを二つに切り、硬く絞って煮切った酒と醬油と味醂の中に並べていく。
店内に甘辛いような懐かしい匂いが漂ってくると、丁度良いタイミングで米が炊きあがった。
「すし酢は?」
玲子さんがエプロンを掛けながら声を出した。
「冷蔵庫にこの前作ったのが入ってます」
「油揚げはもう良いんじゃない?バットに出すわね」
裕子さんの声に頷き返し、古村さんと三沢さんには風呂に入るように伝えた。
言わないと入らないんだよね、この二匹は。
子供じゃあるまいし。
羽釜から炊き立て白米を寿司桶に移すのは、なかなかの重労働だ。
こういうことをするのだから、どうしても料理人って男の人が多くなるのかな?
だって料理って肉体労働だもんね。
大きな団扇で冷やしながら、すし酢を白米に振りかけていく。
これを一人でやらなくて良くなったというだけでも、本当に楽だ。
玲子さんは流石の手際で、テキパキと酢飯を作っていく。
何度か経験のある裕子さんも、余裕の表情で油揚げをきれいに並べてくれている。
「まだ温かいかしら」
「もう大丈夫じゃない? 手で持てるのでしょう?」
玲子さんの問いに裕子さんが答えている。
そうなのだ、僕たちは熱いとか冷たいとかの体感が鈍い。
下手をしたら怪我をしていても分からないのだが、まあ秒で傷が塞がるから問題はない。
「うん、大丈夫よ。持ってもそれほど熱くないから」
「じゃあ始めましょうか」
何度も作るうちに僕はいろいろな便利グッズを揃えていった。
羽釜に拘った結果、竈型のガスコンロを見つけたし、少し重いが扱いやすい金属の菜箸もゲットした。
そしてつい最近入手したのは『ディッシャー』という優れモノだ。
アイスクリームの盛り付けなどに使う道具らしいが、これで酢飯をとれば揃った大きさにできるし、丸くなっているので破れやすい油揚げにも入れやすい。
これを買ってきて使い方を説明したとき、初めて神ジイと古村さんと三沢さんの三人に褒められたんだ。
「すごいわね。作り易いわ」
玲子さんにも褒められちゃったもんね!
僕たちは厨房の作業台を囲んで、黙々と稲荷寿司を作り続けた。
風呂から出てきたのか、コーヒーの良い香りがしてくる。
誰が淹れたのだろう?
「古村さんって自分でも淹れられるのね、エスプレッソ」
裕子さんの言葉のすぐ後で、蒸気を抜く派手な音がした。
「三沢さんもエスプレッソ飲むの?」
玲子さんの疑問には僕が答えた。
「厄者の相手をした後は好んで飲みますよ」
玲子さんの手が止まる。
「厄者の相手って、まさか戦うの?」
「まあ戦うというのは間違いじゃないですが、殴り合ったり切り合ったりするわけじゃないです。二人が持っている神力の全てを使って飛散しないように固めるというか……なんて言えばいいのだろう? 封じ込める? そんな感じです」
「さっきの狐さんはもっとすごいの? 行ってすぐに片付いたでしょ」
「あれは二人がすでにほとんど済ませていたからですよ。でもまああの狐神はとんでもない力を持っているのだそうです。僕は狐じゃないから分からないけれど、二人は適当に相手をしているように見せつつ、実は恐れおののいて畏まってますよ」
「へえ……そうなんだ。優しそうな雰囲気だったけれど、強いってことね?」
あの狐神を見て、その優しさに気づく玲子さんの感性もなかなか強靭とみた。
「子供たちは?」
「逃げていった。当分は暇だと思うよ」
返事をしたのは三沢さんだ。
「やっぱり? そりゃ怖くなるわよね。可哀そうに」
厄者が来ると、せっかく集まっていた子供の魂が恐れて逃げてしまう。
「まだか、聡志」
狐神様のご帰還だ。
え? もう葬ってきたの? 早くね?
「敬って捧げ奉り申す」
お約束の暗号文を口にした僕は、三宝に山積みにした稲荷寿司を狐さんの前に置いた。
「ふむ……」
あっ! あれほどよく嚙めって言ったのにまた瞬殺だ。
いくら神だとはいえ、もう少し味わってほしいものだね。
長い箸で裕子さんが稲荷寿司を次々に三宝に置いてゆくが、置くとほぼ同時に消えていく。
神様って遠慮って言葉を知らないのだろうか。
そう思っている僕の後ろで、三沢さんと古村さんが並ばされて玲子さんに怒られている。
きっと盗み食いをしたんだろうね? ふふふ。




