初恋:次男
彼の話
これは貴族の次男と商家の次女が夫婦になる話なのですが、名前がまだありません。
彼女は私、彼女、女、次女、お嬢様と呼ばれていて、
彼は俺、彼、夫、または次男、坊っちゃまと呼ばれています。
今後名前がつくかはわかりません。
今回は彼の方のお話です。
妻を娶れと言われ、両親、というか親父と系譜最大と言われる親子喧嘩をしたのも記憶に新しい。
俺が折れることになったのをいいことに、親父はさっさと方々へ手を回し、どうにか適当な相手を見繕ったらしい。
俺は馬鹿ではないつもりだから一応、上流貴族の次男とはいえある程度の年の男が妻も婚約者も恋人もいないんじゃ面子が立たないという親父の言い分もわかるにはわかる。
独り身というのは付け込まれやすいものだし、同性が好きだなんだとあらぬ噂も回る。
噂が広まると仕事に差し支えるしいろいろやり辛い。
もちろん自分はその気はないし、どうでもいい相手に対して割く時間もないから浮いた話もない。一度表面だけでいいから付き合ってみろと貴族の娘を連れてこられたが懇切丁寧に断った。
だって、自分には結婚の約束をした相手がいるのだ。
俺には幼い頃の記憶がない。
記憶がない、と言うよりは、記憶がやけに朧げだという方が合っていると思う。
原因ははっきり知っている。歳が十になるかならないかの時に盛られた毒だ。
幸いすぐに家族が気付いて事無きを得たが、それ以前の記憶がとんと思い出せなくなった。
以降、めっきりと笑わなくなったらしい。毒によって表情筋がやられた、可愛かった弟はどこに行ったのだと兄貴は嘆いていたが、おそらくからかっていただけだと思う。可愛かった記憶はないし四つ年上の兄はニヤニヤと笑っていた。
まあ言われればよく楽しいと感じていた気がするがそれも朧げにしか思い出せない。
そんな中で唯一、ハッキリと思い出せた記憶があった。
どこかの屋敷の中庭で、まだ小さい俺は同じくらい小さい女の子の手を取っている。
そして、こう言うのだ。
「二人で、ずっと一緒に居ようね。」
黒い髪を結い上げた女の子は頬をピンク色に染めて、こっくりと頷いて。
「大切に、持ってるから。」
手の中にぎゅっと握りしめた何かを言葉通り大切そうに胸に抱き寄せ、大きな目を細めて嬉しそうに笑顔になる。
「だから、忘れないで。」
約束、と、小指を結んだ。
自分がこの子と結婚したいと思っていた事はハッキリと覚えている。
自分は、この子に何か渡したはずなのだ。この子は自分が大好きな子だとすぐにわかるように。だけど、そこが思い出せない。
他の記憶はほとんど思い出せないのにこの記憶だけは思い出せたということは、自分に取って相当に大切な記憶だったはずだ。幼いながらも真剣に結婚しようと思ったのだから、きっと本当に真剣だったのだろう。
彼女の顔は、正直はっきりと覚えているとは言えない。美化されているかもしれないし、朧げに補完されているかもしれない。だけど、見ればわかるはずだ。
向こうも、俺の事を覚えていてくれたなら。きっと、わかり合えるはずだ。
俺は、結婚する訳にいかない。
忘れないという約束を半分しか守れなかったのだから、せめてもう半分の約束、ぐらいは。
彼女はきっと、俺を待っているだろうから。そんな確信があったから。
だというのに、年頃の息子の純情は鬱陶しいとばかりに切り捨てられ、変わりに反抗期の仕返しだと言わんばかりのあらゆる手を尽くされ、結局は第二夫人を迎え入れる事になった。
正妻もいないのに第二夫人とはなんだ。
というか相手はそれで納得したのか。立場にかこつけてこちらの利権を奪おうとする腹黒い女なんていらないんだが、そこのところは親父も同意見らしいし大丈夫なんだろうと思う。言い争う時に言っていたので間違いはないだろう。
ある日ひっそりとした馬車で屋敷に入ってきたのは、地方の評判のいい商家の娘らしかった。
なるほど商家の娘なら貴族ではないし、なにかやらかそうとしてもすぐに押さえられるだろう。
何の荷物もなしに身一つで屋敷の扉をくぐる様を窓から見る。
あれが、これから、妻になる女か。
その晩の顔合わせの会食の時も女をじっと観察するが、なんの感慨もわかない。
女は女で何を考えてるのかわからない顔で笑いながら両親の話に相槌をうち、フルコースを胃に収めた。商家の娘だから格式張った席は初めてではないのだろうな、と思った。
会食の後、形式上だとばかりに両親に呼び出される。
「それで、お前。あの子でいいかい?」
にやにやと笑いながら聞いてくる親父につい手が出そうになる。あぶねえ。
思わず右手を握りしめると、母がそっと右手に触れてきた。
「ねえ、どうだったかしら?」
「……拒否権はないものだと思っていますが。」
「そう言う約束だったなあ。」
髭を触る親父にもう一回右手を固めてしまう。
それを母が宥めるように撫でた。
「あなたがどうしても嫌だというなら、他の子を探す事もできる、かもしれないわ。」
「かもなんですね。」
「まあ9割あり得んがなあ。」
「そんなこったろうと思ってました。別にいいですよ。変な感じもしなかったし。」
おや、と言った顔で親父が髭を触るのを止める。
母は心配そうにこちらを見ていた。
心配するなら壮大な親子喧嘩していた時に俺の味方してくれても良かったんですよ、とは口に出さないでおく。
ああ、もうしょうがないと腹をくくったんだ。両親が決めた相手なら毒を盛ろうとはしないだろうし、なにかやらかせば追い出せるしまあいいだろう。
形だけの妻にとやかく言うのも夢見ている様でナンセンスだ。
俺には彼女がいる。
いつか、必ず、見つけなくては。
そして、約束を果たさなくては。
そのためには貴族の力が必要なのだ。この家族の持つ繋がりの全てが。
婚約の書類に判を、押した。