お茶と外套
あの嵐のような夜のことは、記憶の底に沈めよう。
何もなかったし、最初と何も変わっていない。
それだけ。
それだけのことよ。
引っ越してすぐの頃のように戻った生活を続けていたら、本宅の執事がふらりとやってきた。
調子はいかがですか、と彼はまた作り笑いをした。
変わりありませんよと笑うと、少し驚いた顔をしていた。
本宅から頼まれたのは次男宛の荷物を届けることだという。それを次男の部屋に持って行った執事をお茶に誘うと、珍しく返事はハイだった。
どうしたことだろう。
ティータイム用にささやかながら注文していた店屋もののお菓子を並べ、紅茶を入れる。
我ながらまともになったものだと自画自賛してみたものの、執事ならもっと上手くできるのだろう。
「やっぱり執事様には到底及びませんね、ぜひ今度教えていただきたいです。」
私は嫌いではない執事に笑いかけて、おだてる言葉を続ける。
だというのに執事は始終真顔のままカップを取った。
ううん、あまり褒められていい気がしないタイプの人間だったのか。
私もそろってカップを手に取る。
まともに淹れられるようになったのに、初めに披露する相手はこの執事になったなあ。
けしてきらいじゃ、ないけれど。
真顔のまま一口啜ると、彼は盛大に眉をしかめた。
「そんなに不味かったですか?」
「いいえ、美味しいです。お茶を淹れるのがお上手なんですね。」
眉を寄せながらそんなお世辞を言われてもどうにもわかりやすい。
作り笑いとはいえ笑っているのも辛いくらいに不味かったかな。なら、もう誰にも出さない方が賢明かもしれない。まあ誰かに出す機会があるとは思えないけれど。
「それで、何がありましたか?」
執事に言われた言葉に、二の句を失った。
「…何も、ありませんよ。どうしてですか?」
馬鹿な私、こんなに長く黙っていたら肯定するようなものなのに。 沈黙の末に薄く開いた口の隙間から出て行った声は震えていなかっただろうか、確信が持てない。
「…そうですか。」
執事はそういうと、顔をしかめたまま視線を逸らす。彼と同じく、でも白い手袋をした手が高級な茶器を持ち上げて、また口元へ運んだ。
変な、執事。
それきり何も言わず、彼はただカップを飲み干して帰って行った。
明け透けな物言いをする執事にしては煮え切らない態度だけ残して。
誰も訪れない大きな屋敷にひとりぼっち。
名目上妻の私は、一人でずっとずっとこの屋敷に居る。
誰も訪れないし、誰も帰ってこない。
誰も。
だれも。
見張りの男が居ないと気がついたのはある日の昼のことだった。
どうやら仕事を放棄してどこかに行ったらしい。毎日毎日何事も無い屋敷を見張るのはとにかく退屈だっただろう。仕事を放りたくなってもしょうがない。
一応敷地をぐるりと歩いて、万が一ちょっと席を外しているだけなんてことが無いように見回った。やっぱり、姿が見えない。
どくん。
緊張か興奮か、私は息を詰め大きくなる脈を押さえるように胸に手を当てた。
誰も、見ていない。
ここから出ても、誰にも気付かれない。
じゃあ、いなくても、いい。
どうせ誰も私をいらない。
自分にはもったいない広い部屋の、朝以外開けないクローゼットを開ける。
越して来てから袖を通した事もない外行きの上着と大きなつばの帽子を手に取り、外行きの編み上げに足を入れる。
どきどきといつもより速い鼓動をどうにかこらえながら、大きな門をそっと開けた。