13 魂の記憶
最初に口を開いたのは古村さんだった。
「聡志のばあちゃんはね、あの時あの丘で生き残った人なんだ。まだ幼かったから記憶はほとんどないだろうに、私たちの祠によく供え物をしてくれていたんだよ。正直言うと、彼女があの丘にいたどの子かなんてさっぱりわからないし、僕らの母親や兄弟の肉を口にしていたのかどうかも知らない。僕らにとっての事実は、時々彼女が届けてくれたお稲荷さんがとても美味しかったってことだけさ。それがきっかけで時々話をするようになったんだよね」
僕は言葉を発することができなかった。
そうか……ばあちゃんもあの地獄の中にいたのか。
それでもあれほど優しい微笑みを浮かべることができて、迷い込んできた孫の魂を抱きしめることができるなんて、どれほど強い人だったのか。
魂に前世の記憶はないと言われているけれど、もしかしたら大きなインパクトを受けた出来事とか、その時の感情は細胞の中に沈殿しているのかもしれない。
だってあの丘を見ると、今世の僕も切ないような気持ちになるんだもの。
悲しい記憶に引きずられそうになった僕は、慌てて話を変えた。
「やっぱり狐ってお稲荷さんが好きなんですか?」
頓珍漢な質問を飛ばした僕に、三沢さんが飲みかけていたお茶を吹いた。
「いや、別に稲荷寿司が好きなわけじゃないよ。ただ、昔から狐は油が好物でね、その油がたくさん染み込んでいるのが油揚げってことさ」
「狐の好物が油? 植物性? それとも動物性の油かな」
「狐は雑食だから植物性でも動物性でも選り好みはしないよ。私個人の好みでいうと、シード系が好きかな」
真面目に答える三沢さんの言葉に、古村さんが笑いながら続けた。
「狐は何でも食うんだよ。肉でも魚でも虫でも木の実でもね。好き嫌いなんて言えるような環境で生きているわけじゃないもの。昔は十年くらいの寿命だったらしいけれど、最近だと四年も生きていればいい方じゃないかな」
「えっ! そんなに短いの? 知らなかった」
僕が驚いたことに二人は驚いていた。
「まあ、寿命が縮まった一番の理由は交通事故だ。野生動物なんてみんなそんなもんだよ」
二人は笑っているが、人という動物の罪深さを改めて考えてしまった。
少し暗い顔をしてしまったのだろう、古村さんが明るい声で僕に言う。
「ばあちゃんの家はそのままになっているからさ、明日にでも行ってみるよ。ダメ元で」
「え? あの家ってまだあるんですか?」
「うん、聡志のお父さんの弟が住んでる。お前も何度か会っただろ? あいつのことだからすぐに売るんだろうと思ってたのに、舞い戻ってきてさ。何か思うところがあるんだろうね」
「ええ、ぜひお願いします」
僕の返事に頷いた二人は、それぞれの仕事へと戻って行った。
食器を片づけながら、僕は久しぶりにばあちゃんのことを思いだそうとしたのだが、あれほど何度も見たはずの笑顔さえ思い出せないことに愕然とした。
「え? なぜ?」
洗い物の手を止めて、じっくりと記憶をたどる。
「ダメだ……忘れちゃいけないのに」
僕の独り言を海風が運んでいく。
それを追いかけるように僕は勝手口から外へ出た。
「あ……ここからもあの丘が見えるんだな」
あの丘にはいったいどれほどの『思い』が漂っているのだろうか。
そこに留まり続けるその『思い』は、いったい誰が救うというのだろうか。
「はぁぁぁぁ」
僕は大きく深呼吸をして、丘から海へと視線をずらした。
パキッと落枝を踏み折る音がして、振り返ると一匹の狐が僕を見上げている。
「大切な人を思い出せないのか? だとしたら良いことだ。その人たちは上手に成仏したってことだからな。生きていた頃の楽しかったことも嬉しかったことも、怒りも悲しみも全て海に還して、いるべき場所に戻ったのだ」
「喜びも悲しみも全部? じゃあ僕のことも?」
「そうだ、全部だ。それを成仏という」
そうか……ばあちゃんの魂は、もう次に向かって準備を始めたんだね。
もう会ってもわからないけれど、僕はばあちゃんという人が僕を慈しんでくれたということを絶対に忘れないよ。
たとえその姿かたちを忘れても、確かにこの星に存在していたということだけは絶対に覚えているからね。
「この星での事はすべてこの星の海に還して、無辜の魂だけがもとの場所へと帰るんだね」
僕は『母なる海』という言葉の意味を深く理解した。
狐が海に視線を戻した僕に話しかける。
「あの丘に行ってみないか?」
「え? あの丘に?」
「我が付き合ってやろう」
そう言うと、狐はゆっくりと歩き出した。
木々の間を抜け、急な斜面をものともせずに、ただまっすぐ丘を目指して行く。
途中何度も滑り落ちそうになったけれど、不思議と足を踏み外すこともなく、いつの間にか僕は空を飛んでいた。
「ははは! 我らはもともと浮遊している存在だからな。飛ぶ方が歩くよりも上手いのだよ。さっきもそうだっただろう? 何度も木にぶつかったが、すり抜けるだろ? 我らはそういう存在なのだ」
「実体がないってこと? それなら十分理解したよ」
そんな話をしている間に、今は軽量鉄骨の骨組みだけになっているあの海の家の上を通過した。
一緒にバイトしていた先輩たちは、今どこで何をしているのだろうか。
「頭で理解するのと、心で理解するのとは違う。心から納得したことは魂の記憶になるんだ。そして次の人生に教訓として受け継がれる。それを何度も繰り返しているうちに、生き物は『危険』や『悪意』や『欺瞞』を未然に防ぐことができるようになる。年寄りがよく言うだろ? 『虫の知らせ』ってやつ。人間以外なら『本能』っていうかな。それは魂に刻まれた記憶からの警告だ」
「魂が学習するってこと?」
「まあ、平たく言うとそうだ。頭で理解しているだけだと、体が死んだらそこで終わりだ。しかし魂に残った記憶はどうやったって消えない。わかりやすく言うならトラウマみたいなものだ。でも残るのは悪い事ばかりじゃない。心から美しいと思えた景色なども魂に刻まれる。トラウマの場合はフラッシュバックというが、美しい記憶はデジャヴというな」
「デジャブか……僕は経験が無いんだよね、デジャヴって。初めての場所や経験に既視感を覚えることでしょ?」
「そうだ。まあ聡志の場合は体が生きていた時間が短いから仕方がない。でも、ずっとこの星に留まるのだろう? そのうちに嫌というほど経験することになるさ」
潮の匂いが強くなり、僕たちは丘の上に舞い降りた。
「何も感じないか?」
狐の問いに、僕は答えることができなかった。
ゆっくりと首を横に振った僕に狐が言う。
「まあ、いいさ。時間はたっぷりある。焦る必要はない」
そう言うと、その狐はフッと煙のように消えた。




