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おもいかなわず  作者: にっちも
12/21

春雷、夜:次男















暗い廊下に立っている。薄く開いた重いドアだけが部屋の中からの明かりを細く廊下に差していた。






本当はこんな盗み聞きのようなことをする気じゃなかった。ドアの前に来たら少し開いていて、中から祈りの言葉が聞こえたから終わるまで待っていたのだ。



彼女の口から紡がれるだけで、いつもの祈りの言葉も何故か詩や歌のように聞こえる。

その囁くための吐息すら聞き逃すまいと、いつしか耳を研ぎ澄ませていた。


歌うようなささやきが少し途切れる。いくらかの静寂の後に、更に小さい声がドアの細い隙間を縫って廊下まで届いた。



「あなたは、私を見てくれないけれど。…きっとずっと、好きよ。」


囁くような声は確かに恋慕を含んでいて、甘く、いかにも大切そうに聞こえた。


ああ。


俺は信じてもいない神に跪いてどうかと祈りたい気分だった。


どうか一番聞きたくなかったその言葉を口に出した彼女を、それを聞いてしまった俺を全てなかったことにしてくれまいか。

そうでなければ、俺は、この体の奥から立ち上るかつて無い激昂に身を任せてしまうかもしれない。

ぐ、と拳を握りしめた。



最早神は夜に消えた。

この暗闇だ、彼女が信じる神もとっくに眠りについただろう。

何に祈ろうと、何を願おうと、決して叶うことは無い。


呼吸が浅くなる。

思考が散っていく。


ただ一つ鮮明に研ぎすまされていくのは、耐えきれない怒りに似た何かだ。



感じた事の無いくらい激しい衝動が体中を取り込もうとしている。



勢いよく開いたドアは大きな音を立て、押し入った部屋の中では彼女がひどく驚いた表情で顔だけこちらに向け、ベッドに向かって跪いていた。

その手に件の黒いベルベットがあるのを視認して、心底忌々しく思った。


どろりと心の底に黒い泥に似た何かがかかる。



どうして、どうして、どうして。



兄に焦がれても無駄だ。

兄には想う相手がいるのだ。そしてその相手と幸せに結ばれた。残念だったな。残念だ、本当に。お前の恋は報われない。


風呂上がりの濡れた黒髪は普段と違って下ろされて緩く頬にかかり、つやつやと光っていた。


いくら焦がれても、お前は何も手に入れられない。

ひどく意地の悪いあざけりが胸の中をぐるぐると駆け回る。


動揺に塗れる瞳を見ていたくなくて、その細く白い指が黒いベルベットに触れ続けている事が不愉快だった。



「お前には。」


酷い言葉だった。


「こんなもの、ふさわしくない。」


こちらを見上げる彼女の手から黒色を掴み取る。



こんなもの。こんなもの。夢見るだけ無駄だ。

こんなちっぽけな黒色に愛の言葉をかけても無駄だ。

こんなもの、こんなものに願ったって祈ったってお前は何も手に入れられない。

こんな、ちっぽけな。


こんな小さな黒色に気を取られて、お前は俺を見ないのか。



衝動のままに踏みつぶすと、靴の底でぐしゃりと鳴った。


「ど、して…。」


掠れた声が呆然と呟いたのが聞こえた。

視線を上げて彼女を見遣ると、彼女の視線はずっと俺の靴の下だった。


そんなにこれが大切か。

お前に見向きもしない男を思い続けているのが、そんなにも大切か?


「虫唾が走る。」


吐き捨てるような声色になったのに気付いたが、この腹の虫がおさまらない。

どうして、兄貴を好きだと言うんだ。俺も聞いた事が無い声音で。俺に見せない姿で。


少しの視線も離せない程、この靴の底の下のこれが大切か。

そんなに顔を歪める程。

俺の前で見せた事が無い泣きそうな顔を晒す程。

茫然自失になるほど。


腹の底で激しい衝動がとぐろを巻いて首をもたげる。

そんな顔では、収まらないのだ。


これがひどい言葉だと知っていた。

けして変える事のできないものを否定するなんて常なら絶対にしないのに。


「不相応にも程がある。」


彼女は俯いて肩を震わせた。


「何を考えているのか知らんが、過ぎた行いをするな。」


そうだ、お前はあくまで俺に嫁いだだろう。だから兄貴に懸想したって無駄なんだ。

そんな事をするくらいなら、使用人と同じ事をしていた方がはるかに良い。

過ぎた行いをするよりも、ただ家の事だけ考えていれば。

この家の事だけ考えていれば。


「無駄な事は考えずにこの家の事だけしていろ。」


そうすれば。そうすればいつまでも。

彼女はずっと俯いたまま、微動だにしない。

思考は深く考えられずに、上っ面だけをどんどん吐き出していく。


「どこにも行かずに、誰にも会わずに。」


もはや自分でも何を言っているのかわからないくらいに。


「それが妻の仕事なのだから。」




彼女はもう、それっきりピクリとも動かない。

いつのまにか息が荒く乱れていて、まとまらない思考のまま踵を返した。


このままここにいたら、このまま彼女を見ていたら、もしかして手を出してしまうのも吝かでないと思ったからだ。

ぐしゃりと靴の底でつぶれた感触がする。


…ざまあみろ。


こんなに簡単につぶれて消えてしまうものに縋るなんて無駄だろう。

これでわかったはずだ。


彼女は、叶わない恋から目を覚ますだろうか。







廊下に投げ捨てた紙袋を取り上げる。

確かに彼女に渡そうと思っていたのに、もうそんな気もおこらない。

呆然とした彼女の顔が真っ青になっていく様が繰り返し繰り返し脳裏で再生されて、俺は舌打ちをした。


こうなる前には、確かに、彼女に渡すつもりだったのに。

そうしたらあの小袋のことを聞いて、きちんと冷静に話をするつもりであったのに。


全部終わった。


こんな結果になるなんて思いもよらなかった。


夜だとわかっていながら、俺は屋敷を出て行った。

ぐしゃりとつぶれた紙袋も中身もそっくりそのまま、自分の部屋に投げ込んで。
















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