29 裕子さんの試練
人間のお客が来るのは十二時過ぎと四時前で、後の時間は三沢さんと古村さんのたまり場のようなものだ。
そして時々神ジイと狐……変な店だよね。
とはいえ、当初の予想とは違って人間のお客もぽつぽつと来てくれるし、それに伴い古書の売り上げも伸びているらしい。
三沢さんと古村さんは、古書と喫茶で得た『人間のお金』は、全て孤児院に寄付している。
まあ、林に行けばそれこそ腐るほどあるからね? 葉っぱが。
コーヒーと簡単な軽食は作れるようになったけれど、焼き魚とか味噌汁とかは作れない。
どうしようかと考えていたが、何のことはない古村さんがちゃっちゃっと作ってしまった。
「美味しいですね。薩摩芋の味噌汁ってなんだか懐かしいような気がします」
「そりゃそうだろう。俺はよくお前のばあちゃんにごちそうになったよ。そう言えばとんと旨い稲荷ずしを喰ってないなぁ。そもそもの豆腐が不味いんだよなぁ。だから必然的に油揚げも不味い」
「そうなんですか? 豆腐なんてどれも同じだと思ってたけど」
「バカ舌だなぁ。まあ最近の子はみんなそうだよ。本当の旨さというものを知らない」
「そんなこと言って古村さんの好物ってハンバーガーショップのポテトフライじゃん」
「ははは! 間違いない」
そんなバカ話をしていたら、裕子さんがすうっと帰ってきた。
なんだかものすごく疲れて見える。
「お帰り。裕子さん……大丈夫?」
裕子さんは頷くだけで声は出さなかった。
「座りなよ。ほら、こっち」
古村さんがテーブル席に裕子さんを連れて行き、僕は三沢さんを呼びに走った。
喫茶部と古書店は渡り廊下のようなもので繋がっている。
屋根はあるけれど壁は無く、海風を直接感じる僕の好きな場所だ。
「何してるの?」
こちらに背を向けて狐がポツンと座っていた。
「考え事だ。気にするな」
「気になるよ。お腹空いているならいつものハムでも切ろうか?」
狐が振り向いた。
「今日は鶏の気分だ。茹でてくれ」
「了解。ちょっと三沢さん呼んでくるから店で待っててよ」
「いや、我が行こう。お前は戻れ」
相変わらず横柄な物言いをする狐だ。
ふとさっきまで狐が座っていた場所を見ると、どろどろとした赤黒い塊が落ちていた。
お腹が空き過ぎて野鳥でも狩ったのだろうか。
僕は急いで寸胴鍋を火にかけた。
「三沢は?」
古村さんの声だ。
「狐さんが呼びに行ってくれました」
「ああ、あいつか」
僕はカウンターに戻ってチキンハムを仕込もうと準備していた鶏肉を冷蔵庫から出した。
「狐のメシ?」
「ええ、お腹が空いてるみたい」
「随分頑張ったみたいだから、腹も減ろうってもんさ。たくさん食わしてやってくれ」
頷いた僕は、追加でもうひとつ鶏モモ肉を鍋に入れた。
裕子さんは焦点のあっていないような表情のまま、ずっと海に視線を向けている。
きっと見ているようで何も見ていないのだろう。
もし何かを見ているとしたら、自分が生きていた頃の走馬灯だろうか。
僕はそうだったけれど、人によって違うのかな。
「おかえり、裕子ちゃん。ご苦労だったね」
裕子さんが我に返ったように三沢さんを見た。
「聞いたよ。辛かったね」
「そうですね……知りたくなかったかも。でも知らないとダメって狐さんが。あっ、知ってました? あの狐さんってウカノミタマって名前なんですって」
「ああ、知ってた。っていうか忘れてたけど」
「女神様なんですってね。なんとなくイメージで男神だと思ってたからびっくりしちゃいましたよ」
裕子さんはものすごく頑張って明るく振る舞っているように見える。
せめて僕たちの前では自然体でいてほしいなって思うのは我儘だろうか。
「それでね……父と母が今どうしているかを覗きに連れて行かれたの。想像をしていなかったわけでは無いの。でも……なんていうかなぁ」
古村さんがボソッと言う。
「不幸になっていればいいって思ってしまう自分は嫌だけれど、幸せだとしたらもっと嫌……そんな感じかな?」
「そうね。本当にそうだわ」
「で? どうだったの?」
「お父さんはとにかく孤独だったわ。何もない部屋でぼんやり座っているだけだったもの。一緒に逃げた人の顔を見てやろうって思ってたのに、きっともう一緒じゃないのね」
「母親は?」
「お母さんは病院にいたわ。たぶんもう長くないだろうって狐さんが言ってた。体がね、ボロボロなんですって。魂も汚れてるから生まれ変わるのには時間がかかるみたい」
「なるほど。生きてはいたんだ」
「うん、生きてはいたわね」
「それが君の修行?」
「そうみたい。お父さんを見た時に、心が悲鳴を上げたわ。この人のせいで私はって思って。でも、なんでだろう……もうどうでも良いってしか思えなかったわ。せいぜい頑張って長生きしてくださいねって感じかなぁ。お父さんと同じ顔をした知らない人を見ているような気分」
「それは重畳。母親の方は?」
裕子さんがフッと笑いともつかない息を吐いた。
「顔がどす黒くてやせ細っていて……管が鼻とか腕とか一杯繋がれてたの。狐さんが長くないって言って、私は『ああ、そんな感じね』としか思わなかった。でもね、怒り? お父さんの時には感じなかった怒りに似た……モヤモヤ? 違うなぁ。ズキズキ? そんな痛みみたいなものがここに……」
そう言うと裕子さんは春色のワンピースの胸のあたりをグシャッと握った。
三沢さんが静かな声で言う。
「親とはいえ同性だからかなぁ。父親って男じゃない? だから理解できない部分があるっていうのを自然に容認するんじゃないかな。母親は同じ女だから、その理解できない部分が腹立たしく感じてしまうのだと思う。ものすごく大きな意味での同族嫌悪みたいなものさ」
裕子さんは三沢さんの顔を見て微笑んだ。
「そうかもしれない……でもね、ザマアミロとは思えなかったんだよね」
「それで良いんだよ。事実を事実として淡々と受け入れるのが大事なんだ。それで修行の方は終わったのかな?」
「どうなんだろ? でもね、一旦は成仏しなさいって言われたわ。その上で、残るという意思があるなら、呼べって」
三沢さんと古村さんが頷きあっている。
なんだろ?
「ねえ聡志、コーヒー淹れてくれない? ルナールブレンドがいいな。裕子ちゃんも飲むでしょ? 古村は?」
「俺も一緒のやつ」
足元で鶏肉を嚙み砕いている狐を踏まないように、僕は四人分のコーヒーを準備した。
「本当に良い香りね」
裕子さんはまだ現身を使えない。
今の状況を見た人間には、三沢さんと古村さんが二人で話しているように映るだろう。
裕子さんの両親は選択を誤った。
そしてそのことを後悔しているのかどうかは、僕にも裕子さんにもわからない。
生きているものはすべからくいつかはこの星を去る日を迎える。
その日までの生き様など去る者にとっては何の関係もない。
それらを尊ぶのは残る者たちの自由だ。
海に投げ捨てられた子供も、英雄として語り継がれる人も、必ず死ぬのだ。
そしてその瞬間、魂から放たれた苦しみや悲しみは海へと還る。
そんなことを漠然と思いながら、僕は三つのカップをテーブルへ運んだ。
波の音がざわめくように僕たちを包む。
結局その日は誰も来ず、僕たちはテーブルを囲んで塩サバと薩摩芋の味噌汁を楽しんだだけの一日だった。




