妹のところへ、そして決意
やっと主人公がその道に進むきっかけが描けました。
長い廊下を進み、何度も角を曲がった先にその部屋はあった。
なんの変哲もない襖のはずなのに、この先に奈留がいるとなるとなんとなく空気が重いような気さえする。
思わず隣にいる澪を見遣ると彼女は消毒を自分自身に吹きかけているところだった。
澪は視線に気が付いたようで、薄く微笑みながら手に持った消毒を渡してきた。
自分に振りかけろということなのだろう。
何となく、その微笑みには覚悟を決めろと言われているような気さえした。
柚月は少し躊躇い、この部屋に来るまでに聞いた話を思い出す。
◇ ◇ ◇
澪が言うには柚月は擦り傷や軽いやけど程度で済んでいるが、奈留は右半身に広範囲の火傷を負っており、治療は終わっていても経過観察が必要となるという。
問題は左目を深く傷つけられていることで、傷事態は治せても精神的に負った傷を考えると失明の可能性もあるらしい。
幼い柚月にとってはそれがとても恐ろしく感じた。
必死になって異形から逃げていたことも、車が崖に落ちていくのも、車内から投げ出されたことも、柚月にとってはどこか現実味がわかないことであった。
本当は今も家にいて酷い悪夢を見ているだけなのではないか。
今にも両親が微笑みながら起こしに来てくれるのではないか。
奈留もいつものように遅いよと言って笑っているのではないか。
そんな考えが心のどこかにはあったのだ。
けれどもはっきりと奈留の容態を聞いてしまっては現実だと受け止めざるを得ない。
今までの出来事も夢ではない、と思い知らされてしまった。
(あぁ、あの異形も本当にいたんだ。父さんも母さんもあのまま……)
実感がわいてしまえば一気に恐怖が襲いかかり、前へと進む足が震える。
とてもじゃないが受け入れきれず足が止まった。
「……君はどうしたい?」
顔を青くし、がたがたと震え涙を流す柚月に凛とした声が問いかける。
澪の声だ。
「……え?」
「怖いよね。悲しいよね。わかるよ……私にも覚えがあるから」
彼女の声が少し揺れた。
思わず顔を上げると悲しそうに微笑む彼女がいた。
どこかで見覚えのあるその顔に心臓がどくりと脈を打つ。
理由のわからないその感覚に捕らわれる柚月を他所に、澪は近づいてくると目線を合わせるようにしゃがみ柚月の肩にそっと手を置いた。
「恐怖に怯え、逃げ続けるのもいいだろう。その道を否定するつもりはないよ。大体の人はその道を選ぶし、賢い選択だとも思う。だって恐怖に対して真正面から受け止めて立ち向かうなんて、並大抵な精神力ではできないもの」
頬に澪の白く長い指が沿わされる。
「でもね、私には何を犠牲にしても守りたいもの……取り戻さなきゃならないものがあった。だから恐怖心なんて目的のためには飼い殺してみせる」
「恐怖を……飼い殺す?」
「そう。……怖いからと恐怖から目を背けていても大切なものは常に脅かされてしまう。理不尽なことだらけだもの……。だけど、私が戦うことであの子に平穏が戻るのなら……私はなんだってやって見せるわ」
あまりにも強い意志を眼に宿していた。
その強さに胸がざわつき始める。
何かを言わなくては、と心のどこかから声がする。だが、何を言えばいいのかわからない。
「澪ちゃん……」
言葉を探し出せずに彼女の名前をつぶやくと、澪は力を抜き優しく微笑んだ。
「君にもいるんでしょう? そういう存在が」
「え?」
ぽかんとしている柚月の頭が優しく撫でられる。
「妹……奈留ちゃんだっけ? 目が覚めてからずっとあの子のことしか考えてないでしょう? よっぽど大切なのね」
「……」
「……怖いから、悲しいからそこで立ち止まって泣いている? ……それじゃあ何も変わらないし、変えられない」
優しい声色ではあったが、力強さを感じる声色でゆっくりと語り続ける。
「何か変えたいことがあるのなら、守りたいものがあるのなら、その道を選んではいられないの。……悲しみや苦しみに捕らわれて、まだある縁を自分から手放すことのないように、自分で選びなさい」
まるで突き放すような言い方だった。けれども優しい声色だった。
撫でられた頭がじんわりと暖かい。
気が付けば先ほどまであれほどあった恐怖も落ち着き、体の震えも収まっていた。
柚月は目を閉じて考える。
父や母のことも悲しいし異形のことももちろん恐ろしいのだが、今の自分にとっては一人になることが何よりも恐ろしいことのように感じた。
――そうなってしまえば自分はまた失ったことを嘆き生きていくことになる……
何故だかそんな思いが胸をよぎった。
そんな思いをしたことなどないはずなのに……。
不可解な気持ちを整理するように頭を軽く振る。
今はそんなことを考えている余裕なんてどこにもない。
それに、まだ生きている奈留を失いたくないという気持ちは何よりも強く柚月の胸に刻まれている。
(奈留はまだ生きているんだ。ならば自分が守ってやれる。まだ、間に合う……)
「澪ちゃん」
目に残っていた涙を拭うと柚月は澪をまっすぐに見つめた。
覚悟を決めたような、たかだか十歳そこらのできる瞳ではなかった。
「僕は奈留を守りたい! 何が来ても追い払ってやれるくらいに強くなりたい!」
◇ ◇ ◇
(――そうだ。僕は奈留を守りたい。こんなところで怖気ついてなんていられないんだ!)
柚月は無言で消毒を受け取ると、迷いを消し去るように振りかけ襖を開けた。
柚月は部屋に入ると中央に寝かされていた少女のもとへ駆け寄った。
「奈留!」
いつも笑っていた顔には目元全体を覆うように包帯が巻かれており、じんわりと血が滲んでいるのがありありと見て取れる。
右半分にもガーゼが張られ、ちらりと隙間から覗く肌は赤く腫れ上がっている。
体はすっぽりと布団に収まっているため分からないが、恐らく顔と同様に処置が施されているのだろう。
腕につながれた点滴からは一定のリズムで液体が落ちていた。
どこを見たら無事だと言い切れるのかがわからないほどのありさまに思わず息を呑む。
「本当に……奈留は大丈夫なんだよね?」
あまりにも日常とかけ離れたその姿に聞かずにはいられなかった。
振り向いた先には襖の近くで立っている澪がいる。
澪は腕を組みじっと様子を見ていた。
空気がヒヤリと冷たく身に纏わりつく。
「ええ、見た目ほどは酷くないよ。しばらくここにいれば火傷の跡も消えていくだろう」
じっと見つめたままでそういい放つ彼女に疑念を抱きつつも、再び妹の様子を伺う。
痛ましいほどの顔の傷は本当に酷くないと言えるのだろうか。本当に治るのだろうか。そんな疑問は消えることなく柚月の心をざわつかせる。
けれども今彼にできることはその言葉を、そして妹を信じることだけだった。
信じるしかなかったのだ。
彼は何の力も技術も知恵もない、本当にただの子供に過ぎないのだから。
柚月は奈留に伸びそうになる手を引っ込めると畳の上で拳を作った。
視界が滲んでくるが、ここで泣くわけにはいかない。
約束をしたのだ。
ぐっと歯を食いしばり、出てきそうになるしずくを半ば無理矢理押しとどめる。
「安心して大丈夫だよ、奈留。これからは兄ちゃんが絶対に守ってあげるから」
震える声でそう言い残し、慌てて部屋を後にする。
妹が傷だらけなのに自分では何もできない不甲斐なさと不安から柚月の視界は余計に歪んでいく。
奈留の前で泣きたくなかった。約束をしたということもあるが、何よりその場で泣き出してしまえば奈留まで失ってしまいそうで怖かった。
部屋を出て襖を閉めると足から力が抜けたように座り込む。
目の奥が熱い。
視界が滲んで息がうまく吸えなくなっていたことに今気が付いた。
「よく耐えた」
上から声がかかる。
声の主はいつの間にか部屋から出てきた澪だった。
襖を閉める音などしなかったはずなのに。いや、そんなことを気にしていられなかっただけなのかもしれない。
柚月は顔を上げることも、声を返すこともできないまま、ただ縮こまっていた。
「よく泣かずに耐えた。よく信じ切った。……もう大丈夫」
ふわりと肩に毛布が掛けられその上から抱きしめられる。
温もりを感じてしまうと、もう駄目だった。
回された腕にしがみ付いて押し殺していた声を吐き出すようにひたすら声を上げ泣いた。
雪が降りだしたのだろうか、夜だというのにうすぼんやりとした光が廊下の窓から降り注いでいる。
廊下は深々と冷えていたが、薄い光がうずくまる彼らの姿をゆらゆらと照らしていた。