31 鎌倉にて
そして日常が戻り、僕たちはそれぞれが自分の役割を遂行する日々を送っている。
変わったことといえば、ルナール古書店に保育部ができたことと、全員ため口で話をするようになったことかな。
部長は当然裕子さんで、彼女は白いトレーナーに細身のジーンズを着るようになった。
でもエプロンはきれいな花柄で、細身の彼女にすごく似合っている。
ちなみに三沢さんは古書店の店長で古村さんは外商部長、そして僕は喫茶部のバイト。
いつになったら正社員になれるんだ?
「汚れやすいのになぜ白いトレーナーにするの?」
「子供って大人が見ていないところで吐いたりすることがあるの。それに怪我をして血が出ていたりしても、本人さえ気づかないってこともあるのよね。そういう時、白い服だとついた汚れで異常を見つけることができるのよ。これは経験上だから、納得できるような説明じゃないかもしれないけれど」
「ああ、なるほどね。子供の手や顔の汚れを確認できるってことだね?」
「うん、子供ってどこか痛かったり辛かったりすると、口では言えなくても態度には出るのよ。抱きついて離れなかったり、やたら抱っこをせがんだりね」
「経験上って?」
「幼稚園に務めていた時にね、朝からやたらと抱っこばかりせがんできた子が、私の肩に吐いちゃったのよね。その時たまたま白い服を着ていてね、吐き戻した物のなかに微量の血が混ざっているのをみつけることができたの。すぐに保護者を呼んで病院に行ったわ。結果はストレス性の胃潰瘍。幼稚園に来るような年齢の子が胃潰瘍よ? しかもストレス性よ? もう驚いちゃって。でも発見が早かったからすぐに処置できたっていう経験上」
古村さんがニコニコ笑いながら言う。
「それはお手柄だったねぇ。それからずっと白を?」
裕子さんが小さく肩を竦めた。
「いつもってわけではないの。でもなるべく黒とか濃い色は着ないようにしてたかなぁ。その習慣っていうか、薄い色の服を着るとスイッチが入るっていうか?」
三沢さんがもやしと人参の味噌汁を飲み干してから声を出した。
「なるほど、そういう事であれば納得だ。それはそうと、聡志。今日の味噌汁もなかなか前衛的な味だなぁ。うん、慣れると癖になるかもしれない」
これは嫌味だね。
彼らは化学調味料とか人工甘味料を極端に嫌う。
どうやら何かの具材に入っていたみたい。
味噌かな?
「ああ、ごめんね。国東半島の味噌を切らしちゃって。明日には届くから今日は我慢して」
「いや、文句を言ったわけではないんだ。今どきは避けて通れないからね」
「極力気をつけてはいるのだけれど、ハムとかベーコンとかはどうしても入っちゃってるんだよね。やっぱり値は張るけれど鎌倉の店のに戻そうかな」
古村さんが割り込む。
「うん、あそこのは旨いよな。昔ながらの製法を頑なに守っているし、使う調味料もすべて自然由来だもの。まあ値が張るのも納得できる味だ」
「わかりました。今日ちょっと行ってきますね」
僕は店が暇になる三時以降に出かけることにした。
「え? 鎌倉に行くの? 私も行きたいわ」
「いいよ。じゃあ一緒に行こうか」
古村さんがすかさず声を出した。
「じゃあ俺もいく。三沢が留守番な」
「いいよ、行っておいで」
どうやら三人で行くみたい。
この小旅行が裕子さんの気晴らしになると良いなぁ。
だって毎日あれほど多くの子供たちの面倒をひとりでみているのだもの。
まあ旅行って言っても日帰りだし、夜までには戻るのだけれどね。
いっそ泊まっちゃう?
「裕子ちゃんって行きたい場所とかあるの?」
古村さんの声に頷く裕子さん。
「ええ、もう一度行ってみたい場所があるの。松岡御所っていうところ」
「松岡御所? 御所が鎌倉にあるの?」
僕は素っ頓狂な声を出してしまった。
三沢さんが声を出して笑う。
「そりゃ知らなくて当たり前さ。松岡御所ってのは通称だし、知っている方が珍しい。本当の名前は東慶寺だよ。こういえばわかるかな? 駆け込み寺」
「聞いたことあるかも?」
本当は知らないけれど、知ったかぶりをした僕。
「なぜかはわからないのよ。でもどうしても行かなくちゃいけないって思うことがあるの。生きている時からもそうで、何度も行ったわ。どういうこと無いのよ? スピリチュアルな何かがあるとか、感情が抑えられなくなるとか、そういうことは全然ないのに、なぜか行きたくなるのよね。不思議だわ」
「きっと裕子ちゃんの魂の記憶だろうね。良いことか悪い事かはわからないけれど、魂に刻まれるほどの何かがあったのだろう。うん、わかった。まずはそこに行こうか」
そういうことなら臨時休業にして四人で一緒に行こうということになった。
本当は三沢さんもいきたかったみたい。
僕らは四人で鎌倉に飛び、まずは買い物をすることにした。
「全種類五つずつ」
店に入るなりそういう古村さんに視線が集まる。
そりゃそうだよね、そんな豪快な買い方って普通はしないもんね。
包装に時間がかかると言われた三沢さんが、すぐに戻れるから段ボール箱で良いと言ってまた全員を驚かせていた。
あまりの買い方に、飲食業者だと思われたみたいで、頼んでもいないのに少し割引してくれた。
確かに飲食業者だけれど、別に高くても良いんだよ? だって葉っぱだし。
「ちょっと置いてくるから、あそこでお茶でも飲んでいてよ」
かなりの重さの段ボールを軽々と持ち、古村さんがぽよんと消えた。
お金は三沢さんが払い、僕たちは古村さんが指さした店に入る。
ドアを開けると、一気にコーヒーの良い香りが鼻腔を擽ってきた。
自分以外の人が淹れるコーヒーなんていつぶりだろうか。
「私はコロンビア」
「私はモカにします」
「僕はブレンドで」
各々が注文していると、後ろからエスプレッソという声がした。
「早かったですね」
「ああ、大急ぎで戻ってきた。ちゃんと冷蔵庫にも入れたよ。デザートはどうした?」
「このあと食事でしょ?」
「関係ないさ」
そう言うと、ショーケースに並んでいるスイーツを全品ひとつずつ注文する古村さん。
なんだかテンション高いね? そんなに楽しいの? だとしたら僕も嬉しいよ。
「たまにはいいな、こういうのも」
「ああ、本当にいいな」
二匹の狐がコーヒーカップを鼻の前で揺らしながらしみじみと話している。
僕は勉強とばかりに、すべてのスイーツを一口ずつ食べてみた。
「どう?」
裕子さんが僕の顔を覗き込む。
「これは使えるね。作り方もわかるし、早速再現してみるよ」
「すごいね、聡志君って。私って美味しい~くらいしか思い浮かばないもん」
「裕子さんは料理はしないの?」
「するよ。でもあまり上手じゃないの。だからなるべくやりたくないわ」
僕は裕子さんの弱点を知って、少しだけ嬉しくなった。
「さあ、行こうか」
三沢さんと古村さんが立ち上がった。
「東慶寺なら一秒だな」
まあね、ルナール古書店から鎌倉も一秒だったけど。
古村さんが僕と裕子さんの手を取り、三沢さんが肩に手を置いた。
僕たちもできる瞬間移動だけれど、二人が一緒の時には必ずこうしてくれるんだ。
もう慣れたけれど、ほんの一瞬だけ体の芯がどこかに吸い込まれる感覚がある。
「この辺りは喫茶店が多いね」
僕たちは石段を登り、ゆっくりと庭園を歩いた。
「あれ? あそこ……」
僕が指をさした先には、全身やけどを負った小さな女の子が膝を抱えていた。
駆け寄ろうとする僕を追い越し、裕子さんが走る。
その姿は、はぐれた我が子をようやくみつけた母のようだった。




