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おもいかなわず  作者: にっちも
19/21

破鏡再び照らさず:次男


背中で門が閉まる鉄の音を聞いて、ふと道の先に目を向けた。

道沿いに植えられている街路樹のかげに蹲る服の色を見とがめる。まさか。


恐ろしい想像が頭の中に浮かぶ。まさか彼女が倒れていて、そして…その先は考えたくもない。


慌てて近付けば、そこには膝を抱えて座り込んでいる彼女がいた。

家の帽子と外套を着ている彼女は小さく蹲り、ぎゅっと引き寄せた膝に顔を伏せていた。

俺が目の前に来たのには気がついていないようだ。


見つかった安堵にため息が漏れる。

そして衝動的に、何故こんな所で蹲っているのかと問いただしたいくらいに怒りのような激情がわき上がった。

安堵なのか、心配なのか。見つかった喜びなのか、勝手に出て行った怒りなのか。

ごちゃ混ぜになった感情がぐるぐると頭のなかでがなっている。


彼女の細い腕が震えている。

怖い目にあったのだろうか。

無事に戻ってきて良かった。

どうして出て行った。

泣いているのだろうか。

出て行くほど思い詰める前に。

せめて、せめて執事にでも、一言、言ってくれたのならば。

全て俺のせいだというのに、まだそうも彼女を責めるような言葉が並んでは通り過ぎていく。


とにかく、彼女を起き上がらせて、屋敷に。そして、話をしなければ。

柔らかなソファに座らせて、暖かいお茶でも飲ませて。

何を言おう。

いつもまっすぐに伸びていた背筋を丸めて外套に埋まる彼女は、今までにないほど小さくて弱々しく見える。こんな彼女に一体どう声をかければ良いのだろう。

どんな言葉も全て意味がない物に思えた。


彼女に何をしてきたのだ。


こんなにも、小さい、たった一人の女性を、こんなにも追いつめたのだ。

どんな言葉をかけてもすぐには受け取ってもらえることなどないだろう。

それでもいい。

彼女を、このまま。

こんなにも痛々しいまま、ここに残せない。


その考えに至ってそのまま、腕を伸ばす。

手のひらに感じるのはあまりにも細く柔い腕の感触だった。

彼女が驚いて、そして怯えて顔を上げる。

俺の顔を見て、ヒュッと小さく息を飲んだ。

その反応に心が痛む。

とはいえ俺の口から出たのはひどくそっけない、怯えを助長させそうなだけの言葉だった。


「…何をしている。」


彼女は俺から逃げようと地面を掴もうとした。

後ろには樹があるせいでそれ以上下がれず、よじるように体を引いただけに留まったが。


彼女を引き上げる。

引いた腕は掴んだ通りに細く、力を込めれば折れてしまいそうだった。体も、きちんと食べているのか怪しいほどに軽い。軽過ぎるくらいだ。

衣擦れの音と一緒に彼女が数度たたらを踏む。僅かな力で抵抗されているのがわかるが、彼女が戻る場所は今はこの屋敷しかないのだ。出て行きたくても、一度は戻ってもらわなくては。そして、出来たら。


出来たら、いつかは、ここにいたいと言ってくれたら。


ぐっとそのまま腕を引いて屋敷の門へと向かう。

それきり彼女は抵抗もせずについてきた。

手の中の細い腕を握りしめる。

思えば初めて触ったこの腕はあまりにも脆く、か弱かった。


屋敷を進んでいく。

途中驚いたように出て来た執事は俺の顔を見て呆れたように、そして心底心配そうに眉を寄せた。言葉も無く声をかけてくれるなと目で訴えると一つ頷いて下がってくれた。


そのまま、階段を上がる。

彼女の部屋へと連れて行くべきだろうか。

そうすれば、彼女は少しでも落ち着けるだろうか。

こう言う場合はどうすれば良いのか、全く思考が空回りする。

どうしたら、どうすればばかりでちっとも解決策が出てこなかった。


たどり着いたのはこの屋敷で俺が唯一自主的に来る自分の部屋だった。



長く、重い沈黙だった。

自分の部屋に連れ込んだのは良いが、その先をどうすればいいのか全く思いつかない。

彼女に向き直ってしばらく経つが、彼女はずっと俯いて何も言わなかった。


その姿があまりにも哀れで、小さくて、どうしようもなく胸が痛んだ。

握った腕は、思えば小さく震えていた。

叱責を恐れているのだろうか。それとも、俺が恐ろしいのか。

もうその柔い腕は俺の手の中には無く、彼女の胸元で自分を守るように、神に祈るように手を合わせ握られている。


その手を取りたいのだと告げるのはもう今更のことだろうか。

もう、全ては遅いのだろうか。


「…どうして、家を勝手に出た。」


出た声はかすれて、ひどく緊張していた。

あなたがもうここに居たくないというのなら、俺は…俺は。

彼女の胸元で握られた手は肌に血の気が通らないほど強く握りしめられている。

そんなに、答えるのも苦痛な程だろうか。それともやはり俺が怖いだろうか。

はくはく、と彼女の口元が動く。何度か唇が震え、俺よりもずっとかすれた声がか細く震えている。


「…不用意で、ございました。申し訳、ございません…でした。」


そんなことを、言わせたい訳ではなかったのに。

俯く彼女はその顔にかかる細い髪の毛先を微かに震わせる。


「お咎めは、受けます。ですから……、」


その先に続く言葉を失ったように彼女はそれきり言葉を発さない。

ですから、のその後はなんと言おうとしたのだろうか。もし、ここに居たいと言おうとしてくれたのだとしたら。

それなら、良かったのに。そう思って目を覆う。

彼女がその後に沈黙を選ばず、小さな声で消え入りそうな謝罪を繰り返す方を選んでくれて良かった。だって、沈黙が訪れていたとしたら、俺は間違いなくここに彼女を縛り付けるように強要していたに違いないのだから。


彼女の肩はずっと小さく震え続けている。

それがあまりにも哀れで頼りなくて、もう俺は掛ける言葉を見失ってしまった。

この人が俺の目の前にいてくれたらそれだけで良いような気がしてきた。


「…部屋に戻れ。」


強ばる体は震えることを止めない。

謝罪を繰り返すだけの彼女を止めたくて、その細い腕を掴んで引き寄せた。

反射的なのか逃げようと腕を引かれるがそれも力が弱いため何の抵抗にもならなかった。

部屋を出る。

彼女の部屋に送ろう。


もう、もう二度と無断で俺の目の前からいなくならないでほしい。

出て行く時は俺が見送ってからにしてほしい。


「二度と外に出てくれるな。」


小さな縋るような声だった。


静かな廊下を進んでいく中で、俺が掴んだ細い腕だけが僅かな接触だった。

二人分の足音は絨毯に吸い込まれていく。

少し進んだところで彼女の歩みが遅くなり、腕が引かれる。

今更ながらに接触が嫌になったのかと不安になって振り返ると、そこには。


彼女が泣いていた。


泣いているところを、初めて見た。

静かに、両の眦から涙が頬を伝っていく。

どれだけ泣いていたのだろうか。止まることの無い涙は幾度も幾度も頬を伝い続ける。

さっきは泣いていなかったのに。いやもう泣きたかったのだろうか?

俺は恐怖を与えてしまっただろうか。それとももうここが嫌なのだろうか。

呆然と彼女を見て立ち尽くす。


「…どう、して…。」


自分の口から漏れた声と比べ物にもならない、声にもならないほどの声が彼女の唇から小さく漏れ出ている。

その唇も血の気が引き、震えて戦慄いている。


「ごめんなさい…」


それはまた繰り返される謝罪だった。

彼女の目が、その深い茶色が、俺を見上げる。

瞳に涙を湛えてまっすぐに俺を見た。

美しいその焦げ茶色が涙に潤んで、睫毛がふるりと震えた。


「…どうすればいいのか、わからないの。」


ぽつん、と落ちるような言葉だった。

彼女の孤独が身にしみるように感じて胸が痛くなる。


「……お願いだから、どうか……。」


かすれる声は吐息と一緒に唇からこぼれ落ちる。

涙は止まらない。

その瞳は悲しげに揺らいでいる。

瞬きをするごとに目尻から涙が溢れていった。


「もう、…苦しいの。」


絞り出したような声音が胸を抉る。

解放してほしいと、もう孤独は嫌だと叫んでいるような気がした。

血の気の引いた唇から、堪えられないと言うような悲痛な嗚咽が漏れる。思わずといったように口を抑えて俯いた彼女は、もう一つの手で胸を押さえた。

なんて痛々しいのだろう。

みているこちらでさえ胸が痛くなる。

彼女をこんな姿にまで追い込んでしまったのは、間違いなく俺なのだ。

いつも伸ばされた背筋は今日はずっと小さく丸められている。彼女は苦しげに肩を震わせた。


彼女を解放してあげた方が、彼女のためになるのではないだろうか?

俺の中でそんな確信に満ちた声が聞こえた。

そんなことが出来るのか?と問いかける声に、俺は否と答えた。


すまない。

目の前で小さく、脆く、それでいて尚美しいままの彼女に心の中で謝罪した。

すまない。

声に出ない。

すまない。


もう20年近くも求めてきた人を、俺はこんなにも傷付けてしまったというのに。


胸の前で握られた手を取って、彼女の部屋へと進む。

最早彼女は何も言わずに力なく着いてきた。

二人の間に会話は無い。


彼女が俺を覚えているかどうか、彼女が俺をどう思っているのかどうか、彼女がこの家をどう思っているのかどうか、聞かなくてはいけないことはたくさんあった。

彼女と話さなければいけないことはたくさんあった。

それを全て怠ってきた俺の責任だ。

彼女と交流をするのを拒んだ俺のせいだ。

彼女を傷付けたのは俺でしかないのだ。



彼女の部屋に着いてドアを開ける。

彼女は力なく、ふらふらと部屋に入っていく。

その頬を伝う涙はまだ枯れない。顔は血の気が引いて真っ白だった。

茫然自失といった様子で足取りが覚束ないまま部屋の中を歩く彼女を抱きしめてしまいたいという衝動をぐっと堪えた。


「すまない。」


静かな空間だった。それに負けてしまうほど小さな声しか出なかった。彼女にこれは届くのだろうか。


ふらふらと窓際に歩いていく彼女の後ろ姿を見送る。

今、何を言っても何の気休めにもならないだろう。

何を言ったとしても何も彼女には届かないだろう。

当たり前だ。傷付けてしまった。孤独にしてしまった。

俺は一人の女性を確かに不幸にしてしまったのだ。



でも。


俺はもう彼女を失えない。

彼女を選ばなかった理由が昔の彼女と結婚の約束をしたからだったなんてそんな馬鹿みたいなすれ違い、今時どんな小説も戯曲でも流行りもしない。

目の前で震えていた、俺が散々に傷付けた彼女こそが俺が心底望む相手だっただなんて。


いいや、例え昔の相手が彼女でなくたって、俺はもう目の前のこの人しか欲しいと思えないのだ。

抱きしめることなんて出来ないのに、この手から離すことすら無理だ。

彼女の部屋のドアを閉める。



この屋敷の一部屋に閉じ込めるように。


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