春雷:次男
あの既視感の正体に気がついたのは、しばらくぶりに兄貴に会った時だった。
その日兄貴は正装をしていて、どうやら珍しく、本当に珍しくきちんとしたパーティーに出席するらしい。
兄貴は相変わらず人をくったように笑って、夫婦仲はどうだ?と聞いてきた。
ネクタイを締めながら覗き込んだ鏡越しにこちらを見てくる。
どうにもからかうような言い方に憮然と言葉を返した。
「別に兄貴には関係無い。」
「なんだ、思い悩んでいるなあ。」
したり顔でこちらを振り返った兄貴は意地悪そうに笑った。
本当にいけ好かない兄だ。俺とはちっとも違う。
昔から、持って産まれたものに胡座をかかず全てを努力でまかない手に入れてきた人だ。
欲しいものも望まれた立場も全て努力で応えてきた人だ。
人格者であろうとし、人格者である人だ。
兄は思慮深く賢く、見た目も良く、朗らかで社交的だ。パーティーは嫌いだが。
愛した人は正しく釣り合う立場の女性で、お互いに深く愛した上で結婚をした。
努力し、それに見合う人生を手に入れてきた人だ。
唯一の欠点は弟をからかうのが好きだって所だろうか。
それすら義姉は可愛いと微笑むのだから、兄貴は大変な幸せ者だと思う。
目の前でジャケットを手に持ちニヤニヤと笑っているこの男が、順風満帆な人生(主に夫婦生活において…)をお裾分けしようといつでも狙っているのを知ってしまっているせいで、相談する気も失せる。
「おいおい〜〜なんだ、お互い納得した上での結婚だろう?俺達までとはいかなくても、何かしらあるだろう!」
大きなため息を吐くと、カラカラと笑って奴はジャケットをソファーの背にかけ、そのまま隣に腰掛けた。
「…何も無い。」
呻くような声が出る。
「はあ?この間夫婦同伴のパーティーに行ったにもかかわらずか!」
「うるさい!」
驚いたような呆れたような間抜けな顔で口をぽっかりと開ける奴にむしゃくしゃする。
「着飾った奥方はどうだった?」
「……うるせえ…」
「おいおい、ロマンスだろ。」
大仰に腕を広げて兄貴は肩をすくめた。が、一呼吸置いて笑い始める。
「お前って本当わかりやすいな!」
げらげらと大口を開いて笑うこいつの鳩尾に拳をぶち込んでやりたい。
でも多分組手で勝てたことが無いから無理な気がする。
そんな弟の逡巡にちっとも気付いた様子を見せず、奴は目尻に浮かんだ涙を拭ってさも面白いと言わんばかりに、言葉の端々に笑いを滲ませて言った。
「気になる女性には贈り物だぞ、親愛なる弟よ。」
「そんなことわかっているこのクソ兄貴!!!!」
とうとう腹を抱えて笑い出した兄貴のジャケットを床に投げつける。
「おいやめろ!…っふふっ」
制止の声すら笑っていて真剣味も無い。
でもそんなことも一瞬で気にならなくなってしまうほど、俺は驚いていた。
ジャケットの内側、あの匂い袋と同じチェック柄がそこにはあった。
どうして。
あの深く濃く揺蕩う茶色の髪の毛。
あの深い茶色の瞳。
俺を見ない目。
会話を交わさない二人。
折れそうな細い手首を、顎から鎖骨までのラインを。
静かに後ろについてくる彼女は。
このチェックを、ただ一つ大事そうに持っていたなんて。
胸の内がひどく荒れている。
このどろりとした黒い澱みは何と言えば良いのだろう。
あの時感じた既視感がこんな所で解決するなんて、むしろわからないままの方が良かった気すらしてくるから不思議だ。
どういうことだ。
俺の頭の中ではただそれだけがぐるぐると回っていた。
俺を見ないあの目が、例えば誰か別の男を見ていたとして。
俺はその答えをまだ言葉にできない。
その後贈り物に何が良いとかペラペラと語る兄貴に適当に相槌を打って、話半分にぼうっとしていた。
俺はどうしたらいいんだろう。
本当のことがわかったら、俺はどうするんだろう。
それだけがぽっかりと開いた心の中で反響を繰り返していた。
暗い廊下に立っている。薄く開いた重いドアだけが部屋の中からの明かりを細く廊下に差していた。




