初恋
私は過ぎゆく景色を眺めながら、もう二度と戻れないであろう故郷を後にする。
確実に一本道を進んでいく馬車の音が静かに続いていた。
ただの商家の娘が、王都の貴族に嫁ぐなんて誰が想像しただろう。
商家の次女は、幼い頃から連れて歩いてもらったからか、商いの才はあったようだった。
三人娘を育てた両親は、長女が若い頃から一途に勤めている番頭を夫に選んでホッとしたように笑った。
これで家業は安泰だろう。
はて、やたら才のある次女は、新しい未来が決まった家の中では目の上のたんこぶではなかろうか。
そう思った時、王都から手紙が届いた。
馬車はとうの昔に故郷の見えないところまで進んで、二つ目の街を過ぎたところだ。
あと三つ、大きな街を抜けたらとうとう王都だ。
あの時王都から届いたのは、昔からの大きな取引先の貴族からのお見合いの打診。
打診とは言ったものの、うちが断れるはずもない。身分のこともあるし、仕事のこともある。
お受けしますとだけ返答すると、迎えを送ると返事が来る。身一つで居ろとのお達しで、それはつまり、そのまま帰ることが出来る訳もないという意味だった。
手紙に書いてあったその日の通りに迎えが来た。
三つ馬の引く馬車と、使いの者が二人。花嫁を迎えるにしては控えめなそれに、初めての妊娠をしている長女と、まだ十代半ばの三女は眉を顰めた。
わかりやすい二人に、私はヘラヘラと笑った。
使いの者は口数少なく、持ち物はなにもいりませぬと言った。
一つ、手紙が父に渡された。
おそらく感謝の言葉でも、次の取引の話でも綴られているのだろう。
くしゃりと顔を歪めた両親に、私はのんきにヘラリと笑ってみせた。
本当に何の用意もせず、私は自分の部屋を片付けるだけ片付けて、身一つで馬車に乗り込んだ。
家族がよこそうとした品物は使いの者が丁寧に、しかしバッサリと断った。
おまけに先方が用意した服に着替えて来いとの指定まであり、私は大人しくそれに従った。つまりは身以外故郷において来いとそう言う意味だ。
すでにすり切れた布を包むようにビロードの小袋にひそませたラベンダーの匂い袋だけ、請うて手元に置いてもらった。
こうなってしまうなんて、これが運命だとしたらなんと悪戯な事だろう。
私の家族も私自身でさえも、夢見たことすらなかった。
……いや、本当を言うと一度だけ過ぎた願いを抱いた事があった。
あれは私が身分というものを知らなかったころ、父の仕事に連れて行かれた先で出会った少年に一目で恋に落ちた時に願ったのだ。
この人の傍に、立てたらと。
しばらくしてからその少年が王家に近しい貴族のご子息だとわかり現実を知るまで、まだ夢見る少女だった私は、恐れ多くも、彼に懸想した。
彼の身分を知るまで何度か会う事があり、何度か拙い言葉を交わし、私と彼は幼い友人のようなものだと呼べただろう。
それもその地での父の仕事が終わるまでで、彼と私はそれきり会うことなんてなかった。
それから随分と経ち、父の仕事のお相手がふと零した言葉で、私は懸想していた彼が身分の違う相手だと知ったのだった。
それまでこじらせた思いを諦めるなどはなから無理で、私はしばらく記憶の中の彼を一人慕っていた。
現実を知るまでは。
地方都市の故郷と、片や王都に暮らす貴族。
どれほど想い合う奇跡があったとしても結ばれるには難しく、そもそも、貴族には産まれる前からも決まったお相手がいるものなのだ。
ごくごく普通の商家の娘が懸想するには、どうにも過ぎた立場の相手だった。
その事実に絶望するには私は些か現実的な少女だったし、私は貴族のお嫁に行きたいのではなく、彼のことしか思えないのだ。それきり、彼への想いは忘れたように封じ込めた。
初恋は拗らせるとひどいことになるという。
気がついた頃にはもう手遅れだった。
ずっと十年以上想い続けて今更、誰を好きになれるはずもない。
とっくに拗れた初恋は、それでも叶うと信じるにはあまりに愚かな恋だった。
結末がわかりきっている事をもう一度思い返して、とうとう今の自分のたった一つの財産になってしまった匂い袋をそっと握りしめる。
これだけが、彼に貰った唯一のものだった。
一緒に作ったポプリを交換して、それきり会えなくなったのだ。
会えなくなってしばらく経った頃、毎日飽きずに匂い袋を眺めていた私はあることに気がついた。
中に、丁寧に小さく畳まれた紙が入っていた。
そこに書かれていたのは異国の言葉のようで、何語かもわからない。
いつまでも意味の分からないまま、それでも私には一番の宝物になった。
顔も知らない相手の愛人になるのだ。想われることも知らないまま。
ならば、拗らせた初恋くらい、後生大事に抱えていっても良いだろう。
いつ切り捨てられても、きっと誰も拾い上げてくれないのだから。
「着きましたよ、お嬢様。」
長い道中、二人の従者とは一切口をきくことはなかった。二人では話しているようだったから、やはり愛人に馴れ馴れしくするのは嫌だろう。正式な立場でもないのだし。
「かしこまりました。ありがとうございます。」
万が一、万が一、私がこれから会う主の審美眼にそぐわなければ。
私は、故郷に帰れるのだろうか。
貼付けたような笑みを浮かべる二人は、なにも言わずに行く先を指した。
大きな館の敷居をまたぐと、とたんに豪華な内装が私を取り囲んで、やはり身分が違うのだと責め立てる気すらしてくる。
それにしても片田舎の商家の娘を愛人にせねばならないなんて、話を聞いた時はどれだけ問題のある男なのか、それともただの物好きかと不安に思ったものだけど、どうにも立場としては第二夫人になるらしい。
従者二人から館の執事らしい男に身柄を引き渡され、流れるような説明を整理すると、つまり。
正妻を迎えるつもりのない尖った次男坊に、形だけでも妻が居ないとまずいと。
つまりよほど醜いか、よほどの失態をしないかぎりは、仮面を被って執務をこなせば、役目は果たせる。
それを聞いて、ああ、これでその次男坊とやらが私の顔をぐちゃぐちゃにしないかぎりは、やはり帰れないのだなあと思った。
「なぜ、商家の娘なぞを呼ぶおつもりになったのですか?」
身分はどうにも足りていないでしょう。
言外にそう含ませると、執事は作り物の笑顔を向けた。
なんでもある時、当主主催のゲームの折りにそんなような話になり、紹介なのだからそれで良いと、当の次男坊も了承しないまま、紹介先の主とこの館の当主の間で決定したらしい。
そこで聞いた紹介先の主とやらが私の家の取引先の名前だった。
そうか有り体に言えばいい人払いで、余計な者同士でくっつけば良いとこういう訳だったのだな。
身を固めない次男坊は新しい家庭を持たせ独り立ちだと追い出せるし、取引先の方からすれば、押さえれば良い手綱は跡継ぎの義兄一本になる。
可哀想な次男。
可哀想な私。
でも私がここにいることで家業が上手くいくのなら、目の上のたんこぶがいなければ取引先が実家を切り捨てることもなかろう。ならば、ここで生きるしか、ないのだ。
私は家のためにここに来たし、こんな運命の悪戯さえなかったら王都には住めなかっただろうし。
そう思わないとやってられない。最悪の状況ではなかったけれど、結局可哀想なことには変わりないのだから。
まあ、こんなにも可哀想になるなんて思ってもみなかったけれど。
早速、顔合わせの会食だと突き出されたのは婚約の会食で、向こう側に座った若いおにーさんが話に聞く次男坊だった。
てっきりもっと年上かと思ったので、表情には出なかったが驚いた。
当主とその正妻は出来たお人柄なのか、繕うのが上手い私の商いの才のせいか、それともどうでも良いと思われていたのか、私のことを別に見下すことをしなかった。
次男坊はこちらを一度だけ見遣って、どうでもいいとばかりにフルコースを平らげた。
四人だけの席だった。
はてさて、どうしてだか婚約が済み、結婚をするらしい。
結婚式をするつもりはないと次男直々に言われたし、私もするつもりはない。
だって第二夫人なんだから。
形ばかりの書類をおさめるまでは、本宅と呼ばれるこの大きな館にいるらしい。
それから次男にと用意された、少し離れた場所にある館に移るのだという。
私は特に何もしないまま、移動の時が来るのを待っていた。広い館の中も決められたところしか歩かない。外に出るのも逃げるのを防ぐために禁止されていた。せっかく王都に来たのに、どこを見るもない。観光もできない。
許された図書室から部屋へと戻る道中、廊下の先から男女の朗らかな話し声が聞こえてきた。
廊下の端に寄って頭を下げる。
「こんにちは。」
「こんにちは!」
落ち着いた男性の声と、明るい女性の声が私に挨拶をする。それに答えるように深く頭を下げ、通り過ぎたところで頭を上げる。
視線はなんてことなく、たった今挨拶をしてくれた二人連れに向かった。
見なければ、良かったのだ。
あのまま、頭を下げていたら。
声が聞こえなくなるまで、貴い身分の方を見るようなこと、しなければ。
いかにも幸せな夫婦というように腕を組んで歩く、二人。
男性の横顔は、幼い頃から懸想し続けた彼を彷彿とさせた。
その夜、王都に来てから初めて泣いた。
拗らせた思い出すら墓までもって行かせてもくれないなんて、ひどい場所だ。
恨むにしても、だれを恨めば良いのかわからなかった。