春:次男
彼女の顔を見ても、この現象に名前はつかない。
それをわかっていながら何度も彼女の顔を見に帰った。
時偶屋敷に帰れば、彼女は変わらずに迎え出る。
同じように出迎えて同じ言葉を発し、同じように帽子とコートを受け取って仕舞いに行く。
その後ろ姿を見てもその横顔を見ても、伏せられた目蓋の奥の茶色を思いはしても、この体の中が落ち着かなくなる感覚には名前がつかないのだ。
おかしいとわかっていながらも、間隔を空けてはまたこの現象に名前がつくことを求めて屋敷に帰ってしまう。
決まった間隔で屋敷に帰るようになったら、帰る前には風呂が沸かされているようになった。簡単な食事の用意と、いつも整えられた生活用具が並んでいる。
これは彼女がやってくれているのだろうか?いや、使用人が来ているはずではあるが…。何度もそう思いながらも聞けないまま、俺はそれを甘受している。
玄関で出迎える彼女はいつも同じように俺を見ないまま。
ある日、事務所を出る帰り際に客に(といっても大した相手ではなく、俺に取り入ろうとする貴族の娘だったが)無理矢理土産を押し付けられた。
前々から鬱陶しいと思ってはいたが、どうにも年頃の女はなんというか、ギラギラとしていて困る。こんな派手な色の紙袋を押し付けて来てどうするつもりなのだろうか。
というか、無理矢理押し付けられてありがたく受け取ると思うのだろうか?
キツい香水の匂いが紙袋から漂ってくる。
馬車の中がこんな匂いになってしまったらどうしてくれるんだ。窓を全開にして勢いよく換気をしながらため息を吐いた。
あんなにべたべたといろいろなものを塗りたくった顔で口元を緩ませながら、目だけはギラギラと嫌な熱気に満ちていた。一般で言えば可愛いとか綺麗とか言われるような部類なのだろうが、どうにも品が無く思える。
そんなものよりも、と脳裏に浮かんだのは、やはり彼女なのだった。
彼女の伏せられた目蓋と、俺を出迎える時の合わない下向きの視線を思い出す。
そして最後に浮かんでくるのは、パーティーの夜の微笑みと、あの光る肌と触れた感触だった。
「くそ……。」
胸の辺りがもやつく。まだ、これに名前はつかないままだ。
紙袋を見ると苛立ちに似た不快感がわき上がる。
まあしかたない、処分するしか無い。いやいや紙袋をつまみ上げて、馬車を降りる。
玄関の錠を開ければ、向こう側からも鍵の開く音がする。
その音を聞くと不快感がすっと治まった。
それどころか、………これ以上、何といえばいいのだろうか?
その答えは今日も見つからないまま、玄関の扉は開く。
「お帰りなさいませ。」
「ああ。」
これで会話は終わりだ。いつものことだ。いつものことなのだが、もう少し何か無いのだろうか。もう少しこう、会話らしい会話と言うか、何か捻り出すことは出来ないのだろうか。次までに、次までに何か言えるようにしなくては、と彼女に面と向かうといつもそう考えるのに、一人になるとそれをすぐに忘れてしまう。
仮に考えられたとしても、良い案は出てこない自信がある。
いつものようにコートと帽子を脱いで彼女に渡す。
差し出された手に俺の手からコートと帽子が渡る。
彼女がコートを抱きかかえる。俺のコートを彼女が抱えるとその体の華奢さが際立つ。
そうだ、このせいだ。このせいで言葉がそれ以上出なくなってしまうのだ。
今日も何も言えないまま、彼女に背を向ける。
歩き始めると後ろから焦ったような声がかかった。
「あ、あの!この紙袋はどうすれば…?」
語尾が小さく消えていった。
会話だ。これは紛れも無く問いかけだし、これに返せば紛れもない会話になる。いつもの会話よりも多い。
そう思うと頭が回らなくなって、なんといえばいいのかわからなくなる。
歩みは止まらない。
彼女にきちんと伝えなくては。
それはどうでも良い相手から渡されたいらないものだし無理矢理押し付けられて迷惑していて、ああ、というか従者に処分してもらえば良かった。彼女に見せる必要なんて無かったのだ。でもあなたの顔を見たらその不快感も一瞬で無くなって……。いや、俺は何を考えているんだ。
「処理をしてくれ」
辛うじて口から出たのはその一言だったのだと思う。
背中から聞こえた「かしこまりました」の声を受けながら、俺は自分の部屋に逃げ込んだ。
「一体何を考えているんだ。」
口元に手を当てれば、息が少し乱れている。
首元から乱れた脈が体中に響いている。
「……なんなんだ、これは…。」
しばらく頭を抱えても、ちっとも答えは出ないのだ。
「春ですねえ。」
そう言いながら書斎の窓を開ける秘書にじっとりとした視線を送る。
「今は春じゃない。」
「まあまあ。」
俺の視線もなんてこと無いように軽く受け流した奴は、俺のテーブルに用意したコーヒーを置く。
「休憩でもどうぞ。」
丁度仕事のキリもよく、集中が切れかかっているタイミングだった。この男は本当に有能である。
「そういえば、」
そう、コレさえ無ければ、だが。
自分は確かにうんざりした顔をしたはずなのだが、愛する妻のことを考える目の前の男には見えなかったようだ。
「昨日帰ったら、彼女が俺にサプライズでプレゼントを用意していてくれたんですよぉ。」
だらしなくにやけるその顔に猫騙しをしてやりたい衝動を苦いコーヒーで飲み込む。
「何の記念日だった?って焦ったんですけど、そういうわけでもなくてぇ。」
でれでれと胸元から彼女に貰ったであろうそれをとりだして。
「俺の好きな店の物が手に入って、それに丁度刺繍が終わったからって、ほら。」
こちらに見せびらかしてくる。
渋い顔のままため息を返した。
「ほらほら、見てくださいよ。綺麗でしょう?」
ぐいっと目の前まで寄せられたそれに頷いて答えた。そう言えばこいつの奥方は刺繍がたいそう得意だった。
「はあ、本当に愛しいですよ。俺のために考えて考えて贈ってくれたんですから。」
ほうっと感嘆のため息を吐いて、奴はうっとりと窓の外を見る。
「俺も今日は花束を買って帰る予定なんです。」
満ち足りた顔で外の景色を眺めながら、一人の幸せな男はハンカチを大切そうに胸元に仕舞い込んだ。
「愛しい人に物を贈るのに、理由なんていりませんよね。」
最後まで無言で話を聞いていた俺に、愛する人がいるって幸せですよ、とでも言いたげに笑顔を向ける。
「そうだな。」
相づちを打ってコーヒーを飲んだ俺を、奴は笑顔のまま見ていた。
するべきではないと知っていながら、彼女の部屋の前に立っている。
彼女は今一階におり、キッチンでなにやら作業をしている後ろ姿を目撃している。
オーブンを温めていたため、しばらく手が離せないはずだ。
知らず知らずの内に喉が鳴った。
こんなこと、するべきではない。
何度となく自分の中で繰り返してきた言葉をまた反芻する。
こんな、書類上結婚しているとはいえ、実情は同じ家に住んでいるというだけの女性の部屋に入るなんて、そんなこと、するべきじゃない。
とはいえ、ともう一人の俺が脳内で言った。
彼女の趣味とか嗜好を少しでも知る手掛かりになるのなら、気付かれずにすれば良いだけのことだ。もし何か怪しい事をしていたとしてもそれを発見する事が出来る。
なに、第二とはいえ妻なのだから、部屋に入ったって不思議じゃないだろう。
俺はもう一度喉を鳴らすと、そろりと、しかし素早く、彼女の部屋のドアノブをひねった。
部屋の中は大きなベッドが鎮座している以外はひどく簡素だった。
見慣れた家具職人の作りの精巧な家具が並んでいてきちんとした部屋にはなっているが、それ以外には特に何も無い。テーブルの上に書き物をした紙が広がっているわけでもないし、何か本を読んでいる様子も無く、羽織りものが椅子やベッドに広がる様子も無いし、ベッドは皺一つなく綺麗にベッドメイクされていた。
まるで客間だ。
それが初めて入った彼女の部屋の感想だった。
ここで彼女が暮らしている姿が全く思い浮かばない。
彼女は確かに毎日ここで生活しているはずなのに、その匂いを感じる事が出来ない。
クローゼットを開けると見慣れた職人の服が数枚そっとかけてあり、それも全て丁寧に皺をとってある。奥の方に外套と帽子が使われている様子が無く一つずつ置いてあった。
思えば、彼女は身一つではるばる王都へ来たのだった。
彼女の部屋の全てが、見慣れた家の中の物と同じだという事に驚きと歯痒さを感じる。
彼女は何も欲しがらなかった。
今まで何も必要だと言った事が無かった。
もちろんこの屋敷に最低限のものは準備されているが、何か自分の意志で欲した事があっただろうか。
いや、自分はそれを聞ける程に彼女と近くなかった。
年頃の女なのだ。
自分の好みが確立している、一人の人間なのだ。
これまでの自分の気の利かなさぶりにため息を吐きながら扉を閉めようとしたとき、やけに目に付く強い色味のものをクローゼットの奥に見とがめる。
がさ、と音を立てて出て来たのは、どこか見覚えのある包装紙と紙袋。
こんなもの、うちが渡すわけが無い。
あまりにも当家と趣味が違いすぎるそれに首を傾げる。
誰かに貰った贈り物と同じ店のものか?それにしても、誰が彼女に。
畳んである紙袋を広げると中に自分の名前の書いてある小さなカードが入っていて、ようやくそれを思い出す。
あの時、彼女に渡したものだ。
処分を頼んだはずなのにこんなクローゼットの隅に丁寧に畳んで揃っていれてある。
なぜこんな、ひっそりと秘密を隠す様に置いてあるのだろうか。
流石に中身は処分したようだが、これは、もしかして。
……もしかして、彼女は取っておいているのだろうか。
このブランドが好きだったのだろうか。それとも…………いや、憶測の域を出ない。とにかく彼女に何か贈ろう。そしてそれも取っておいていたとしたら、また考えよう。
元通りにしまい、クローゼットを閉める。
ふとチェストの上に目をやると、小物入れの手前に黒いベルベットの小袋が置いてあるのを見つけた。
それが生活感の無いこの部屋の中でどこか不釣り合いに使用感があったので、もしやこれは彼女の唯一の私物なのではないかと思い至る。
中には何を入れているんだろう。少し膨らみのあるそれは、小物なんかを入れているのだろうか。だとしたら彼女の嗜好がわかるいい機会だ。
そっとそれを手に取ると、カサリと小さく音が鳴る。
息を潜めていないとほとんど聞こえないような小さな音だ。
紐を引き袋の口を掌にあてて下を向けると、小さな四角いクッション型の物が転がり出る。
「…なんだ、これは。」
奇妙な既視感を感じる。
掌に落ちたそれはあんまりに小さく、まるで子供が自分の大きさに合わせて作った様に幼くいびつだった。
中でカサカサと音がする。乾いた物が擦れるような、微かな音だ。
本当に僅かに花の香りがする。
「…匂い袋、か。」
いったいこれが彼女の何だと言うのだろう。こんなに生活感のない部屋で、たった一つだけ大切にしているこれは。
そういえば彼女は姉妹がいるらしいから、どちらかに貰った物か。
いや、それにしてはどうしてこんなにも既視感を感じるのだろう。
腑に落ちない感覚を持て余しながら、あまり長く滞在してはいけないと思いそれを元通りに戻し、入ってきたときと同じくそっと出て行く。
一階に戻ると、変わらずにキッチンで何かを焼いている後ろ姿があった。
甘い匂いが漂いはじめていた。
この時気がつけば良かったのだ。
どうして彼女の持ち物を、俺が見たことがあるのか。
なぜ見覚えがあるのか。なぜ胸が靄がかった様に気持ちが悪いのか。
次男は童貞です