パーティーの日:次男
憂鬱なパーティーの日が来た。
朝、事務所のソファーで目を覚ますと、秘書が呆れたような顔をして見下ろしていた。
目が合う。
「あなた、またここで寝たんですか?」
「……見下ろしてくれるな。」
開口一番またかと言わんばかりの声色で言うそれも大分聞き飽きていた。
「今日はパーティーの予定でしたよね?」
もっともな確認には苦虫をかみつぶしたような顔で答える。
やれやれと大きくため息を吐いた秘書はパーティーの服用意しておきましたから、とだけ言って俺のデスクに書類を積んだ。
「時間なんですけど。」
ペンを取り上げられたのは昼をだいぶまわった頃で、この有能な秘書は今日も有能さを発揮してきた。
「まだ間に合うだろう。」
「いいえ、着替えてください。」
「いや、まだ良いはずだ。」
「よくありません。ほらコレ。」
無理矢理書類を取り上げられ、パーティー用の服を腕に押し付けられる。
「お前雇い主の話聞かなすぎじゃないか、いつも。」
「雇い主が自らの不利益になることをしてたら止めますよね、普通。」
「してない。」
「してますけど?はやく着替えてくださいねー。」
有無を言わせずに姿見を転がしてくるわ書類をまとめて鞄につめるわでこの時ばかりは有能すぎる秘書を雇ったことを心底後悔した。
「後悔してる暇があったら着替えてくれません?」
「部屋から出てってくれ。」
「はいはい。」
渋々腕を通した服はピシリとノリが効いていていつも通り、こんなところも有能でもう喜べば良いのか嘆けばいいのか分からなくなる。
「はいお疲れさまでした、馬車は通りの角に停めてあります。この鞄の中は確認してもらうだけの報告書類なので移動中やることなかったら目を通してください。もちろん奥様といちゃつくのに忙しかったら明日で結構ですから。」
「お前いつも余計なこと言うよな?」
「いってらっしゃーい!」
俺のしかめ面に何の反応も示さず、軽い鞄を腕に押し付けてきた秘書はにこやかな笑顔で手を振った。
そう言えば今日は夜早く帰るように指示したし、ああ見えて新婚三年目(間違いではない)の秘書の奥方は料理上手で、そういう日には家でたくさんご馳走を作って待っているんですと話していたのを思い出した。
人の話とはいえなんとも言えない恨めしさで苦い気持ちが沸きそうになる。
秘書にとっては今日はたいそう楽しみな日だろうが、自分にとっては受難の日に違いない。とても憂鬱だ。
通りの角までの道がひどく遠く、歩くのに困難な道のようにすら感じる。
見慣れた従者が深々と頭を下げるのを手を挙げることで止めて、いつもありがとうと声をかける。恐れ入りますとスムーズにドアを開ける手慣れた仕草に頷きを返しながら、とうとう馬車に乗り込んだ。
思わず、呼吸を止めた。
見慣れた馬車の中はむせ返るような瑞々しさで満ちていた。
艶やかな黒髪は纏められて結い上げてある。流行の形ではないが、細いうなじが際立つようなそれは彼女によく似合っていた。
おそらく本宅の、それも母の侍女が化粧をしたに違いない。肌はつやつやと輝くように、その瞳の深いブラウンが際立つように、その頬が陶器のようになめらかで内側から色づくように、その唇が少女のように微笑んでみえるように。そうしたに違いなかった。いつものように伏せられた目蓋にすら蠱惑的な生気をひそませて、彼女は静かに座っていた。
シンプルな作りのドレスは母の好きそうなデザインだったが、控えめながら裾が広がる様を見るにどうやら若者向けの作りになっているようだ。そのふわりとした素材が艶々と光る体を包んで窓の隙間から入る風に揺れている様は、ふとした瞬間に彼女を年頃の少女のようにも見せ、普段の印象とのアンバランスさを漂わせている。
正直に言うなれば、目の前の彼女はとても美しかった。
それが化粧のせいなのかドレスアップのせいなのかわからない。
ただ、彼女はドレスを着て尚、草原を駆ける子鹿のように伸びやかで自由そうに見えた。
それが目を覆いたくなるほどに眩しくて、新芽の芽吹く森のように涼やかな気配に満ちていて、その健康的な美しさに眩暈がした。
馬車が走り出す。
入った時に顔を上げた彼女は何も言わずにまた目を伏せている。走り出してすぐはしばらく窓へと視線を向けていたがそれも今は下を向いていた。
俺はといえば平静さを保とうと鞄から書類を取り出したはいいがちっとも頭に入らない。
こんな時、なんと声をかければ良いのだろうか?
女性の張りつめた空気を和らげるような言葉を知らないのを心底悔しく思う。
考えてみれば、近くに居た女性といえば母や義姉や親戚やパーティー会場で出会う社交界に嬉々として出向くようなタイプばかりで、彼女のような人を知らない。
使用人として本邸にいた人達も昔からの顔ぶればかりで、彼女は俺の世界にいないタイプの女性なのだった。
そもそも彼女と話したことなんて数えるほどしかなくて、彼女がどんなふうに話すのかさえも碌に知らない。
この時ばかりは、彼女と交流を取ってこなかった自分を心底呪った。
チラチラと彼女の様子をうかがうが、人形かとも思えるほど、彼女は目蓋を伏せて微動だにしない。
何度も口を開き、言葉が出なくてそのまま閉じることを繰り返して、しばらく。
ガタン、と馬車が揺れて、彼女がパッと目を開ける。
長い睫毛がふるりと震える。その様ですら細かい光の粒子が周りに飛んで見える。
その奥にうるむ瞳が少しの揺れを見せて、それに見惚れてしまう。
少しの衣擦れの音にドキリと心臓が跳ねた。
何から言えば良いのだろう。逡巡を重ねて尚言葉は決まらない。
彼女の目がまた伏せられていく、その前に何か言わなければと焦って、俺の口から出た言葉は。
「なにか」
彼女がその深い茶色の目をこちらに向ける。
ひたりと顔に向くその視線に、なんとも言えない力があるような気がして、口にでるままに言葉を続けてしまう。
「余計なことは言ってくれるな。」
違う、こんなことが言いたいんじゃない。
「会の間、ずっと俺の後ろに控えていろ。」
こんなクソ野郎みたいなことを言いたいんじゃなかった。
もっと、言うべき言葉はあった。
もっとまともに、例えば彼女に歩み寄るような、少しでもこの時間が穏やかなものになるような、そんな言葉があったはずだった。
「かしこまりました。」
小さな声で言った彼女は、ひとつ瞬きをして、またその睫毛を震わせる。
ため息が出た。
そうじゃないだろうと歯嚙みしたい気分だったがもう後の祭りだった。
それきり彼女はまた目蓋を伏せてしまう。
もうどうしていいのか、どう挽回すれば良いのかわからなくなって、言葉が出ない。
手元の書類はちっとも読み進まない。
そのままの沈黙が永遠に続いていくような、重い空気が馬車の中を包んだ。
随分長い道のりだった。ようやく馬車が止まり、従者が扉を開く。
ああ、ようやく。
この空気から脱したくて俺は内心必死だった。パーティーになれば、彼女は俺の傍に控えるしかなくなる。そうすれば少しはなにか、気の利いたフォローを入れられるかもしれない。そのチャンスがめぐってくるかもしれない。そう自分に言い聞かせながら馬車の外へと足を踏み出す。
彼女は目を伏せたまま動かない。ふるりと睫毛が揺れ、また空気がゆらりと動く。
この美しい生き物を、パーティーなどという品定めの場に連れて行くなど許されるのだろうか?
心の中に湧き出た問いには最早確信を持って答えを導き出せた。
守らなければならない。それだけだった。