21 勇者
工事は急ピッチで進んでいる。
僕は厨房で毎日麦茶を焙じながら、おどおどしながら店を覗く子供たちの魂と話をする日常に戻っていた。
三沢さんと古村さんが仕入れてくる生豆を、焙煎器にセットするのも慣れたものだ。
基本的に四日分を焙煎するのだが、品種別におこなうので、結果として毎日焙煎器は稼働していることになる。
「上手くなったなぁ。最初はおっかなびっくりだったのに、慣れたもんじゃないか。手際が良いよ。それに香りもちゃんと引き出せている。合格だな」
三沢さんが、今日も大好きなマンデリンを楽しみながら褒めてくれた。
でもなんだか疲れているみたいだ。
「どうしたの? なんだか疲れているみたい」
「うん、わかる?」
そう言うと、三沢さんはブラウニーにフォークを突き立てた。
「聞くしかできないけれど、僕で良ければ聞きますよ」
「心配かけちゃったな。それほどのことではないんだよ。ただ、昨日送った魂の残滓が消えなくてね。随分可哀そうな子だったから」
僕は自分のためのコーヒーを淹れながら、昨日の子を思い出していた。
その子は一人で海岸から階段を上がってきたのだ。
店の前を掃除していた僕の前で立ち止まり、どうしても死にたくないのだと訴えた。
「死にたくないって……君はもう死んじゃってるでしょ? 自分で分かってるからここに来たんだよね?」
「だから! 何とかしてってお願いに来たの! 私が死んじゃうと今度はみっくんが殴られちゃうんだもん。私は慣れているけど、みっくんはまだ三つだから無理なんだもん!」
店の中に招き入れ、三沢さんと一緒に話を聞いた。
気の強そうな口調だったが、話しているうちに泣き出してしまったその子供は、黒い血のシミがついた薄いトレーナーを着た女の子だ。
「みっくんが可哀そうだよぉぉぉぉ」
どうやら、この姉弟は家庭内暴力による酷い虐待を受けていたようだ。
まだ幼い弟を庇って、自分がより多くの拳を受けてきたのだろう。
青というよりどす黒く腫れあがった右頬が、その衝撃の強さを物語っていた。
「誰にぶたれたの?」
「ママのお友達のお兄ちゃん」
僕と三沢さんは顔を見合わせてしまった。
「その人が殴るの?」
幸子と名乗ったその子は、悲しそうな顔でゆっくりと言葉を紡いだ。
「棒で叩かれたり、蹴られたりするの。ママとお兄ちゃんが仲良しするときは、みっくんと二人でベランダに出てるの。みっくんはまだ子供だから、夏だとぐったりしちゃうし、冬だと凍えちゃうでしょ? だから私が守らなくちゃ。でもね、声を出しちゃダメなんだよ? プロレスごっこで壁に投げられちゃうもん」
君も十分子供だよとは口が裂けても言えないと思った。
「仲良しが終わると入れてくれるのかい?」
「うん……」
どうやら違うみたいだね。
「ママは? ママは庇ってくれなかったの?」
「ママはお兄ちゃんの言うことを聞けって。お兄ちゃんが殴るのは躾なんだって」
三沢さんが深い溜息を吐く。
僕は幸子ちゃんにカップケーキを渡しながら聞いた。
「幸子ちゃんは海から来たよね? ずっと海にいたの?」
カップケーキを宝物のように両手で持ちながら、ゆっくりと首を振った。
「わかんない。途中で出会った子がここに行くと助けてもらえるよって教えてくれたの」
「そうか……」
僕は掛ける言葉を持たなかった。
いったいこの子が何をしたというのだろう。
自分で産んだ子よりも、自分に快楽を与えてくれる男を優先する母親に絶望感を覚える。
そりゃあ、あなたにも何か事情はあるのだろう。
毎日が辛すぎて、そこに逃げるしか無いと思ってしまったのかもしれない。
百歩譲れば、理解できないこともない。
きっと生き辛い人生なのだろう。
でもね、だからって子供を犠牲にするなよ……頼むからさぁ。
せめて暴力に気づいたら守ってやれよ。
僕は泣きたくなってきた。
「ママは君が動かなくなった時、何か言ってた?」
幸子ちゃんは暫し考えてから口を開いた。
「すごく困ってた。それからすぐに私の体を押し入れに入れたの。それから何回かみっくんの泣き声が聞こえて、助けようとしたけどダメだったから、お隣のおじさんに言いに行ったんだけど、お引越ししてて……そのお隣に行ったけど誰もいなくて。困って帰ったら、私の体が無くなってたの」
「死体遺棄か」
三沢さんの言葉が耳に纏わりつく。
「体が無いと大変だと思って、ママを探しに出たら、もう海の中にいたの」
後ろからぬっと古村さんが現れた。
「ねえ幸子ちゃん、どこに住んでいたか言える?」
「うん、言えるよ」
「おじちゃんに教えてよ。みっくんの様子を見てきてあげるから」
幸子ちゃんの顔がパッと輝いた。
きっと教え込まれたのだろう、郵便番号までサラサラと口にする。
「じゃあちょっと行ってくるね。すぐに戻るから、幸子ちゃんはここで待っててね」
「おじちゃん、これをみっくんに渡してくれる? みっくん絶対にお腹空いてるから。ちゃんと座ってゆっくり食べなさいって言ってね」
僕が渡したカップケーキを古村さんの前に突き出した。
「うん、わかった。必ず渡すね」
それを受け取った古村さんは、僕たちには何も言わずに店を出た。
その後ろ姿を見送りながら、三沢さんが僕にだけ聞こえるように言う。
「まだ住んでるかな。この子はどのくらい彷徨っていたのだろうか」
その言葉に僕は愕然とした。
そうか、この子はずっと海の中で帰り道を探していたんだ。
まだ小さい弟を守るために、なんとかして戻ろうとしていたんだろう。
「君は勇者だね」
僕の声に幸子ちゃんは小首を傾げた。
「うん、君は勇者だ。怪物から弟を守ったんだもの」
幸子ちゃんは意味が分からないのか曖昧な微笑みを浮かべている。
「さあ、これは勇者の取り分だ。みっくんにはさっきのおじちゃんが渡してくれているから、遠慮なく食べなさい」
三沢さんが新しいカップケーキを幸子ちゃんに手渡した。
「ありがとうございます。いただきます」
一真君といい幸子ちゃんといい、なぜ理不尽に命を刈り取られてしまった子供が、これほど礼儀正しいのだろうか。
僕がそんなことを考えている間に、三沢さんが幸子ちゃんを古書店の二階に連れて行った。
きっと今から自分自身の現状を説明してやるのだろう。
でもきっとあの子は納得しない。
だって彼女は弟のために戦う勇者なのだから。
「三沢さん、僕も行きます」
幸子ちゃんの手を引いていた三沢さんが振り向いた。
「いや、聡志はここにいた方がいい。それより幸子ちゃんにココアを作ってやってくれないか? どうやらひどく体を冷やしてしまったみたいだ」
「え……はい、わかりました」
僕は何をしようとしていたのだろう。
まるであの狐たちのように、彷徨う魂を他の星に送ってやれるような気になっていた。
そうだよね三沢さん、僕は僕にできることをすべきだよね。
「ココアか……その子の生きた年代によって好みは違うよな。最近の子だとフレッシュジュースとかが良いのかな」
僕は厨房の棚に手を伸ばし、ココアの缶を取り出した。
あの子の話を聞く三沢さんは、きっとまた深い傷を負うのだろう。
「それにしても古村さんはどこに行ったんだ?」
口ではそう言ったが、僕も三沢さんも知っている。
きっと古村さんは……
「ただいま。ねえ聡志、エスプレッソ淹れてよ。ダブル……いや、トリプルで頼む」
僕が振り返ると古村さんが立っていた。
「どうでした?」
「予想通りだな。みっくんはもう逝ってたよ。どうやら母親の両親が送ったみたいだな」
「あの二人は?」
「男の方は母親に刺されて死んだらしい。母親は服役中だった。出られたとしてもまともではいられないんじゃないかな」
「刺すならもっと早くやっていれば良かったんだ! 幸子ちゃんは無駄死にじゃないか!」
僕の声に古村さんが驚いた顔をした。
「おいおい、どうした? お前らしくもない。もしかしてこの前の子のことを引き摺っているのか?」
「そうかもしれません」
「あのなぁ聡志」
古村さんが厨房の椅子を引き寄せて、僕に座るよう促した。




