そこ
牛
一匹の牛がいた。どこにでもいる牛がいた。
どこともわからない場所。ただ「そこ」に牛がいた。牛は牛であるから、牛はただ牛らしくただ草を食むことをしていた。草しか食べぬ彼の好きなものは草。嫌いなものもまた草である。目を覚まし、草を食み眠る。またあくる日も同じことをする。あくるあくる日もまた同じだ。どうやら牛は退屈を知らないらしい。時間も刺激もない一生を送る。飽きも退屈もあるはずがない。至極当然のことである。
そんな日々をおくる牛であったが、別に変化がないというわけではもなかった。彼にとって刺激でなかったというだけで、変化はある日常だった。まぶしいほどの警戒色をモノクロの外殻が覆っているだけであった。
馬
馬がいた。馬はせわしないやつだ。ひょこひょこ小刻みに動き回った。草を見つけては嬉しそうに尻尾を巻いて、口先を尖らせ草を食んだ。同じ岩の草を食べる仲。古くからこんな言葉があるが牛と馬とは、一応は親しき隣人であった。しかしその性格は打って変わって似ても似つかなかった。馬とはたいそうおしゃべりな生き物である。また牛とは大変寡黙な生き物である。馬は牛に自分が見聞きしたことを自慢げに話すことを好み、毎日の日課としていた。一方牛の日課といえば、やはり草を食むことだけのようだった。そんな状況でまともな対話が成立するはずもなく、一見険悪にも見える雰囲気を漂わせていた。しかし馬はただ話したくて仕方がないだけだったから、その相手が牛だろうと砂だろうとこれから食べる草だろうと同じことだった。何も問題はないのだ。たいていは馬の言葉は牛の耳を右から左へと抜けてどこへともなく流されていった。まあ牛に耳があればの話だが。
「よう牛さん。どうだい今日の草のお味は。イケてるかい。ああそっか、聞いてもしゃべらないんだっけ。いっけねいっけね俺としたことが。じゃあ早速いただくとしますか。ん!なんだこれ。まずくて食えたもんじゃねえな。こりゃほかのえさ場にハシゴ決定だな。こんなん子供らに食わしたら嫁さんに叱られちまうぜ。いい餌みつけねえとなあ。本当育児って大変だわ。卵の面倒も見なきゃいけねえしよ。そうだ。おい聞いてくれよ最近猫の野郎どもが我が家の上をミャーミャーミャーミャー言って通り過ぎていきやがるんだぜ。猫ってのは群れるからいけないな。単体じゃ何にもできねえよあいつらは。あーあこっちは俺の身一つで子育てやってるてえのによ、嫁さんはなんも手伝ってくんねえし。まあしょうがないよな。育児は男の仕事だからな...」
息が切れたのか馬は一度話をやめて草を食んだ。
「全く牛はいいよな。草の味も気にせず毎日むしゃむしゃやってるだけで幸せなんだからよう。悩みの種なんてあったもんじゃねえ。あーあうらやましいぜ。でもな世の中にゃあ牛を食うヤバい牛もいるみたいだぜ。恐ろしいよなあ。馬を食う馬なんて想像したら.ひぃぃぃ。落ち着いて草も食ってらんねえな。いやあ牛じゃなくてよかったぜ。馬を食う馬なんて聞いたこともないからな。よかったよかった。おまえもぼさっとして怖い牛に食われるなよ。本当勘弁だぜ。早く帰んないと嫁さんがうるせえからもう俺いくかんな。子供の面倒見なきゃ。じゃあまた明日な。気をつけろよ」
馬はそう言い残すとひょこひょこと牛のもとを後にした。
牛は一連のせわしない話が終わっても、性懲りもなく同じ草を食んでいた。歯をもそもそ動かしながら聞き取れただけの馬の話を反芻していた。そして気付く。彼はめったに食事以外には口を開けないが、さすがの彼もふとつぶやいてしまった。
「そうか。僕は草なのか」
偉大な発見をした聡明な一匹の牛は大きくうなずき、得意げにその角を傾けてみせた。
蛇
蛇がいた。蛇はしばしば牛の頭上を勝手に通っては悪態をつく陰鬱なやつだった。
「邪魔するよ」
蛇の声がした
「苔のお味はよろしいかい。あれ草だったかな」
牛は牛と草の違いは判らなかったが、苔と草が違うことはわかっていた。
「どちらでも同じことだね。たまには葡萄でも食べたらどうなんだい?」
牛は特に言い返すでもなく、葉脈をなぞるように端から目で追っていた。
「派手な見た目に似合わず、君はずいぶん地味な奴だよな」
牛は草の細胞一つ一つを丁寧につぶしながら蛇の話を聞いていた。
「そんなに色とりどりじゃ、珍しがった人に連れていかれてしまうんじゃないかい」
牛は人を見たことがあった。人はとても大きい。
「鼠も栗も星も捕まったって話だよ。情けないね。君たちのような怠け者のベン、ベン、ベント...(なんだったけな...)まあいいさ。せいぜい人におびえて暮らすことだね。僕は人なんて返り討ちにしてやるからさ。別にこわくなんてないけどね」
そういって蛇はするするとその場から去っていった。牛は蛇が言いかけた言葉がベントウであると知っていたが、あえて指摘することのことでもないと思い、沈黙を守ったのだ。牛は己の謙虚さを誇りに思い、鼻が膨らんだ。鼻があればの話だが。
人
鹿がいた。鹿は牛とよく似ていた。寡黙に草を食むことを生業とする隣人であった。その日は雪が降っていた。牛と鹿は並んで草を食んでいた。急にあたりが暗くなったかと思うと人の影が牛と鹿に覆いかぶさっていた。
「今日はいないわね」
ふと人は振り向いた
「あら。妖精ね」
牛はその時蛇の話を思い出していた。人だ。こっちを見ている。もしかして。牛は背後に冷たい何かが走った気がした。
「美しいわ」
そう言って人はこちらに手を伸ばしてきた。
無造作に突き出された人の肘が鹿に触れるや否や、鹿は小刻みに震えだしたかと思うと、突如謎の紫色の煙が牛と鹿を包んだ。突然の出来事に驚いた人は無い尻尾を巻いて、もときた方向へと帰っていった。無理もない、鹿は穏やかな牛とは違い怒りやすい性格だった。牛は人への同情と深い安堵に満たされた。
亀
舞い落ちる雪の粒を見ながら、牛は先ほどの出来事に思いを馳せていた。「美しい」とは何だろう。きっと身の毛もよだつような恐ろしい言葉に違いない。毛があればの話ではあるが。牛は他愛もないことを考えるのをやめて草を食むのに集中することにした。雪を丁寧にどけて草を食べる作業に苦戦していると、下のほうから深みのあるしわくちゃな声がした。
「疲れた。疲れた。そこの牛君。ちとじじいの独り言に付き合ってくれんかのう」
亀である。亀は経験豊富で博識であり、老齢で体は弱っているものの、その姿はどこか威厳をにおわせるものがある。
「温泉につかりたくてのう。嶺まで行ってしまったわい」
亀はゆっくりとキノコの上に座った。
「溝のユリどもは主張が強くてな。気苦労じゃわい」
牛は亀の甲羅と草の葉脈を交互に見比べていた。
「月がひ、ふ、み、、、おいしそうじゃ」
月とはなんだ。
「蛍の光が揺らめいておる。」
蛍とはなんだ。
「月の光は蛍の光。月は透き通っておるからな。」
「美しいのう」
『美しい』とはなんだ。
「蛍は役目を終えると雪となって降ってくるんじゃよ」
牛は困惑した。人間の言った『美しい』と、月と蛍の『美しい』。牛の感じた気持ちが全く違ったからだ。
「おぬし、『美しい』を知らんのかい。」
「そなたも月や蛍と一緒じゃ。わしは醜い。そなたは『美しい』」
その時、牛はあの人が自分に対して「美しい」と言を発したことを悟った。しかし疑問だ。なぜ自分が醜いとわかる。
「鏡じゃよ」
「鏡?」
牛は思わず声を漏らした。
「上をご覧」
牛の遥か頭上では、幾重にも重なった光の輪郭が点いては消えてを繰り返し、降り注ぐ粉雪の一粒一粒を淡い青で照らしていた。
「そこにお前がおる」
亀は緩やかに目を閉じ、また開いた。
「行っておいで」
そう優しく言い放った老亀の瞬きの間隙に赤くぼやけた二本の角を見た
妖精
牛は何も知らなかった。牛は生まれてからずっと「そこ」を離れたことはなかった。月。蛍。その先の鏡。牛は自分自身を、自分の『美しい』を知らなかった。しかし、牛は己の無知の殻を脱ぎ去りたいと切に願った。この気持ちの名前は知らなかったが、牛は次に何をすべきかを知っていた。
淡い雪あかりに照らされて何も知らぬ妖精がひらりひらりと、ちゅうへ舞い上がった。
解説
皆すべて海のそこのお話