28 サウダージ
「早かったかの?」
「いらっしゃいませ。何度も言ってますけどうちは十時開店です」
「今は?」
「八時ですね」
「ふぅん。まあよかろう」
言っても無駄だった。
「あの別嬪さんはどこかの?」
「今は古村さんと一緒に階段の掃除をしてくれています」
「また金集めか。あの狐も懲りん奴じゃの」
僕は神ジイお気に入りのブルーマウンテンを取り出した。
フラスコに湯を入れてアルコールランプに火をつける。
下から湧き上がる泡が徐々に大きくなっていく。
「お前から見て彼女はどうかの?」
「素敵な人ですよ。優しさがにじみ出てるって感じかなぁ。魂もすごくきれいな色をしてました。でもね、心が傷みすぎちゃってて見てるだけでも辛くなるんです」
「心か……のう、ずっと前にワシが出した宿題の答えは出たかの?」
「神とは何かですよね。みんな知っているけれど、それを確かめた人はいない……難しいですよ。思いつくことはたくさんあったのですが、それのどれが正解なのかがわかりません」
「ほほほっ、ワシは答えはひとつなどとは言うてはおらんぞ? でも最後は一つに帰結するのじゃがな」
「それが神ってこと?」
神ジイがふっと顔を上げた。
「なんじゃ、お前もあながちバカではないのじゃなぁ」
ケーキをサービスしようかなって思っていたけれど、やめた。
「そんなケツの穴の小さいことを言うな。全部出せ」
いい加減に思考を読むのはやめてほしい。
漏斗が勢いよく湯を吸い上げ、コーヒーの良い香りが僕たちを包んだ。
「美しい。実に美しいわい」
僕は今日のデザート三種を皿に盛って神ジイの前に出した。
カップは本人が持ち込んできた有田焼だ。
どうせその辺で拾った貝殻で買ったんだろうけれどね。
「おう! もう来てたの? 年寄りは朝が早くていけないねぇ」
古村さんが帰ってきたみたいだ。
後ろから裕子さんが顔を出してぺこんと頭を下げている。
神ジイの横に無遠慮に座った古村さんにもコーヒーを出した。
「裕子さんは何にする?」
「私は焙じ茶が良いなぁ。本当に美味しかったもの」
お安い御用だ。
「なるほどのう。うん、なかなか良いのう」
神ジイが裕子さんを見てニタニタと笑った。
「あんた、苦労しなさったのう。でもまだ頑張るのかの?」
裕子さんが頷く。
「子供の助けになるのであれば」
「ほうほう……なるほどの」
神ジイの足元に座っていた狐がむっくりと起き上がった。
「こちらに来なさい」
狐の発した言葉に憑りつかれたように裕子さんがふわっと浮いた。
誰も何も言わない。
狐と裕子さんは、そのままガラス窓をすり抜けて林の中へと消えていった。
「早そうだと思ったのだけれど?」
古村さんが神ジイに聞いた。
「ああ、すぐじゃろう。耐えられればな」
三沢さんが入ってきた。
「おはよう。良い香りで目が覚めたよ。私も同じのを貰おうかな」
頷いた僕はフラスコに湯を注いだ。
コーヒーは不思議だ。
同じ豆でも淹れるたびに香りが違うのだから。
今日の香りはいつもより甘く感じる。
僕の心が穏やかだからだろうか。
「行きました?」
「ああ、すぐに戻るじゃろう」
「耐えられますかね」
「どうじゃろうのう。魂はキレイなままじゃが心がひび割れとるでのう」
三人は黙ったままガラス越しの海を見ている。
もうすぐ春が来るのだろう。
目の前の枝先に小さな新芽が見える。
「ではワシは戻るかの」
神ジイが立ち上がる。
「旨いものでも作ってやれ。あの子は塩サバが好きじゃ。大根おろしをたっぷり添えてやってくれ。味噌汁には薩摩芋を入れてやれば喜ぶぞ」
頷いた古村さんがぽわんと消えた。
今日はどこまで行くのだろう。
塩サバと言えば焼津かなぁ……薩摩芋ってやっぱり鹿児島?
静かな時間が流れる。
三沢さんがオーディオのスイッチを入れた。
波の音が僕を包み込む。
この音を聞くたびに、なぜか懐かしい気持ちになるのはなぜだろう。
何なのだ、この甘く切ないサウダージは。




