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公式企画

モミジと楓

作者: 夏月七葉

 薄暗くて長い廊下を駆け足で進む。

 左手には襖がずらりと並び、右手の壁には時折円窓が行き過ぎる。円窓の障子から薄っすらと光が差し込み、それが廊下をほんのりと明るくさせていた。


 少女――モミジは小さな身体を懸命に動かして、軽い足音を立てる。左右で結われたおさげ髪がピョンピョンと跳ね、花柄のワンピースの裾が風に翻った。

 モミジは一部屋の前で止まると、その勢いのまま一息に襖を開けた。


 四畳半の狭い部屋。三方の壁に作りつけられた本棚には、地震が起きても落ちてくる心配はないだろうというほどぎっしりと隙間なく本が詰め込まれている。

 そのせいで圧迫感を覚えるが、襖の正面で大きな円窓が月光を取り込み、柔らかな光で室内を照らしていた。


 その円窓の下に置かれた狭い書き物机の前に、一人の男が胡坐を掻いている。

 秋の夜を思わせる濃い青の着物を着崩して、片眼鏡をかけた横顔の視線は手許の書物に落ちる。月の光を受けた黒髪が、窓から入った夜風に揺れた。


 まるで一枚の日本画のようだ。

 彼はいつも不思議な空気を纏い、存在すらも曖昧に感じることが多々あった。この世のものとは思えない妖艶な、微かな、幻怪な――とにかく掴み所のない雰囲気のヒトだ。正直なところ、人間であるかどうかも怪しい。

 見た目は二十代後半くらいに見えるが、実年齢は不明だ。随分年寄りのように思える時もあるし、突然幼児のような言動をする場合もある。


 ふっと何かに気づいたように顔を上げ、男はモミジの方を向いた。片眼鏡の細い鎖が揺れる。


「おや、どうしたんだい?」

「決心がつきました」


 モミジは男の目を真っ直ぐに見た。

 彼の瞳は闇のように黒く、あまり感情を映さない。それを見つめているだけで吸い込まれそうな怖さを覚えるが、モミジは逸らしそうになるのを堪えて両掌を握り締めた。


 すると男は目元を和らげて、膝の上に広げていた本を書き物机に伏せて置いた。


「本当に、良いんだね?」

「はい」


 念を押され、しっかりと頷いてみせる。


 最初に提案をされた時は、迷いがあった。不安も恐怖も一緒くたになって、気持ちが不安定になった。

 それでも、やりたいと思った。やらなければ、という使命感ではない。心からそうしたいと願う自分がいた。

 だから、迷いは断ち切った。自分がやりたいようにやる。それで良いではないか。


「それじゃ、早速始めるよ」


 男が目を瞑る。すると窓から風が入って、男の着物とモミジのスカートの裾を撫でる。

 薄く目を開けた彼が少し笑って、右手を顔の横に掲げた。


「――良い旅を」


 鳴らされた指の音が耳に反響して、脳裏に焼き付く感覚がした。


   *


 楽しそうな声がする。

 いつの間にか目を閉じていたモミジはそっと瞼を持ち上げるが、太陽の眩しさにすぐ目を眇める。

 明るさに慣れるまで十数秒。ようやくまともに効く視界を巡らせると、どうやらここは公園らしい。


 モミジは公園の隅に立っていた。

 ブランコに滑り台にシーソー、鉄棒、ジャングルジムとカラフルな遊具が敷地内の半分に点在しており、それぞれに子ども達が集まって遊んでいる。もう半分は広場になっており、少年がボールを追いかけているからサッカーでもしているのだろうか。


 そんな中、遊具のエリアと広場を隔てるように設置されたベンチの一つに、少女が三人集まっている。どうやら、持ち寄った人形で遊んでいるらしい。

 その内の一人――ショートカットの下で頬をほんのり赤くしている少女に目を留めたモミジは、思わずそちらに歩み寄っていった。

 すると、三人がそれに気づいて顔を上げる。


「……だあれ?」


 声をかけられ、しまったと我に返る。不用意に近づいたら、怪しまれて思うように動けなくなるかもしれない。

 ひとまず「なんでもない」と言って立ち去ろうかと思ったが、ショートカットの少女の丸い瞳と目が合って、不意に込み上げてくるものがあった。


「えっ? どうしたの? 怪我したの?」

「あ……」


 慌てたようなショートカットの少女に、モミジは自分が泣いていることに気がついた。モミジは急いで目元を擦り、首を横に振る。


「う、ううん。違うの。ちょっと目にゴミが入って」


 幸い、涙はすぐに止まった。彼女達の方を見ると、三人とも心配そうな顔をしてこちらを窺っている。


「あ、あの、ごめんなさい。楽しそうだったから、何してるのかなって思って」


 どうにかそう言い訳をすると、ショートカットの少女が胸に抱いていた人形をこちらへ突き出してみせた。


「お人形遊びをしてたの。あたし、(かえで)。小学三年生。あなたは?」

「モミ――」

「モミちゃん?」


 咄嗟に名前を言いかけて口を噤んだが、それが名前だと思われたようだ。それならそれでも良いかと、モミジは頷いてみせる。

 楓は人形を抱いて笑った。


「髪型とワンピース、この子と似てるね。すごいね!」

「……そ、そうかな?」

「うん! ねね、一緒に遊ばない? 二人も良いかな?」


 楓が振り返って後ろで見ていた友人二人に声をかけると、彼女達は声を揃えて「良いよー」と返事をした。

 ここで断るより一緒に遊んで様子をみた方が良いかもしれない。モミジはそう思い、楓からウサギのぬいぐるみを借りて遊びに加わらせてもらうことにした。


 人形遊びは会話を中心に続いていく。人形達は友人同士で、一人の家に集まってお茶会をしているという設定らしい。

 最初は無難な天気の話や人形の家族の話――といっても、聞いた限りは本人の家族事情も多分に含まれているようだが――を展開していたが、次第に内容は学校の出来事に移っていった。


「そういえば、お菓子はもう買ったかしら?」

「ええ、昨日お母様とスーパーに行った時に買ってもらったわ」

「ふふ、明日が楽しみね」

「明日?」


 ウサギを介してモミジが尋ねると、楓は思い出したように人形ごとモミジに身体を向けた。


「ウサちゃんは、学校が違ったわね。あたし達、明日は遠足に行くのよ」

「バスに乗っていって、ハイキングするの。景色の良いところでお弁当を食べるのよ」

「お船にも乗れるって、先生言ってたわね」

「え……」


 モミジはぬいぐるみを持ったまま、その場に固まった。遠足で何をしようかとかお菓子の交換をしようとか話す三人の声が、遠くで聞こえる気がする。


「どうしたの?」


 何も話さなくなったモミジを心配したのだろう。三人が手を止めてモミジを見遣っている。


「あ……ごめん。ちょっとぼーっとしちゃって」

「大丈夫なら、良いんだけど……。あ、そうだ! モミジちゃん、明日の夕方、またここで会える? 何かお土産を持って帰ってくるから」

「う、うん……」


 モミジは頷くしかできなかったが、それをお土産が嬉しいと思ったと捉えたらしい。楓はにっこりと微笑んだ。


   *


 日が暮れ、街灯に電気が灯る。ぼんやりと浮かび上がる遊具は静かにそこにあり、今日の終わりという淋しさと少しの怖さが垣間見える。公園から見える家屋の中から聞こえてきた子どもの笑い声が、更に寂寥を際立たせた。


 五時の鐘が鳴り、楓達が手を振りながら帰宅して数分。既に暗くなり始めていた空はあっという間に夜になった。

 モミジは、ぽつぽつと疎らに光る星を見上げる。


(……まさか、前日だったなんて)


 小さな口から大人びた溜め息が漏れる。


 モミジは運命を変えたくて、ここまできた。

 起こってしまった出来事に愕然とし、鬱々とただ日々を過ごしていた時、あの男と出会った。彼は「過去を変えたいかい?」とモミジに問い、「変えたいのなら手助けをするよ」と軽い調子で手を差し伸べた。

 だが、運命を変えるにはそれ相応の代償が必要だ。その内容を聞いて足踏みをしたモミジだったが、それでもどうにかしたいと意を決したのだ。


 だというのに、いざ過去に戻ってみたら運命を左右する出来事は翌日に迫っていた。もう少し余裕をみて過去に送ってくれればいいものをと心中で悪態を吐いてみるが、この場にいないあの男には一文字も伝わらない。

 それに、今はどうやって運命を変えるかを考えるのが先決だ。残された時間は僅かだ。


 運命が決するのは、明日の楓達の遠足先。まずはそこまで行かなくてはならない。

 しかし、行き先の名称は分かるが、そこまで行く方法が分からない。どうしたものかと悩みながらひとまずベンチに座り込むと、スカートのポケットの中で何かがカサリと音を立てた。


 ポケットに手を突っ込んでみる。一枚の紙が出てきたが、モミジに見覚えはない。

 折り畳まれたそれを広げると数枚の千円札が挟まれており、紙には文字が書かれていた。流れるような筆跡を街灯の光に照らして目で追う。


 書かれていたのは、今この場所から楓達の遠足先まで行く道のりの説明だった。名前はないが、あの男が書いたものだとすぐに判った。一応、こちらに来た後のことも考えていてくれたらしい。

 それによると、電車とバスを乗り継いで一時間ほどかかるようだ。丁寧に乗り場まで書かれている。判り易いのは良いのだが、説明もなしに前日に送り出したことを考えると、几帳面なのだかそうでないのかよく解らない男だ。


 ともかく、これでひとまずの行動は決まった。

 モミジはベンチから立ち上がり、駆け足で公園を出た。


   *


 流石にこの時期の野宿は応える。神社の拝殿の軒下を借りたので風は凌げたが、何せ湖が近いこともあって空気が冷たかった。


 モミジは昨夜、電車とバスを使ってこの湖までやってきた。

 この姿で夜に一人で出歩いていたら見咎められるので、物陰や乗客の荷物に隠れながら人目に触れないように移動した。流石にただ乗りは憚られる為、こっそりと運賃分は駅員室や運転手の近くに置いてきた。落とし物として処理されてしまうかもしれないが、他に方法が思いつかなかった。


 朝靄のかかった湖は幻想的で綺麗だったが、数時間後のことを思うと気が気ではなく、ゆっくりと楽しむことはできなかった。

 日が昇るにつれて、観光客の姿がちらほらと見えるようになる。ここでも一人で歩いていたら目立つだろう。モミジは湖の遊覧船乗り場の近くにある公衆トイレの影に身を潜めて、じりじりと時間が経つのを待った。


 正午を少し過ぎた頃、駐車場の方から子ども達がぞろぞろ歩いてくるのが見えた。

 モミジは身を乗り出して、前を行き過ぎていく子ども達の顔を確認していく。すると、やはりその中に楓の顔があった。


 引率の教師に従って、遊覧船乗り場の前の広場の隅で列を作ったまま立ち止まる。モミジは急いで飛び出して、後ろから楓の手を掴んだ。


「あれ? モミちゃん?」


 驚いた表情をする楓に、モミジは焦りを押し込んで笑顔を作った。


「わたし、お父さんに連れてきてもらったの。ねえ、あっちで一緒に遊ばない?」


 言いながら、適当に離れた場所を指差す。とにかく、ここから遠い場所に連れていきたい。

 しかし、すぐに近くにいた子どもがモミジの顔を覗き込んだ。


「だれ?」

「この辺りに住んでる子?」


 口々に声をかけられ、モミジはたじろいで閉口した。その間に楓が優しくモミジの手を外す。


「ごめんね。今日は学校の遠足で来てるから、みんなから離れちゃいけないの。また今度、遊ぼうね」


 困ったように楓が眉を傾ける。

 丁度その時、教師の声が響いて列が再び動き出す。手を振って去っていく楓を、モミジは呆然と見送った。

 しかしすぐにはっとして、モミジは列の最後尾に紛れて遊覧船へと乗り込んだ。


 楓を遊覧船に乗らせなければ良いと簡単に考えていたが、そう上手く事は運ばないようだ。

 そのまま遊覧船を行かせるわけにもいかず、一緒に乗ったは良いが、これからどうしたら良いだろうか。


 モミジは考えを巡らせながら船内を歩く。

 しかし、人気の遊覧船ということで乗客が多い。楓達の学校以外にも遠足や修学旅行で来ている学生が大勢おり、賑やかな声が響いている。

 そう広くはない船内のはずだが、モミジの身体の小ささもあって人の間を泳ぐように移動している為、中々前に進めない。


 そうこうしている内に船内放送が入り、船が動き出す。

 モミジは内心焦りながら、必死で楓の姿を捜した。


 脳裏に浮かぶのは、未来で見た残酷な現実。

 あんな思いはしたくない。だから過去に来たというのに、このままでは未来は何も変わらない。

 怖くて、悲しくて、モミジの視界が滲む。泣いてもどうしようもないと解っているのに、一度堰を切った想いは中々治まってはくれなかった。


「あら、迷子?」


 不意に声をかけられて顔を上げると、上品な服を着た老女が心配そうにこちらを見ていた。モミジが一人で泣いていた為、迷子になったのだと勘違いされたらしい。


「船員さんに言って、放送で親御さんを探してもらいましょうか」

「いえ……その……」


 咄嗟に言葉が出てこなくて、モミジは差し出された掌を見つめるしかできなかった。

 皺の刻まれた手は優しく、その優しさに申し訳なくて逃げるように視線を転じる。


(――あ)


 その先に、楓の後ろ姿が見えた。手摺りのすぐ近くで友人と楽しそうに会話をしているようである。


「ごめんなさい」

「あ、ちょっと――」


 一言だけ言葉を置いて、モミジはすぐに駆け出した。引き留める声が聞こえたが、それに応えるだけの余裕もなかった。


 行き交う人を避けながら楓に近づいていく。時間はそれほどかかっていないはずなのに、遠い距離をもどかしく進んでいた感覚がする。


 途中で何度か名前を呼んだが、周囲の声に搔き消されてしまって届かない。

 楓と一緒にいた友人が何かを言って彼女から離れていく。一人になった彼女にもう少しで手が届くと思ったその時、大きな影がモミジの視界を遮った。


「――楓っ!」


 自分でも驚くくらいの悲痛な声が口から飛び出た。

 一瞬見えなかった間に何があったのか、楓の身体が手摺りを乗り越えて船の外に投げ出されるのが見えた。


 モミジは何も考えられなくなり、ただその場を駆け抜けて楓を追って湖に飛び込んだ。

 冷たい水中で目を凝らすと、楓が両手を広げて漂っていた。落ちた衝撃と恐怖で気を失っているらしい。


 必死に手足を動かして楓のそばまでいったモミジは、彼女の身体を抱き締めた。そのまま一緒に水上へ向かおうとするが、泳いだ経験がないモミジにそれだけの技量はない。


(ここまで来たのに――)


 代償を支払う覚悟をして過去に戻ったのに、自分は何もできないのか。この小さな身体では、どんなに足掻いても望んだものは手に入らないのだろうか。

 無力な自身がもどかしい。悔しい。遣る瀬ない。


 楓を抱えたまま、陽の光に輝く水面を見上げる。絶望の淵にいる心とは裏腹に、きらきらと揺らめくそれがとても綺麗だと思った。


 ぼんやりと見つめていると、その綺麗な中に一つの影が飛び込んできた。


   *


 病院のベッドに少女が眠っている。

 彼女の身体には多くの管やコードが取り付けられて、物々しい雰囲気が空気を重くさせる。そんな空気に圧せられることなく上下する胸にささやかな安心感を覚えるが、固く閉じた瞼が上がる日がくるのだろうかと思うと、更に暗い気持ちが心を満たす。


 少女――楓の痛々しい姿を、モミジは近くでずっと見ていた。

 両親や祖父母がやってきて涙する様子も、何度も目にしてきた。


 目を覚まして欲しかった。以前のように笑う楓とまた一緒に遊びたかった。

 そう願うばかりで何もできない自分の無力感に失望したのは、数え切れないほどだ。


 ただ只管暗い道を歩いているような毎日の中、彼は突然現れた。

 彼は当然のような顔をして病室に入ってきて、何の迷いもなくモミジを取り上げた。そして顔を覗き込み、微笑んだ。


『過去を変えたいかい?』


 大の大人が女児向けの人形に笑いかけるなんて、傍から見たら不審者極まりない。

 けれど、ここには男とモミジ、目を覚まさない楓しかいないから、気に留める者はいなかった。

 男の目は全てを見透かすような色をしており、モミジは自然と自分の姿を表に出した。


 モミジは楓の人形の付喪神だ。

 数年前、楓が幼稚園で仲の良かった友人から贈られた人形である。丁度小学校に上がる年にその友人が両親の都合で他県へ引っ越すことになり、離れ離れになるからと最後にプレゼントされたのだ。

 楓にとっては、生まれて初めてできた同年の友人。だから人形は大切にされ、その強い想いが蓄積されて数年で付喪神となった。


 しかし、人形は喋らないし動かないものだ。それが突然話しかけてきたら、それはもう怖いだろう。

 だから、モミジはただの人形に徹することにした。楓の傍で彼女の成長を見守られたら、それで良いと思っていた。


 けれどある日、楓は眠ったまま目を覚まさなくなってしまった。

 大人達の会話から知った話では、学校の遠足で遊覧船に乗った際、湖に落下したのだという。何かの拍子に船から落ち、その瞬間を誰も目撃していなかったが故に気づくのが遅れ、救出に時間がかかってしまった。

 幸い命は助かったが、意識が戻るかどうかは医師でも判らないらしい。


 それから三年間。楓は一度も目を開けていない。


『――変えられるの?』

『君がそうしたいなら、手助けはできるよ』


 男は軽く言いのける。

 闇に包まれた道に光が差した気がした。

 だから、代償も呑もうと思った。

 たとえ自分がどうなったとしても、楓が笑顔で生きてくれるならそれで良いと思った。


 ――思ったのだ。


   *


「大丈夫!?」


 突然耳に響いた声に驚いて目を開ける。

 身を起こすと、老女がこちらに走ってくるのが見えた。揺れる船内で足場が悪いというのに、必死な顔をして蛇行しながらやってくる。


 今度は咳き込む音がして、視線を下げる。

 するとそこには、びしょ濡れになった楓が床に横になっていた。


「楓……」


 苦しそうではあるが確かに息をしている楓に安心すると同時に、夢ではないかと疑う自分がいる。しかし、駆けつけた老女の手の温かさが、これは現実だと訴えていた。


「船を飛び出すから、びっくりしたのよ。もう……ああいう時は、周りの大人に言わなきゃ駄目よ」


 老女は、モミジが楓を見つける直前に迷子ではないかと声をかけてきた人だった。いきなり駆け出して湖に飛び込んだモミジに驚いて、船員に助けを求めたらしい。


 その老女の後ろからおずおずと青年が進み出てきたかと思うと、がばりと勢いよく頭を下げた。


「ご、ごめんなさい!」


 どうやら、楓が船から落ちたのは、彼の背負っている大きな荷物が彼女にぶつかったからだったようだ。楓に駆け寄ろうとしたモミジを遮った影は彼のものだったのだ。


「どうしたの? どこか痛いところがある?」

「わわわ、だ、大丈夫……?」


 眉をハの字にする老女と慌てる青年が、心配そうにモミジを見遣る。

 モミジはポロポロと零れ落ちて止まらない涙を拭いながら、泣き笑いの表情を浮かべた。


   *


 楓が救急隊に連れられて船を下りていく。

 それを遠目に見ながら、モミジは赤くなった目元を軽く擦った。


 本当に良かった。これでもう、あんなに痛々しい彼女の姿を見ないで済む。


「仕方ないとはいえ、ちょっと申し訳ないね」


 モミジの隣で髪を風に靡かせながら、男が苦笑いを零した。彼の視線の先には、忽然と姿を消したモミジを捜してあたふたとしている大人達の姿がある。


 あの後、モミジの前に現れた男は彼女を連れて、この港が見える場所までやってきた。

 運命を変えるという目的を果たした今、これ以上は過去に干渉してはいけないらしい。お陰でモミジが行方不明になってしまったが、元々が人間の戸籍に存在しないこともあるし、どうにかなるだろう。


 元の時間軸でも、きっとあの青年の荷物に突き飛ばされて楓は湖に落ちたのだろう。青年の様子からそれに気づいておきながら無視するような性格ではなさそうだから、そもそも気がつかなかったのだろう。

 それに腹が立たないかと言われれば嘘になるが、必死に謝る彼を見たら、それも含めて運命だったのかもしれないと思える。


 それに、モミジが迷子と勘違いされたことで、二人が湖に落ちたことに老女が気づいて助けを呼んでくれた。

 理想とは違ったが、それでも運命を変えることには成功したのだ。


「それじゃ、そろそろ行こうか」

「はい」


 後ろ髪を引かれないわけではない。しかし、楓がしっかりと生きていてくれていることが、モミジにとって何より嬉しいことだった。


 運命を変えた代償に、モミジはこの世から存在が消える。


 もう楓を見守ることはできないけれど、それで良いと自分で決めた。


 モミジが男の手を取った瞬間、ふっと意識が閉ざされた。


   *


「わあ、可愛い!」


 高い声音に閉じていた目をゆっくり開ける。


「ワンッ!?」


 どアップに映った少女の顔に声を上げると、そんな音が口から飛び出した。


「あ、ごめんね。びっくりした?」


 離れていく顔を見て、モミジは目を丸くする。

 その顔は――はにかむその笑顔は、モミジにとって大切な存在である楓のそれそのものだった。


 呆然とするモミジを余所に、楓が背後に立つ母親を振り仰ぐ。


「ね、ママ。本当にこの子飼って良いの?」

「ええ」


 モミジが慌てて視線を転じた先に、姿見が置かれている。その中には、生まれて間もない仔犬の姿があった。


 楓を助けた後、モミジは存在が消えたのではなかったか。

 確かにあの瞬間からの記憶はないし、あの男が約束を違えるとは思えない。


 だが、今こうして楓と一緒にいるのは、仔犬の姿をしたモミジ自身だ。


(あのヒト……わたしを仔犬に生まれ変わらせてくれたのかな)


 本当に、よく解らないヒトだ。


「この子も家に来たいって、喜んでるみたい」


 つい笑みを漏らすと、それを感じ取ったらしい楓がモミジを抱き上げる。


 これからも、楓を見守っていて良いのだろうか。近くにいて良いのだろうか。

 それが許されるなら、これ以上に嬉しいことはない。


「ワン」


 吠えたモミジに楓が満面の笑顔を見せた。

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