冷たい屋敷
「お戻りください!」
鋭い声に肩が揺れる。
咄嗟に木の影に隠れたから、向こうからこちらの姿は見えないはずだ。
足を止めた途端に嫌な具合に鳴り始める心臓の前で手をぎゅっと握った。
半ば叫ぶような声に答える静かな次男の声は、何かを言っているのはわかるが内容は聞こえない。
先ほどまでの昂揚はサッと冷め、不用意に出なければ良かったという後悔と冷や汗が私の体の節々に痛みを感じさせる。息が荒くなる。
荒く閉められた門の、ガシャンと鳴る音がここまで届く。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
抜け出したのがバレてしまう。
そうしたら私、
彼に、もっと嫌われる。
ずるずると座り込んでしまう。膝を抱えてそのまま、木の影から動けない。
どうして今日に限って彼が昼間に屋敷に戻ってくるの?
これじゃあもう、戻れない。
許可も無く勝手に出歩いて、バレたらどうなるの?
どうしよう。どうしよう。
自業自得だというのに、私の頭は真っ白に弾けて動いてくれない。
急な出来事だった。
膝を抱える腕を、大きくて冷たい手が持ち上げた。
「…何をしている。」
ヒッと息を飲んだ音は聞こえないはずが無い。それほどまで、彼は近くに居た。
掴まれていない手は地面について、どこにも行けずにむなしく地面を引っ掻いた。
強い力で上に引かれ、立ち上がらざるを得ない。よろけながら立ち上がると、帽子がぽろりと頭から落ちた。
「あ、」
思わず手を伸ばし腰を折りかけると、指先が帽子に届く前に反対に引かれ、距離が開く。
引っ張られる方向は当たり前に次男の屋敷の方で、前に見える背中はひどく固く、取り付く島も無いのがよくわかった。
振り返ると置いてきぼりの帽子が哀れで、いっそ笑い飛ばしたいくらい寂しげに地面に転がっていた。
その様があんまり私みたいで泣きたくなったが、もうバレてしまったのだ。
それなら、きっと、これが、運命だったのだ。
運命だったのだと諦められる程には達観できていないけれど、そう思い込まないと体の震えも目から落ちる雫もこらえられそうになかった。
痛いくらいに掴まれている腕はずっと引かれ続けている。大きな門を片手で開け、屋敷の中を進んで行く次男の後ろ姿を直視できず、足下だけ見ながら着いて行く。
途中驚いた顔で出て来た馴染みの執事も、次男に目を向けて静かに俯いた。私には目もくれずに。
そのまま、階段を上がる。
狭くはない屋敷の東西で分けられているこちら側には決して来たことがない部屋がある。
次男の、部屋だ。
開かずのドアが開かれて、私はそこに初めて入った。
こんな状況でなければ胸の一つも高鳴ったかもしれないけれど、あいにく今の状況で甘いときめきを感じるなんて出来ない。ただ怖いだけだ。
腕を掴まれたまま、何か言う言葉も見当たらずに口をつぐんだ。
床に敷かれた絨毯の目を数えようとでもするかのように、一心に床を見つめる。
あの日とおんなじだ。
ふと思った。
あの時と同じだ。
次男の革靴の爪先はこちらを向いて、冷たい光を反射している。
あの時伸ばされた指は冷酷にビロードを掴み、その靴の底で踏みつぶした。
今掴まれているのは私で、なら次は私が踏みつぶされて、ぐしゃぐしゃになる番なのね。
あれは私だったのだ。
この生活も案外、長く続いた物だった。
いつかの執事の言葉と、見下すような目を思い出して少し笑えた。
この人に請われた訳でもなく、この地に呼ばれて。
余計だと疎まれながらこの人の近くに縛られて。
好かれてすらいないのに想いを寄せて。
そうして、これから終わるのだ。
どうせ偽りの妻ならば、一度くらい、触れ合ってみたかったなあ。
何も抱かなくてもいいから。
手袋越しでなくその肌と、触れ合ってみたかったな。
あなたともっと話したりしたかったな。
もっと、なんて、話せてすらいないのに過ぎた願いだったかな。
せめて、三言くらい、普通の、他愛ないやり取りができたら。
そうしたらきっと、それだけを胸に生きていける気がしている。
死刑宣告を待つ囚人の気持ちで次男の言葉を待った。
長い沈黙が続いた。
息をするのも憚られるような苦しい空気の中言葉を口から出せたのは、やはり次男だった。
「どうして、家を勝手に出た。」
彼の声はいつものように固く、冷たく耳に届く。
いっそすぐに切り離してくれさえすれば、腹の底から冷えるような恐怖を味わうのも少しで済んだのに。
それでも咎めは受けないといけない。
私は、名目上妻なのだから。
この屋敷を守るのがきっと与えられた役目だったのだから。
「…不用意で、ございました。申し訳、ございません…でした。」
もっと話したいと願っていたのがこんな形で叶ってしまうのだったら永遠に自分の夢としてだけであれば良かったと思う。
いつか優しい声が聞けるかもしれないと、そうあらぬ想像をした事もあったのに。
現実はこんなにも。
ほら、彼の視線は冷たいままで、私に刺さる。
謝罪の言葉尻が震えているのも咎めるように、俯く私に容赦なく埋め込まれていく、鋭い痛み。
こんな視線を求めた訳じゃない。
だけど、どんな視線でもと願ってやっと見てもらえたのは、終焉の際のこの瞬間だけだった。
「お咎めは、受けます。ですから……、」
つい続けたが、ハッとしてその先の言葉が出てこない。
私は何を言おうとしてるの。ですから、なんなんだと言うのか。
まだ妻でいさせてくれませんかと、どうかこのお家に置いてくださいと迷惑をかける言葉を続けるつもりじゃなかったか。私の願望を押し付けるつもりじゃ、なかったか。
そんなの、みにくいだけだ。
これ以上何を言えば良いかわからなくて、私は小さく、謝罪を繰り返した。
部屋に戻れとまた腕を掴まれたのは、謝罪を何度繰り返した後だっただろうか。
思わず腕を引きかけたが、それ以上に強い力で次男の部屋の外へと連れ出される。
「二度と外に出てくれるな。」
低い声に、私の何かがプツリと切れた。