2 初バイト
もうすぐ夏休みというある日の朝、僕が二階から降りると、ばあちゃんはもう出掛けた後だった。
珍しく布団が敷きっぱなしになっている。
ふと見ると、その布団は随分草臥れていた。
その時僕は、ばあちゃんに新しい布団をプレゼントしようと思い立ったが、小遣いがあるわけじゃないし、貯金もない。
そんな僕がお金を稼ぐには、夏休みにバイトするしかないのはわかっている。
でも、同級生達みたいにスーパーとか、喫茶店とかの仕事は僕の顔では絶対に無理だ。
きれいな海だけが自慢のこの小さな町で、僕のように醜い顔をした人間が働ける場所はとても少ないのだと改めて思い知った。
海に降りる階段の上で、自転車を停めて夕日を眺めながら、道端で拾った求人雑誌を握って溜息を吐いていた僕に、階段を上がってきたチャラそうなおじさんが声を掛けてきた。
「バイト探してんの? 夏休みだけで良いならうちで働く?」
前髪だけ海と同じ色に染めたそのおじさんは、ニコニコと人懐こい顔をしていた。
「良いのですか? 僕、こんな顔ですけど」
僕は傷を見せつけるように顔を突き出した。
「別に関係ないさ。まあ、君が気になるなら裏方でもやるかい? きついけど時給は弾むぜ」
「どんな仕事ですか?」
僕の質問におじさんは丁寧に答えてくれた。
これなら必要以上に人に会うことは無いと思った僕は即答した。
「よろしくお願いします」
「おう、来週から始めるから都合の良い日から来てよ。俺はこの夏だけの雇われだから、気軽に店長さんとでも呼んでくれ」
こうして僕の人生初バイトが始まった。
バイトをすると言ったらばあちゃんは凄く喜んだけれど、同じくらい心配もしていた。
まあ、きっと気持ち悪がられたりいじわるされたりするだろうけれど、僕には目標があるからそんなことには負けない。
だって僕は死ぬまでこの顔のままだし、自分ではどうしようもないことで悩んでも仕方がないしね。
「お疲れさまでした」
「ああ、お疲れさん。明日も頼むよ」
僕は汗まみれのタオルを首にかけて、海岸から駐車場に続く階段の踊り場までを一気に駆け上がった。
コンクリートでできたこの階段は、僕がこの町に来るずっと前からあるらしい。
そして『ルナール古書店』も、ずっとそこにあるってばあちゃんが言っていた。
「あれ? 珍しいな」
広い踊り場の奥にある林の中に半分埋もれるように建っている『ルナール古書店』の前に、男の子が佇んでいる。
夕方というには遅すぎる時間だし、どう見ても小学校の一年生か二年生だろう。
しかも、周りに保護者らしき人はいない。
入るのを躊躇しているのか、ドアを開けずに中を覗いているその子に僕は声を掛けた。
「入りたいの?」
そう言いながら、僕は首にかけたタオルで汗を拭く振りをして顔の傷を隠す。
驚いた顔で振り返ったその子は、オドオドと頷いて見せた。
「お父さんかお母さんは?」
俯いて首を振る。
きっと迷子だ。
面倒なことに関わってしまったかもしれない。
「とりあえず入ってみる?」
僕はその子を促して古書店のドアを開けた。
「すみません、ごめんください」
声をかけるとすぐに奥から返事があった。
「は~い、いらっしゃい」
「あの、この子がお店の前で困ってたから」
眼鏡をかけたお兄さんが、じっとこちらを見つめた後、まず僕に話しかけてきた。
「君は海の家でバイトしている聡志君だね」
僕の返事を待たずに、今度は不安そうな男の子に優しく話しかける。
「決心がついたの?」
黙ったまま頷く男の子。
いったい何の決心がついたのだろう。
高い本でも買う気なのだろうか。
興味は尽きないが、ばあちゃんが待っていると思った僕は、お兄さんに帰る旨を伝えて店を出た。
コンクリートの階段を駆け上がり、ガードレールにチェーンで繋げていた自転車に跨る。
ふと振り返ると『ルナール古書店』の灯りがぽうっと消えた。
「やっぱり迷子だったんだな。警察に連れて行くのかな」
僕はわざわざ声に出してそう言ってから、ペダルに足をかけた。
海風が半分しかない僕の耳を無遠慮に撫でる。
今日の海はとびきり静かで、いつもはうるさいほど聞こえる潮騒の音がしなかった。