日常
日が経ち、また変わらない毎日を送っていた。
毎日毎日飽きることなく増やされる仕事に、ため息を吐きながらもそれを片付ける。
いっそやることが出来て暇つぶしになったと開き直った方が楽しいかもしれない。
本宅から見慣れた執事がやってきて、一人ではたきを持っていた私に手紙が渡された。
差出人を見ると未亡人の奥様で、まさか本当に招待状を送ってきたのかと少し驚いた。
「長く続きますね。」
感謝を述べて、玄関へと執事を見送りについていく道で執事は穏やかにそう言った。
「何がですか?」
いきなり何を言うのかともしや皮肉かと瞬時に思考が巡った。
「結婚生活。」
どことなく冷めた表情で、口角だけは上がった顔が私を見下ろした。
「旦那様は帰っていらっしゃっていませんよ。」
間髪入れずに告げた言葉は、結婚生活なんて呼べるものではないと言外に含ませたものになった。
この食えない執事はそれに気がついたのかふと短い息を吐く。
「…そうですか。」
「それにお話ししたこともありませんし。」
「…なぜ、と思ったことはないのですか?」
「なぜ私がとは思いますが、他に何を思うのですか?」
「彼が、なぜ正妻を取らないのか。」
明け透けな物言いをする執事だ。
嫌いじゃないけれど。
お茶でも、と客間を指差すと、いいえと彼は首を横に振った。
簡潔に申し上げますね。といささか眉を顰めながら、彼はこうだと語った。
夫は幼い頃の記憶がないらしい。
ないと言うと語弊を招く、うっすらとは覚えているそうだが。
なんでも、その無い記憶の中で、彼は結婚の誓いを立てたそうだ。
だが肝心の相手もそれがどうして出会ったかも思い出せず、それでも律儀に誓いを守っているらしい。
尖った態度なのは、当主も親族もそれに反対していていいから妻を娶れといい続けてきたから。反抗期も合わさって一時期は酷い荒れようだったと。執事が言うには。
そして年も年だととうとう実力行使に出た当主には流石に敵わず、系譜最大の親子喧嘩をした末、皆の気をもませた次男坊はついに、迎える相手を正妻ではなく第二夫人に据えるということで落ち着いた、と。
もしも、本当の相手が見つかった時に、正しく妻に迎え入れることが出来るように。
「そうですか。」
「…何も、お思いにならないので?」
別に、何も。
ただ、その人が見つかれば、私はお役御免になるのだろうか。
見つからなければこうして、このまま。
「見つかるといいですね。」
「……そうですね。」
帽子を被りなおして、執事は出て行った。
嫌なことを言う男だ。
なぜ正妻を取らないのか、なんて、丁度思っていたところだった。
私は、いつの間にか…パーティーの日から、夫を少し気に掛けるようになっていた。
せっかく夫婦になったのだから、互いに無関心も良くなかろうと自分に言い訳をして。
あの日に見た顔と話す声を、毎日、毎日。
どんな顔で話すのか、どんな調子で話すのか、不思議なことに見合いの話を受けた時よりも相手のことが気になり、仕方が無い。
それでもそうか、夫には想う相手が居たのか。
想う相手と結ばれない夫と、今も昔も知られない恋を拗らせる私。
思ったよりも、お似合いの夫婦じゃないか。
私は結局誰にも想われない。
「お帰りなさいませ。」
「ああ。」
差し出されたコートと帽子を受け取りコート掛けに持って行く。それで短い触れ合いの時間は終わり。
パーティーのあの日から何故か、夫が時偶帰宅するようになった。
こういうとものすごく違和感があるのだけどとにかく、夜に帰ってくるのだ。
そして自室で寝て、朝早くに朝食もとらず屋敷を出て行く。
どんな心境の変化か全くわからない。
初めの頃は戸惑ってばかりいたけれど、いつしか速くなる脈を押さえて指折り数えるくらいには慣れた。
……楽しみにしていた、と言ったっていいだろう。
とにかく私はその少ない触れ合いを、少なくとも私を害さない夫を待っている節があった。
いつしか、本宅から日替わりで派遣されていた嫌がらせメイドは来なくなった。なぜか。
給料泥棒と嫌がらせがバレたんじゃなかろうか。普通に考えたら、夫が帰る訳でもない家にメイドを送るのが無駄なだけだと判断されたのだろうけど。
昼間この屋敷にいる私以外の人間は午前中だけの庭師と見張り番の男が一人。
減った仕事と増えた暇な時間に、私は読書と勉強くらいしかすることがなかった。
暇な時間が増えた所為で夫のことを考えてしまう。
いつだって、チリチリと胸を炙るような気持ちを煩っている。
拗らせた初恋を持て余しながら、私はまた叶うことのない想いを。
手を止めることなくノートに書き込む。
単純な勉強でもしていないと頭が溶けてしまいそうだった。
夫が三日に一度くらいの割合で帰ってくるようになった。
気まぐれに帰ってきていたこれまでと違って、だいたい決まった間隔で帰るようになったのだ。
何があったのかわからない。けれど、夜の広い屋敷の中に自分以外の人がいると思うと少し胸が温かくなる。安堵するに近いと思う。
大変に暇なため、夫のためにお風呂を用意しておくのも別に苦じゃなかったし、帰ってくる日が決まっていれば夫用に少しは用意をすることも出来た。
相変わらず屋敷に帰宅してからは玄関での挨拶以外話すことはなかったし、彼もすぐに部屋へ向かいそのまま出てくることもなかった。
そんなある夜ふと見ない袋を下げて帰ってきたかと思ったら、コートと帽子と一緒に渡され、何も言わずに自室へと向かう夫の背中に慌てて声をかける。
歩みを止めずに、処理をしてくれとだけ言われた。それでその日の会話は終わり。いつもより一言多かった。
前例のないことに少し戸惑い、玄関で途方に暮れて立ち尽くした。
それでも、こちらを見もせずとも、初めて渡された物が何より嬉しかったのだ。
押し付けられたのがよくわかる、派手な装飾。
女物の香水の香り。
宛先は夫の名前と軽い一言、女性のサインが書かれたメッセージカード。
上品な屋敷と上品な貴族には不釣り合いな強い色味の包装の中に、中流貴族の女性が贈り物でよく使う店のお菓子がちょこんと入っていた。
初めて、夫から、渡されたもの。
例え嫌いな人から送られた物の処理だとしても、私がどうでもいい相手だからこそ渡されたのだとわかっていても、夫に何の気もないことを理解していても、それでも、嬉しかった。
王都に来てからはじめての、私に渡された、必要最低限以外のもの。
処理を頼むと言われても、私はそれをいつまでも捨てる事が出来なかった。
中を取り出すと箱も袋も包装もそのまま綺麗に、汚れも皺もつかないように、クローゼットの中にそっと隠した。
「結婚おめでとう…、か。」
自分宛に贈られた唯一の祝辞のカードを眺め、くるりと裏返す。
「何かあったらいつでも頼ってね。…なんて。」
そんなこと、できるわけないのに。
あの奥様なら逃げた私を隠す事も容易いと思うけれど、でも作らなくても良い敵を作る事になるだろう。
そんなことできるわけない。
だから、気持ちだけ貰おう。
「ありがとう、奥様。」
あなただけです、私を祝ってくれたのは。