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おもいかなわず  作者: にっちも
18/21

今是作非:次男




屋敷が見える頃には激しい衝動も治まっていて、ただ息を切らして門にたどり着く。


使用人は一人しかいないらしい、慌てたように門を開けた門番の男に投げるように馬を任せて、邸内に早足で進む。


こんな昼間にこの屋敷に来たことは無いから、彼女がどこにいるかわからない。


今までなら玄関を開ければすぐに顔を見せていたのに今日は来なくて、これまでと違うことに不安を覚える。

キッチン、応接間、客間、彼女の部屋、風呂場、庭、バルコニーその他、だんだんと彼女がいないことに焦りを覚え、気も逸る。


「どこにいる?」


自分の声が焦った調子を滲ませているのがわかった。

冷や汗がじわりと滲む。

なぜいない?どうして姿を見せない?


「どこにいる!」


万が一、と俺の部屋も開けるが、どこにも姿が見当たらない。


「…なぜ……」


呆然と声が出た。

この屋敷の中にいないのか、俺に会いたくなくて隠れているのか、…どちらにしても、彼女の姿が見えないということがこんなにも怖いものだと思わなかった。


「お嬢様は、もしかしたら外に出たのかもしれません。」


戸口から落ち着いた声が聞こえ、勢いよく振り返る。


「若旦那様に言われて参りました。先ほど会った門番の挙動がおかしかったので問いつめたら、昼間何時間か仕事を放棄し街で遊んでいたそうです。それも、毎日。」


馴染みの執事がやれやれと言わんばかりに首を振った。


「じゃあ、」

「だれでも出入りできる状態ではあったわけです。」

「トラブルにあった可能性は…」

「昨日の夕方には姿を見たようですので、いなくなったとしたら本日です。とにかく外套があるか確かめましょう。無ければお嬢様が自分で着ていった可能性が高いと思いますが。」

「ああ、そうだな…。」


最早駆け足で彼女の部屋へ戻り、クローゼットを開ける。

執事が言う通り外套がなくなっており、同じく前見た時にあったはずの外出用の帽子とブーツも見当たらなかった。その時も半分も埋まっていなかったクローゼットは更にがらんと見える。


「いかがでしたか?」

「外套も帽子もブーツも無い。室内用の靴があったからおそらく自分で履き替えて出て行ったんだろう。」

「こちらも…キッチンを確認しましたら、今日作ったと思われるパイ生地が寝かせてございました。夕飯の準備も済ませているようですから、お戻りになるつもりかと思います。」


とりあえずトラブルではなさそうで胸を撫で下ろす。

屋敷の中が荒れた様子でないことと、作業の途中のものが無いことから、彼女はキリをつけてから姿を消したことになる。

つまりは自分の意志でそうした可能性が非常に高いということだ。

…なんて、何度も自分に言い聞かせなければ、あの門番ですら職務怠慢で問いつめ手酷い罰を与えてしまいそうだ。


「…くそ、」

「…とにかく、しばらく待つのが得策かと思われます。」

「いや、探してこよう。」


焦る心を押さえつけて、冷静な態度を取ろうと意識しながら深呼吸をし、踵を返した。


「いいえ、あなた様はここで待つべきです。」


固い執事の声が俺を引き止める。

今までこの執事がそんなことを言った事が無かったため驚いて振り返ったら、ひどく真剣な顔でこちらを見つめ、ご存知ですか?と続けた。


「お嬢様は紅茶を淹れるのがお上手でした。」

「…何だと?」


抑揚のない声に一瞬その内容が分からなくなるが、それを理解した途端に自分の中で何かが燃え上がるように蠢いた。

これはおそらく不愉快、という感情なのだと思う。

淡々と話を続ける執事にその感情を持て余す。


「初めの頃はお茶菓子にご自分が作ったものを用意されていましたが、私が同席したときは日持ちのする店屋ものに変わっていました。」

「……何が、言いたい。」

「あの方のティータイムを一緒に過ごすのは、初めては夫である方が良いだろうと思いいつもお断りしておりましたが、」


淡々と畳み掛ける声に言葉が見つけられず口ごもる。


「あまりにも悲しそうに笑うので、私はその時初めて同伴に預かったのでございます。」


執事はいつものように前で手を組んで真っすぐ背を伸ばして立っていた。


「彼女はこの屋敷にたった一人で、ただ日々を過ごされました。この屋敷を保つことだけを仕事に動き、彼女は友人を持つことも無く、娯楽にふけるでも無く、ただ、誰かが訪れることだけを待ち続けていました。…それがどういうことかおわかりになりますか?」


言葉が、見つからない。


「笑顔もどんどん笑顔でなくなり、入れる食材も少なくなり、訪れる人がいなくても、彼女は決して何も求めませんでした。ただ私の顔を見るとお茶でもいかがですか、とだけ言いました。お断りすると悲しげに微笑まれました。私を見送るとき、また来て欲しいとは一言も口に出さず、ただ、お気をつけてとだけ言われました。」


あの日の濡れた黒髪が視界にチカチカと映り込んで止まない。


「彼女はこの知らない場所でたった一人、それがどんなに孤独なことかあなた様にはわかりましょうか。彼女が心の休息を求めて外へと目を向けるのも至極当然のことかと思われます。…ですから、あなた様はここで彼女の帰りを待たなくてはなりません。」


この屋敷の中で、たった一人で生活する。それがどんなに孤独であったことか。

そう言われて、彼女の客間のような自室を思い出す。


自分という存在がないようなそんな、最初に与えられた物だけの部屋。

クローゼットの洋服すら、一度と着てもないような気配を纏ってそこに仕舞われていた。

キッチンもリビングも応接間もいつも掃除されて、そこに彼女が持ち込んだ物は何もなかった。

誰もいない屋敷の中で、自分の存在すら掻き消えそうな日々の中で。


俺は、彼女に何をしてきた。


楽しそうに笑った顔なんてついぞ見たことがない。

見た事があるのはパーティーの時に差し出した手を取って微笑んだ他人用のそれと、驚いたような顔と、不安そうに胸元を押さえる仕草と、そうして俺が彼女の大切なものを踏みにじった時のひどく苦しそうに悲しげなそんな表情だけだった。


何を与えるもしなかった。

彼女に向き合おうともしなかった。勝手に彼女を暴いて、誤解して、傷付けただけだ。


彼女をないがしろにして。


この数ヶ月、俺は何をしてきた。

関係を作るのに必要なことは何一つとしてしてこなかった。そのかわり、身勝手な振る舞いで彼女の権利を奪っただけだった。

朧げな初恋に縛られて、俺の胸中を乱す彼女を自分勝手に邪魔者にした。


そして彼女こそが大切にしたいとずっと思ってきた想い出そのものだったと分かった時には、取り返しのつかないことにまでなってしまっていた。



彼女は自分から出て行ったのだ。

この屋敷に必ず戻ってくるという保証はない。

執事は待てと言った。

それは彼女に戻ってくる意思があるのか見極めろという意味だ。


それはわかる。理性として理解できる。

でも、ただ手をこまねいて待つだけというのは喉を掻きむしりたくなるほどの苦痛にすら感じた。


「…昔から、あなたの言うことはいつだって正しい。」

「はい。」


真剣な顔で俺を見定めようとする執事の視線を遮る様に、こめかみに手を当てた。


「待つことしかできないのがこんなにも苦痛に感じるとは思ってもみなかった。」

「…はい。」

「彼女は、」


目の奥が、熱い。

胸の内がざわざわと騒ぎ立てて、それを冷静な部分で必死に押さえつけている。


「ずっと、待っていたのか。」


誰かを。

……俺のことを。


「はい。…ずっと、長い間。」


噛みしめるような声だった。


考えてみればこの人は王都に来てからの彼女に最も接した人物なのだった。

きっと、全てを見てきたに違いない。

憐憫と哀れみと、確かに安堵のこもった声で、執事は言った。



泣いてしまいそうだと思った。

どうしてこんなに長い間、気がつけなかったのか。

どうしてこんなに長い間、彼女を冷遇できたのか。


彼女がたとえ初恋の相手でなくても、俺は彼女に心惹かれていたのに。


泣き喚いて謝ってしまいたかった。

悔やんでも悔やみきれないと思った。

もし、彼女が戻ってこなかったら?

もし彼女がたった一人で出た王都で何かのトラブルにあったら?

もし彼女が自由を求めて実家に帰ることを選んだら。


俺にはそれを嘆き、引き留める権利があるのだろうか。


「少し、休憩された方が良いかと思います。」

「いや、構わない。…ありがとう。」


肘掛けをさした執事に手を振って踵を返す。

彼は屋敷の外までついてきて、俺達の姿を見てオロオロと体を震わせた門番を一瞥し声をかけた。


「あなたの処分は後ほど通達します。今は仕事に勤めなさい。」


そう言われて逃げるように馬止めに向かう門番を尻目に、よそに気をやった執事のその隙にと門から外に出ようとしたら、目ざとく見つかってしまった。


「お戻りください!!!」


執事の焦ったような声が俺の背中にかかる。珍しく大きな叫び声だった。

早歩きで近付く執事に振り返り、少し周囲を歩いて頭を冷やしてくるとだけ言う。


「その間にお嬢様がお戻りになったらどうなさるんですか?」

「いや、本当に一周してくるだけだ。彼女が帰ってきたらわかるだろうし、すぐ戻る。」

「…では、すぐに。」

「ああ。」


頷いた執事に背を向けて屋敷の壁沿いに歩き始める。


屋敷の中にいたらどこにも彼女の気配を感じないことに苦しくなる。

正直に言うと、外に出ないと胸の中で暴れ回る様々な感情に整理がつけられそうになかった。



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