酒に逃げる、:次男
先人たちは何があったら酒に逃げると言っていただろうか。
部屋に並んだ何本もの酒瓶と顔なじみの使用人の心配げな表情が、ドロドロとした胸の内になんとも言い難い罪悪感と、自分を厭う気持ちを沸き起こさせる。
どれだけ酒を飲んでも清々しさはちっとも戻って来ない。
あの夜の暗さとその闇に追われて、見てもいないのに、あの茶色から溢れる涙に囚われたような気にすらなるのだ。
いっそ俺も泣けてしまえたら良かったのだ。けれど、そんな簡単な気持ちでもないようだった。
胸の内に生まれる葛藤が頭をぐちゃぐちゃにかき回して止まない。
あの夜は嵐のように、いまだ心の中を踏み荒らしたままだった。
「お前、いい加減に家に帰ったらどうだ?」
緑がかった明るいブラウンの瞳が窘めるようにこちらを見る。
それに他意は無いと知っていても無性に苛ついた。一体、誰のせいだと。
「俺の勝手だろう。兄貴には関係無い。」
「にしたって今回は長過ぎるし、なんでそんなに荒れてるんだ…父上も母上も心配している。」
「うるさい!」
苛々する。俺がこんなに癇癪を拗らせている原因は兄貴なのに、本人はちっとも知らずに心配してくる。
「…余計なお世話だ。」
声を荒げた事に恥じ入って少し冷静さを取り戻す。
構わないで欲しい。こちとら、少しでも考える時間があるとあの日の彼女の顔が浮かんできてひどい胸の痛みにかられるのだから。
ましてや彼女が焦がれるのは目の前のこの男だ。
ブロンドの髪とライトブラウンの目を持つこの男に、俺とは全く違うこの兄に、彼女は恋をし続けている。
その事実が俺の柔い奥底を蝕んでは居心地の悪さに気が立つ。
この男に対して、これほど劣等感が刺激される事があっただろうか。
「喧嘩か?奥方と。」
「違う、もう放っておいてくれ。」
「いやあ、お前達も夫婦らしくなってきたなあ。」
「は?」
「だって夫婦喧嘩をするくらいの仲になったんだろう?立派な進歩じゃないか。」
それどころかもはや破綻しているに近い。
いや、初めから何も始まってはいなかった。
まだ始まってすらいないのに終わろうとしているなんて、なんて滑稽だろう。
始めようとした矢先に、彼女の事を知ろうとした矢先に、……失望するなんて。
「…あんたのせいだよ、兄貴。」
うんざりした声が出た。
もう良い、言ってしまえと半ばやけになりながら、あんたのせいだ、と内心でもう一度呟いた。
「はあ?痴話喧嘩の原因が俺か?おいおい、冗談キツいぞ。そもそも奥方とは顔を合わせた事も無いのに、俺がどうしたって言うんだ。」
兄貴は大げさに両手を広げて肩をすくめた。
「彼女があんたのものを持ってた。」
「俺のもの?なんだ?なにも渡してないが、彼女が勝手に持って行ったとでも?」
「…うちのチェックの入った布地っていったら、兄貴のだろ。最近は使ってないけど。」
「チェック?ああ、昔よく誂えられてた奴か?……なあおい、それ何色だ?」
「ブルーだよ。褪せたブルーだった。」
「ブルー…」
そう呟くと考え込むように顎に指を添える。その仕草が親父にそっくりで、どこまでこの家の男は俺をからかうんだと苛ついた。
「あんたが渡したのかあいつが持って行ったのかどうでも良いが、もう俺を放っておいてくれ。」
「…なあ、ちょっといいか?」
「もう喋る気はない。」
「聞くだけで良いさ。」
もう口を開かずに肩を竦める。兄貴が悪いわけじゃないとは思う。だって兄貴には長年想い続けた妻がいて幸せそうだ。
だからきっと彼女が勝手に恋をしている。
あんな古くて小さくてすり切れたいびつな匂い袋に縋って愛を囁くくらいに。
叶わない恋だってわかっていながら、それでも兄貴を。
苛々する。
いつから兄貴を。いつ。もしかしてこの縁談を受けたのすら、相手が兄貴だと思ったからだろうか。それとも、恋い焦がれる人と違う相手と知りながら兄貴に近づけるならそれで良いと思い詰めて決意したのだろうか。
どっちにしろ、彼女は愚かだ。
だって可能性なんて万に一つもないし、別の屋敷に移動して、思いを寄せる相手を見もできずひとりぼっちで日々を過ごしているだけなのだから。
「俺さ、子供の頃から確かにあのチェックのものをあてがわれてたよ。」
ほら見ろ。
もはやぶすくれる子供のように、一人用のソファーにますます深く腰掛けて、服が皺になるのもいとわずに大きく足を組んだ。
「でも俺のカラーって全部グリーンベースな訳。」
「……は?」
「お前って、記憶にある小物って全部白?あとうちのチェック入ってないよな?」
「…そうだけど。」
「それ、あの事件からだよ。」
「……。」
「その前までは俺たちほとんど色違いのもの揃えられてたんだぞ?双子みたいに。」
「……どういうことだ?」
「さあ。でも俺が知ってるのは、お前の色はブルーベースだったって事くらい。」
どういうことだ?
兄貴のものじゃなければ彼女はどこであれを手に入れたんだろう。
しかも、兄貴の言う通りなら兄貴の色じゃないものを。この家の人間、それも直系の他にあのチェックを使える人間はいなくて、両親もそれぞれ決まった別の色のものを使っている。
とすれば、青の生地のあの布地は、どこから出て来たものなんだ。
もしかしたら本邸にいた時に見つけて、兄貴のだと勘違いして持って行ったのかもしれない。いや、それにしては古すぎたような気がする。
「しっかしお前の奥方はそれをよく持っていたね。あの事件から、お前の色の布地をあるぶん全部家から消したんだよ。それから作るのも止めたはずだし。だから今手に入るはず無いんだけどなぁ。」
ちょっと待て、それって。
「昔のお前に会うくらいしか手に入れる方法ないんじゃないかなあ。…どう思う?」
あの、彼女が後生大事にもっていた匂い袋は。
確かめなくてはいけない。
馬を走らせながら、何度もそう呟いた。
屋敷から飛び出す俺を兄貴が手を振って見送っていたのが視界の端に見えた。
わかりきったようなあの顔は、もしかしたら兄貴は初めから知っていたのかもしれない。
兄貴が知っていたという事はおそらく、この結婚を仕組んだ親父も初めから知っていて縁を組んだに違いないだろう。
こんなにも、こんなにも胸がかき乱されるのは。
その理由が、これなのだとしたら。