16 狐と海
そして三か月が過ぎ、ドリップに関しては何も教えることが無いと言われた僕は、その時間に自家焙煎の授業を受けることになった。
講師が違うし使用する機器も違うということで、追加の受講料を支払う羽目になったが、古村さんも三沢さんも絶対にその方がいいと言う。
「手綱を使う方法もありますが、お店で出すコーヒーなら業務用の焙煎機が一番ですよ。お値段はそれなりにしますが、自由度も高いですし、何より手間がかかりません」
講師の言葉を二人に話すと難色を示されてしまった。
「それじゃあ面白くないな。どうせなら手でやろうぜ」
いやいや、やるのは僕だからね?
「そうだよな。せっかく生豆から炒るのだから遠赤が良いなぁ」
遠赤? 炭でやれっていうの?
「しかし、失敗するリスクを考えると焙煎器も捨てがたい。どうせ購入するのなら冷却機能付きが良いんじゃないか?」
どうせなら、教室で使っている焙煎器にしてくれないかな。
そんな僕の心の声は届かず、二人はカタログを眺めながら頭をひねっている。
二人に置き去りにされた僕は、いつものようにエスプレッソマシンにスイッチを入れ、フレンチプレスを棚から取り出した。
コーヒーの素敵な香りが漂い始めると、二人は何も言わずにチョコレートのお菓子を皿に並べ始める。
どうやら今日はドライフルーツをチョココーティングしたのを選んだみたいだ。
「聡志はどう思う?」
今更聞かれてもねぇ。
「特に意見は無いですよ。ただ、失敗するのはコーヒー豆に申し訳ないとは思います」
「そうだよなぁ」
結局二人が選んだのは業務用の焙煎機と、手動式の遠赤焙煎器だった。
お客様に出すものは業務用で焙煎し、自分たち用のは遠赤でやれってことかな?
次のクラスで講師にそれを伝えると、ベストチョイスだと褒められた。
やっぱり僕は口を挟まない方が正解みたいだね。
「松木さんは自家焙煎までするの? 凄いね」
このクラスで初日から話しかけてくれたあの女性が声をかけてきた。
彼女の名前は山田玲子。
ご主人と離婚して、今はひとりで暮らしているらしい。
「うん、僕に拘りはないのだけれど、オーナーがうるさいんだよ」
「そうかぁ、どうせやるならそこまでやりたいっていう気持ちはわかるなぁ。軽食の方は? メニューは増えた?」
「ピザトーストとかチーズケーキの定番メニューはなんとかクリアしたけれど、ピラフとかパスタが難しくて。美味しくないっていうか、味がよく分からない」
「そっかぁ、まあ料理なんて慣れだから。回数をこなすしかないよ」
彼女はネルドリップに苦戦し、僕は軽食作りに悩んでいる。
その日に習ったメニューは、帰ると必ず試食してもらうのだけれど、ピザトーストは『ありきたり』で、チーズケーキは『買った方がうまい』というかなり辛辣だ。
「まあそのうちに食えるもんができるようになるさ」
その言葉に励まされ、僕は一生懸命オリジナルメニューを考えたが、なかなかOKはもらえないまま時間だけが過ぎていく。
そんな話を山田さんにすると、彼女がガレットという料理を教えてくれた。
そば粉で焼くクレープのようなもので、トッピングによって食事にもデザートにもなる便利なメニューだ。
「これはいいな。合格だ」
二人から太鼓判をいただいたのは、アンチョビと卵のものと、ほうれん草とハムとチーズの二種類だった。
ちなみに二人の好きなチョコレートを使ってバナナガレットを焼いてみたが、そば粉を使う意味がないと一蹴されたんだよね……残念。
なんだか毎日が消えるように過ぎていく。
そもそも魂だけの僕らに睡眠は必要無いけれど、妙に疲れて動けなくなる日もあって、そんな時は必ずと言ってよいほど、あの狐が現れる。
疲れると魂の匂いが悪くなるからわかるらしい。
「お疲れさん。なあ聡志、今日は海岸にいってみようよ」
気安く誘ってくる狐と一緒に、僕はまだ肌寒い海岸に降りた。
「まだ人はいないね」
「ああ、人間って『海』といえば『夏』という固定概念を持っているからな。本当に美しいのは冬の海なのに勿体ないことだ」
狐が言う通り冬の海は特に美しい。
打ち寄せる波が、まるで舞姫のオペラグローブのように美しい。
誘われるままこの身を投じたら、永遠の安らぎを得られるだろうか。
「海に還れば安らげるかな」
僕の言葉に狐が振り向いた。
「止めておけ。安らぎなんてものはどこにもないよ」
いつもは茶化してばかりの狐の言葉が、今日は妙に重たく感じる。
「安らぎって何だろうね」
「生まれた瞬間に手放すものさ。この星では取り戻せない」
「なぜ生まれるの?」
僕の問いに少しの間考えた狐が、ニヤッと口角を上げて鋭い牙を見せた。
「死ぬためさ」
「なぜ死ぬの?」
「生まれるためだよ」
僕たちの会話に意味などない。
遠くでウミネコが笑っている。
なぜ僕はここに居るのだろうか。




