夫婦になった
書類だけの結婚が済み、私は身一つで新居へと移った。
夫となった次男坊は、仕事で外出し全くと言っていい程姿を見ない。
これでは愛人というより後宮というかお飾りで、ほんとうに夫は私に興味の欠片すら抱かないらしい。
彼から話しかけてきたことと言えば、形ばかりの婚約の会食の数日後、結婚式はしないという一言だけだった。
それも図書室から帰る廊下でたまたま会った時のことだから、心底興味がないのだろう。
目に留まったから口に出した。あそこで会わなければ、きっと執事経由ででも聞いていたのだろうと思う。
色事もなく、言葉もなく、嫁いだ意味すらわからない。
そう思っていたのは、私だけではなかったらしい。
「あちゃー。」
今日も今日とて踏み荒らされた洗濯物が目に入った。どうしてくれる訳これちゃんと干したんですけど。
うわ、泥だらけ。
本当、信じられない。
毎日毎日飽きもせず、侍女さん達は私がお気に召さないらしい。
彼女たちは毎日入れ替わりで屋敷に来るのだけど、その全員が思うところがあるらしいのだ。
わからないでもないけれど、日替わりで来る度違う嫌がらせをしないで欲しい。
しかも御家の仕事には関わりのない、私の持ち物(嫁ぎ先支給)の物ばかりに攻撃するの。
仕事をしない代わりに家を荒らして帰っていくの本当にやめて欲しい。嫌がらせしてお金貰えるなんて、全く何て良い仕事なのかしら。
嵐が去った後、一人ぐちぐち言いながら後片付けをする。
これも、もう毎日続くことだった。
誰も知らない、私の仕事。
貴族の妻は案外忙しく、そして偽物の第二夫人は案外暇なのだなあと泥だらけになった洗濯物を洗いなおしながら思う。
当主の奥様は何かと忙しそうにしていたけれど、私には何も言われることはない。
そして、きっと、長男の、奥様も、お忙しいのだろう。
思い出の彼に似ている人は私が嫁いだ先の長男だと、引っ越す前に小耳に挟んだ。
絵に描いたような優秀な跡取りで順風満帆、才能も十分、容姿端麗で物腰は柔らかく、下々の者にも腰が低い。人望もあり、次期国王とも近しい間らしい。
彼は似ているだけだと、見る度に必死に自分に言い聞かせる。
それでも、見れば見るほど、懸想してきた相手に似ていた。
優しげな眼差しも、やわらかなブロンドも、笑い方も。
あの時の彼がそのまま大きくなったみたいに見えた。
図書室のレースを引いた窓から、奥様と一緒に中庭を散歩しているのを、よく見かけた。
ある夜、初めて夫が屋敷に帰ってきた。
帰ってきたという言い方は間違っている気がする。言うならば、やってきた、が正しいだろうか。
夜になると使用人が見張りの1人以外居なくなるため、出迎えたのは私だった。
「夫婦出席の会がある。一週間後だ。準備しておけ。」
目も合わせずにそれだけ告げると、夫はコートを脱ぎながら自室へと向かった。
私は瞬きをして、夫に手渡されたその紙を見る。
一週間後の日付と、パーティーの案内が細かに記されていた。
はたしてパーティーの日、朝早くに本宅からやってきた侍女さんに頭の先から爪先まで弄くり回されて、バケツリレーよろしく馬車へと担ぎ込まれる。
別に抵抗するつもりも逃げるつもりもないのだからべったりと付いてくれなくても良いのに。
そうは思ったが、王族に近しい貴族の、嫁いできたとはいえ末席が、下の身分の出とはいえみすぼらしい格好をするのも沽券に関わる。目を離して失敗し、やっとのこと飾り立てた完成品がみすみす崩れるのも嫌だろう。まさかパーティーに出席できないともなれば大問題、わざわざ本宅から何人もの方がやってくる理由もなるほどわかるような気がする。
どれだけ飾り立てても結局中身は商家の娘、決して変わることはないのだけれど。
途中、街中で止まったかと思えばしばらく待つと夫が乗り込んできた。
なるほど夫婦出席の会ともあれば、一緒に行くのが道理なのだろう。
貴族には守るべきモノが多い。しきたりも、沽券も、誇りも、プライドも。
入ってきたきり喋る気配もない夫から視線を外し、見えもしない外へと向けた。
街中を抜けて郊外へと進んだ時、夫が口を開く。
「なにか余計なことは言ってくれるな。会の間、ずっと俺の後ろに控えていろ。」
「かしこまりました。」
いうだけいうとため息を吐き、それきり書類をめくり始める夫に、私もまた視線を外へ逃がした。
かりそめの妻でも、こういう対外的な場では紹介されるのか。
てっきり私は形というか、名前というか、書類上だけの妻だと思っていたのだけれど。
首元の装飾品が、重い。
部屋に置いてきた匂い袋を、そっと思った。
パーティーは決して初めてではなかった。
商いの才があったために、家業の取引先に一人で赴くことも多かったから。
王都の相手はさすがに当主の父が担当していたけれど、地方の仕事相手では私を気に入ってくれる物好きな人も少しばかり居た。そういう人はパーティーの場にも招いてくれたものだ。
こんなにも豪勢なパーティーは、初めてだったけれど。
迎え出たお屋敷の方が一斉に頭を下げる。
人の目があって初めて、こちらに伸ばされる夫の黒い手袋をした手に、一瞬の迷いの後手を重ねる。
繕わねば。
私の役目は、これだ。
夫が歩けば人に声をかけられる。
後ろで控えニコニコと笑っていると、紹介をされ、また控える。
さすがは上流貴族の系譜。黙っていても人が寄ってくる。
あと、人目があるためか普段の私に対する夫の無関心がどこにも見当たらない。
ある程度は無視だが、飲み物などを受け取る際は私の分も渡してくる。
これが貴族の面の皮か。すごい。もはや感嘆の域。これではまるで、思い合う夫婦のように見えるではないか。
ふと、夫と相手の話が途切れたとき、夫がこちらを振り返り、おや、と言った。
「公爵、すみません。妻はこういった場は不慣れで、少し外で休ませます。」
「ん?ああ、それがいいでしょう。」
太ったお腹を撫でて公爵は頷いた。その横に居る妻らしい女性は、思いやりのある旦那様だこと、と笑った。
実際のところ具合なんて悪くないし彼は私が別にパーティー慣れしてるとかしてないとか知らないし、夫が相手の公爵を嫌いなのは見てわかった。
つまりは逃げるだしにされた。まあ妻って役に立つわ。
それが役目なのだから役に立たねばいけないのだけれど。
バルコニーを抜け綺麗に整えられた中庭に連れられる。
耳元でぼそりと、俺が迎えにくるまでここにいろ、と言われた。
先ほどまで被っていた面の皮は社交の場専用のもので、形ばかりの相手にはつけるつもりもないようだった。なんの関心もない声がそれをあらわしていた。
それに頷くと、扇子で口元を覆い夫の背中を見送って、どこか座るところはないかときょろきょろと周りを見回す。
朝からいろいろされて、夫は気付かなかっただろうがやっぱり疲れていた。
背の高い木に隠れるようにして用意されていたベンチに腰掛けると、少しだけ息を吐く。
いくらこれが役目とは言っても疲れるものは疲れるし、息も詰まるのだ。
いつも履かない高さの尖ったヒールは足に食い込んで歩くと痛い、飾られた頭は重いし、締められて重たいドレスを着せられて動き辛い。
繕えるぐらいの具合だけど、なんにせよ座れて助かった。少しでもジンジンと痛む足を逃がそうと、ふわりと広がるスカートの中で足を伸ばした。
足音がして現れた相手は何の偶然か、私を気に入ってくれていた仕事相手の貴族だった。
「まあー!!どうしたの、あなた!こんなところで!!」
とある地方都市の中で高い地位の貴族の未亡人は、従者を連れてこの会へと参加していた。
「本当にお久しぶりです。お会いできて嬉しいです。」
「にしても、あなたがあのお家とねえ…物事はどう転がるかわからないものね。」
「家業は義兄が継いでくれますし、夫とはご縁がありましたから。」
拒否権が無いに等しい連行だったが、それを言っては面子に関わるだろうと上手いことぼやかす。案の定人の良い未亡人はそれ以上出会いに突っ込んでは来なかった。
「でも、私はあなたが家業を支えていくのだと思っていたのよ。番頭よりも気に入っていたし。」
「もったいないお言葉です、奥様。」
「まさか、知らない間に嫁がれていたなんて存じ上げませんでした。お祝いの用意を。」
「またそちらには、新しい者が挨拶に伺いますわ。お祝いだなんて、そんな。」
「あなたが家に来れなくなって寂しいわ。…だけど、そうね、祝いも兼ねて今度招待しましょう!」
手を打った未亡人に、顔なじみの従者もにこやかに微笑んだ。
未亡人が去ってしばらくした後、夫が戻ってきた。もう帰るのだそうだ。
先ほどの様子を見るに、挨拶は一通り終わったから私をだしにしてさっさと帰ろうというわけだろう。
べつに何の未練もなく頷き、内心ぎこちなく、外面は繕いながら、エスコートに応じる。
私を馬車にいれ、自分も手を離しドアが閉められた途端に夫はいつもの無関心に戻った。
静かなまま、馬車は動き出す。
夫が笑うところを、初めて見た。
それがたとえ作り笑いでも、夫は私が場に居る時に笑ったことがなかったから。
彼が何でも人並み以上に出来るのがよくわかった。普段話さない相手にすら、スムーズにエスコートできるのだ。整った顔も相まって、今日の様子ではファンが多いようだった。
女性ならよっぽどひねくれ者じゃないかぎり褒める顔立ちと、何事もそつなくこなし、物腰は穏やかで。
彼の兄に、少し似た。
敵を作らない外面。夫の知らない一面だった。
知っているのは何かと聞かれれば、不機嫌そうな無関心そうな表情だけだった。