春雷
心の支えは匂い袋とたった一つのお祝いのカード。
それでも、この生活を続けていた。
大丈夫、大丈夫。
なんだか、うまくいくような気がしている。
このまま、私は第二夫人として務めを果たしていける気がする。
夫は相変わらず三日に一度のペースで帰ってくる。
二言きりの会話も変わらない。
あれ以降何か渡される事も無い。初めのあれ以降パーティーに連れ出される事も無い。
距離は全く縮まらないけれど、この役目を果たす事で彼の役に立てているのなら。
肌寒い夜、暖炉に火をつけたお風呂上がりに、匂い袋をそっと持ち上げて耳を澄ます。相変わらずカサリと小さく心地よく鳴った。
「あなたは、私を見てくれないけれど。」
ビロードをするりと撫でる。触り心地の良い布が、微かに揺蕩った。
私の想いはこれぐらい、音も立てずに静かなんだろうか。
想う人には、きっと永遠に見てもらえない。
恋も愛も、思い合う事の何も知らないまま、私はここにいる。
だけど、心を向ける事が、恋だと言うのなら。
この焦がれる心が、恋だというのなら。
例え独りよがりでも、仕方がない。
「きっと、ずっと、…好き、よ。」
好きになってはいけないのに。
叶うはずのない恋だというのに、性懲りもなく。
馬鹿だ、私。
それでも、このままが良いなんて。
滲む涙を、こらえた。
バン!と大きな音を立てて扉が開く。
思わず肩が跳ね、慌てて扉を向けると、無表情の夫がそこに立っていた。
どうして、夫が。
今夜は帰って来ていたけれど、今まで一度も屋敷のこちら側には来た事がなかったはずなのに。ましてや、私の部屋になんて来ないはずなのに。
混乱する頭はうまく言葉をはじき出せない。
口を何度か開閉したものの、こちらに大股で歩いて来る夫の迫力に圧倒されて、体が固まった。
初めに顔合わせだと言われ会った時にすら、こんなに読めない顔をしていなかったように思う。
黙ったままの夫の表情は相変わらず真顔で、妙な怒気と迫力が私を威圧した。
「お前には。」
夫の手が私の手の上の匂い袋に伸びる。
「こんなもの、ふさわしくない。」
あっという間に夫の手に渡った黒色は、床に落とされて、踏みつけられて、ぐしゃりと靴の底と床の間で音が鳴った。
ヒュウッと私の喉が息を吸った。
ぴかぴかに磨き上げられた革靴と、その下に見えるビロードの端にぞっとする。
「ど、して。」
どうして、あなたが。
突然の行動に、何も、考えられない。
頭の中を巡るのは、彼に対する想いだけだった。
どうして、あなたが、そんなことを、言うの。
私から彼への想いを攫っていったのに。それでも私を見ないくせに。支えにしてきた彼との思い出すら、奪って、壊して、踏み、つけた、のに。
私は、いつまでもあなたを嫌いになれなかった。
初めて見た笑顔が作り物でも、私に向ける言葉になんて何の気持ちも入ってなくても、気遣いは決して私のためではないとしても、私は差し出された手を忘れることが出来なかった。
だってこれはあなたのせいじゃなかった。そうでしょう、あなたのせいだけではなかったのだ。
この広い屋敷に帰ってくるのは夫だけで、昼間は自分一人しか居ない。
私を嫌い仕事なだけでこの屋敷の敷地に居る見張り番と話す訳も無くて、私はずっと、誰かの声を待っていた。
私に、向けてくれる声を、ここで、たった、一人で。
それでも、あなたは、私を見ない。
「虫酸が走る。」
酷く冷たい声だった。
へなへなと座り込み顔を上げられない私に、夫の視線は突き刺さる。
痛い。痛い、痛い。
彼との思い出を踏みにじられたから。
作り笑い以外に初めて見た生きた表情がこんなにも冷たいものだったから。
初めて私に向けられた感情のある声がこんなにも鋭いものだったから。
想う人に、そんな顔を向けられたから。
「不相応にも程がある。何を考えているのか知らんが、過ぎた行いをするな。」
夫の言葉は、絶対零度のナイフだった。
ぐさぐさと突き刺さっては私の体を酷く冷たく震わせた。
中身よりも、その声が。
これまで少ないながら話しをした中で聞いたことの無いくらいに、おぞましいと心底思っているのがわかるくらいに鋭く、私を蔑む声だった。
その後の夫の言葉は覚えていない。
ただ袋をもう一度踏みつぶして返された爪先を視界の端でぼんやりと見ていた。
「いつのまにか、好きだったのに。」
ぽろりと口から零れた声はとても小さくて震えていた。
「あなたが、好きだったのに…。」
あなたを想って過ごす時間を、あなたの屋敷を保つのが自分であるという小さな喜びを、あなたの本当の相手が出てくるまではあなたの隣が自分に許されているという事実を、大切に、この胸の中に仕舞うくらいには。
嫁いできて、あなたを見て、あなたを、あなたを、想うように、なって。
ずっと、届かないと知ってもずっと、好きで、それでも、それでも良かったのに。
好きに、なってしまったのだ。
上っ面の笑顔を、繕われた気遣いを、たった一日与えられた触れ合いを、何度も、何度も思い返すくらいには。
けれど、こんなに、嫌われていたなんて、知らなかった。
知っていたら、あなたに見てもらおうとなんてしなかった。
少しの期待も、しなかったよ。
ぐしゃぐしゃになった小袋をそっと広げ、中の匂い袋を見ると、やっぱり裂けて中身がとびでていた。
そうだよね、もう布は弱くなっていたもの。しょうがないよ。いずれこうなる定めだったのだもの。
そうだよ。なんどもなんども自分に言い聞かせる。いずれこうなるのが当たり前だって、わかっていた。
なのにどうして、こんなに涙が止まらないんだろう。
いつの間にか朝になって、夜になって、私がやっと部屋から出られたのは一日経った後だった。酷い顔をしている自覚はあった。お風呂に入って、顔を少しでも直して、そして仕事をしよう。
正しくあなたの傍に居られない、私の仕事を。