パーティーの日2:次男
従者はただ静かに待っている。
屋敷の前には大勢の使用人が待ち構えている。ずらりと並ぶ様は迫力があり、統制がとれていて何かの舞台のようだ。
踏み台を降り振り返り、彼女に手を伸ばす。
深い茶色の目が俺の手袋へと向けられる。一呼吸の後、彼女は薄いレースの手袋をした手を伸ばし、俺の掌に重ねる。細く、柔らかい手だった。
何の重さも感じないままその手を引けば、彼女は馬車の扉をくぐる。
ドレスを抑えて差し出された足の先が露わになり、その甲の生白さに眩暈がしかけたが寸での所で正気を取り戻す。彼女の肌がどこかしこも輝いているなんて、そんな。
従者がどうとか、屋敷の使用人がどうとか、後から着いた他の客がどうとか、もう視界に入らなかった。
俺の手の中の彼女をエスコートするという使命で頭の中がいっぱいになった。
赤い絨毯が敷かれた階段を上がる。
一歩ずつ、一歩ずつ。
大きく焚かれた炎が揺らめくごとに彼女の影が揺れ、肌に落ちる影も揺れ、光が揺れては散る。その華奢な首に巻かれた首飾りでさえ彼女の肌に影を作っては光を映した。
その時、世界に音は無かった。
誰かが息を飲んでそれきりのような、彼女と俺だけの世界だった。彼女は表情を変えず、ただ光の加減だけが彼女の雰囲気を変えていた。
階段を上り切る。屋敷の中は煌煌と明るく、また人の声で賑やかしい。
一気に音が戻ってくる。
彼女は少しだけ顎を引いて、俺が進むままに着いて進む。
彼女はそれはもう人目を引いた。
進むごとに、人が振り返って彼女を見る。ぽかんと口を開けて見ている男さえいた。今は隣に俺がいるからまだ良いが、いなかったらどうなっていたことか。この会が夫婦同伴でなければどうなっていたか。
彼女がいるから普段よりも人に声をかけられる。
親しげに声をかけて来てはチラチラと彼女を見て、紹介して欲しそうに話を振る。
内心の拒否を振り切って彼女を紹介すれば、彼女は花が開くように微笑んだ。
もう心底驚いた。そんな表情を初めて見た。どういうことだ。軽く固まって彼女を見れば、彼女はどうしたのかとばかりに小さく首を傾げた。まっすぐ俺を見ている。焦げ茶色の瞳が明るいシャンデリアの光の粒子によってきらきらと色を反射させていた。
もう何も言葉が出てこなくなって、それどころかこれ以上人目に触れさせるのも憚られて、彼女から話題を逸らせた。
それを何度も繰り返す。
途中傍を通った使用人の持つトレーの飲み物を酒でないことを確認して彼女に渡す。
受け取ってまた微笑んだ彼女に、何か言うことも出来ない。自分の不甲斐なさに腹が立ちながらも話しかけてくる人達をあらかた捌き続けた。
いい加減うんざりしかけた時、大きな腹を抱えて公爵夫妻がやってくる。ふと話の間に二人の視線が彼女をじろじろと眺め回しているのに気がついた。
カッと頭が熱くなった。話を区切り、一呼吸置く。
彼女をその視線から遮るように振り返り、おや、と少し大袈裟に言う。
「公爵、すみません。妻はこういった場は不慣れで、少し外で休ませます。」
妻に少しだけ強さを含める。全く不躾な視線を彼女に送るなんて許せた話ではない。
少し怯んだ公爵を置いて踵を返した。
彼女の手は変わらず細く柔らかい。その手を離さないように、人を分けながら進む。彼女に誰も触れないように。
この屋敷の中庭にはベンチがある。パーティー中は誰も来ない。あの中にいることがステイタスであるから、彼女を一人にするのにもってこいだ。誰かに不躾な行いをされることも無い。
広い中庭の、奥まった場所にひっそりと置いてあるベンチの傍に彼女を連れて行く。
薔薇の蔦のアーチの下で、彼女の耳元でそっと囁く、つもりだった。
優しく、優しく囁くつもりだったのだ。
ただ、耳元に顔を寄せた時。
甘い、微かな花のような香りが鼻に届く。彼女の発する光と熱、そして生気と相まって、それは甘美な誘惑だった。
動揺して何と言うつもりだったのかも全て頭から吹っ飛ぶ。
真っ白になった頭を必死で働かせても働かず、自分が迎えにくるまでここにいろ、という素っ気なくなんの労りも無い言い方しか出来なかった。
咄嗟に何か付け足さないと、と思ったが、それ以上何も言葉が出てこない。
何のフォローも出来ないまま、彼女は頷いた。
彼女が動けばまた微かに甘い香りが香った。ぐ、と何かの衝動を押さえつける。
言葉では言い表せない何かの衝動が体の中を襲った。それきり何も言えず、一瞬の逡巡の後、踵を返し会場へと戻る。
中庭に出入り口に立つ使用人に、だれも中庭に出さないようにと言伝てて。
パーティーに戻れば散々と声をかけられ、彼女のことを探られそうになったので挨拶のみで躱し、この屋敷の持ち主の所へと向かう。
真紅のドレスに身を包んで、亜麻色の髪は豊かに流行の形に結われ、毛先は首元に揺れている。手元には昔から変わらない好みの派手な扇子を揺らしながら、その人は暖炉の前に居て談笑していた。
彼女は意地の悪い微笑みを隠しもしないで俺を迎える。
「あら、今日一番の男前が来ましたわね。」
「ご無沙汰しております。」
話していた人が離れると、側仕えが酒を渡してくる。
扇子で近くまで呼ばれたので近付く。
「あなたの話題はいつもどこかで聞くけれど、今日はなんとも人目を引いていること。」
真紅が引かれた笑いを隠しきれない口元を扇子が隠す。
この屋敷の持ち主は情報通で、未亡人ながらもそれで地位を築いてきたようなものだった。酔狂なパーティー好きなのが玉に瑕だが、それ以外はひどく信頼が置ける。
家の一族とも少なからず関わりが深い。
でも今は何と言うのか、親戚の世話焼きのような鬱陶しさがある。
「うふふ、若い娘達ならずも女は皆残念がるわねえ。」
「ご冗談を…。本日は盛大なパーティーにお招きいただきまして、」
「あらあ、いいのいいの。会いたかったんだもの。」
薄くはない化粧で年齢すらも覆い隠す、気の強そうな美貌があっけらかんとした口調と共に崩れた。扇子をパタパタと振り、そして困ったように頬に当ててみせる。
「会いたい人を皆呼ぼうと思ったら、大きくなりすぎちゃって。いらない人まで来ちゃったわ。まあこうして本来の目的が果たせてるから良いわ。」
「…最近はあまりお会いする機会もありませんね。」
「そうねえ、あなたのお家、皆お忙しいのだもの。また家にも遊びにいらして。」
「はい、ぜひ家にもいらしてください。」
「ありがとう。……うふ、それで、どこなの?」
きょろきょろと視線を動かす彼女が誰を捜しているのかなんて今までの流れからわかったが、面倒なのでとぼける。そもそも人目を引きすぎたから挨拶にも連れてこなかったのだ。
もう!と怒っているのか笑っているのか微妙な顔で畳んだ扇子ではたいてきても、もうこの会場に彼女を連れてくる気はなかった。
頑に拒めば諦めたのか、最後にもう一度扇子で叩かれる。
「今彼女はどこにいるのかしら?」
「……疲れたようだったので、中庭で休ませています。」
「え〜!会いにいきたいわ。」
「もう御暇しますので。」
「いやだ、ケチ。」
お母様に言いつけるわよ、と腰に手を当てて怒っている彼女に、さっきから待っていた客を案内してやった。
あら、とコロリと表情と態度を変えるのを見てから踵を返す。
もう挨拶は全て済んだ。
彼女を連れて帰ろう。
また中庭に着く間にも幾度も声をかけられて、彼女を迎えに行くのにしばらく時間が経ってしまう。
慌てて早足でバルコニーを抜ける。静かな庭の小道を中庭に抜け、彼女を置いた蔓植物のアーチを進むとベンチが置いてあって、彼女はそこに腰掛けていた。
俺が近寄ると気がついて顔を上げる。
暗い、月明りとささやかなランプの明かりだけなのに、彼女はここでも発光しているかのように見えた。
彼女は小さく首を傾げる。
首元のネックレスが揺れて、小さく明かりを反射した。
「…もう、戻る。」
きょとり、と一度、二度、三度…彼女は睫毛を揺らし、瞬きをして、はいと頷いた。
彼女に手を伸ばす。
こんなところでもないと、こんな機会でもないと、おそらく一生彼女に触れることも無かったのではないだろうか。
パーティー会場に戻らず済むように庭を通りながら思う。
無言のまま、少しだけ歩く。
人目も無い庭の中では、少しは気楽に彼女を連れられた。
ただ腕に触れ続ける微かな感覚だけは、この先一生忘れられないだろうと思った。
あっという間に馬車についてしまう。
慌てたように御者が用意をするのをゆっくりで良いと窘めて、彼女を馬車に入らせる。
こくんと頷いて彼女は先にステップを上がる。
ふわりとドレスの裾が俺の腕にかかり、その奥にある白い肌が透けた。
その衝撃を何と言ったら良いのか。いけない物を見てしまったかのようで目をサッと背ける。彼女が腰を下ろすのを確認して続いて入ったが、存在を意識しすぎてしまい何も言えない。というか正気を保つのがやっとである。
動き出した馬車の中、どちらも何も口に出さずに沈黙が場に降りている。
長い長い道のりを耐え切ることが出来ず、というかはじめから御者には頼んであったのだが、市街地の俺の会社に立ち寄ってもらう。そこで馬車から降りる。
俺が立ち上がると彼女はちらりとこちらの様子を見て、また目を伏せた。
何か、言わなくては。
そう思えば思うほど何の言葉も浮かんでこない。
外では御者がステップを用意する音がする。
何も言えないまま、馬車は行ってしまう。このまま屋敷に戻るように伝えてある。
彼女はパーティーに疲れただろうか。
ああ、そうだ。疲れたか、とか、ゆっくり休めば良いとか、そう言えば良かった。
やっとそう考えついたのは会社のソファーで足を投げ出した後だった。
目を閉じれば、彼女の笑った顔が浮かんでくる。
「…くそ…」
あの華奢な首も、開かれた襟ぐりからさらけ出された鎖骨も、光を浴びてきらきらと輝く肌も、細い手首も、足の甲も。
全部が全部脳裏に焼き付いて離れない。
これを何と言ったら良いのか、俺にはわからない。