初恋は、男の一生を左右する。2
スーパーから歩いて二分に、古びた風貌の喫茶店があった。有果はカフェと言っていたが、昭和の時代に多く作られたような喫茶店にその呼び方は少しだけオーバーな表現だと思いつつ、しかし二人以外に誰も客が居ないこの場所は、確かに相談事に向いていた。
老婆の店員にアイスコーヒー二つと頼んだ有果は「して」と言葉を放った。
「ご相談とは、武くんの事ですか?」
「ええ。いえね、昨日からあの子の様子がおかしくておかしくて」
普段は勉強机に座る事も珍しい、漫画を読んでばかりの我が子が、何か考え込むようにボーっとしている事。時折顔に手を当てて唇を噛み、やがてその手は胸元にいき、表情を真っ赤にさせている事。
静は自身が思う、我が子の様子がおかしな状況を口軽やかに説明をしていく。本日の朝にあった抱擁腹部殴打事件だけは説明をしなかったが、それはあまり必要ないだろうと思っていた。と言うか説明したくなかった。
「なるほど、分かりました」
「分かりますか」
「ええ。武くんは今、恋をしているのです!」
「こ――恋ぃ!?」
「それしかあるまい。いえ、ある筈がないのです! 確かに彼は学校でも元気いっぱいの男の子です。そんな彼がボーっとして、何か考える様にしているのは、それ以外考えられませんな!」
「あ、ああ、あああああああ、あの子が、ここ、ここ、恋……っ!!」
手足が震え、運ばれてきたアイスコーヒーにストローを入れる事なくガブガブと飲み進め、続けて備えられていた口直しのピーナッツを一気に口内へかっ込んだ所で、少しだけ冷静になってきた。
――そう言えば私はピーナッツが嫌いだった。
「か、覚悟はしていましたが……つ、遂に来ましたか……!」
「ええ、遂に来たのです。フランスの作家、アンドレ・モロワは言いました。『初恋は、男の一生を左右する』と。武くんの一生を左右する時が、今まさに来たのですよ」
「そうかー……あの子が恋かぁー……何か感慨深いような、寂しいような……」
「貴方の息子さんは、心身ともに着々と成長を続けているのです。喜ばしい事ではありませんか」
「それは、確かに嬉しいのですが」
と、そこで先ほどのがぶ飲みでコーヒーが切れてしまった事にようやく気が付いた静は、老婆の店員へと手を挙げた。
「すみません、アイスコーヒーをおかわり。あ、ピーナッツは無しでいいです」
「あーい」
老婆は読んでいた新聞を閉じ、キッチンの方へと進んでいった。先ほどまでは気にしていなかったが、きちんとコーヒー豆から淹れていると分かる豊かな香りが鼻腔を刺激して、静は何だか若かりし頃に戻った感覚がした。
「……そう言えば、私の初恋経験も、こんな喫茶店で男の人とコーヒーを飲んでいる時でしたね」
「ふふ、センチメンタルですな」
「あの、先生に心当たりはありませんか? あの子が恋をしている女の子の心当たりは」
「あると言えばあるのですが……先ほど武くんが、クラスメイトの居残り授業に率先して残っていると申し上げましたが」
「ええ――ま、まさか」
「そう、その子は女生徒で、クラスの中でも清涼剤と名高い、中村亜里沙と言います」
今まで何度か授業参観には参加したが、思い当たる生徒は居ない。今年度初めて同級生となった女の子だろうかと、静が思考を巡らせていた、その時だった。
「お待たせしましたー。って、先生?」
先ほどの老婆とは違い、可愛らしい女の子の声が聞こえて、静はふと顔を上げた。
息子と同い年位の、若い女の子だった。シンプルなエプロンを身に着けて、その手に持つトレイには、先ほど静が注文したアイスコーヒーが乗っていた。
「やあ中村、奇遇だな。こちらは相沢武くんのお母様だ」
「あ、武くんのお母さん! いつもお世話になってます!」
にへらっと笑みを浮かべた少女――中村と呼ばれた女の子は、机にアイスコーヒーを置いた後、ペコリとお辞儀をした。
「えっと……君が亜里沙ちゃん、かな?」
「はいっ!」
「丁度中村の話をしていてな」
「えー、どんな話をしてたんですか先生ー」
「ふふ、大人の女性同士がする会話に、子供が割って入るものではないよ、中村」
不敵な笑みを浮かべながら、有果がそう言ってごまかすと、彼女は喫茶店の中を見渡した。
「そう言えばここは、中村のお婆様が経営するカフェだったな」
「カフェなんて洒落たものじゃないですよー」
「今日は手伝いか」
「はいっ! 時々こうしてお手伝いして、お小遣いを貰ってます!」
「ね、ねぇ亜里沙ちゃん。もし忙しく無かったら、なんだけど……少し、お話しない?」
静が、亜里沙へと言葉を投げると、亜里沙は老婆の方へと視線をやり、老婆はその視線にコクンと頷いた。了承の意味だろう。
「じゃあ、先生。隣ごめんなさい」
「ああ、どうぞ」
二人掛けの椅子、その奥へと有果が身を寄越すと、先ほどまで有果が座っていた場所に、亜里沙がちょこんと腰かけた。
「中村亜里沙です! 初めまして!」
「初めまして。ねぇ、亜里沙ちゃん」
「はいっ」
可愛らしい笑顔と共に元気よく返事を返した亜里沙の姿が何とも輝かしく見えて、静は億劫と言わんばかりの表情で、しかし確かな発音で、彼女に問いかけた。
「ウチの息子は、亜里沙ちゃんに迷惑をかけてないかしら」
「迷惑だなんてそんな! 武くんにはいっぱいいーっぱい、お世話になってるんです!」
「そ、そうなの。よかったわ」
「最近は居残り授業でいっぱい色んな事を教わっているので、むしろ私の方が迷惑いっぱいかけてるかなーって」
「いいのいいの。ウチの息子で良かったらいい様に使ってね」
「えへへ。武くんのお母さん、いい人だなー。武くんなんでこんな良いお母さんの事をぺちゃ」
「中村、それ以上いけない」
「はーい」
「ん? 今ぺちゃって」
「何でもないデス、いやホント」
冷や汗をダクダクと流しながらも、不敵な笑みだけは崩さない有果の姿に何だか妙だなと思いながらも、今は亜里沙へ色々と聞かねば、と視線を戻した静。
「武とは初めて一緒のクラスになったのかしらね」
「はいっ、初めてです!」
「ウチの子は学校ではどんな感じ?」
「えっと、元気な男の子で、クラスの男の子といつも笑ってますっ。授業でも率先して、杉崎先生の話を聞いてますし」
「でもこの間の国語は成績凄く悪かったのだけれど」
「杉崎先生はあんまり」
「中村頼むやめてくれ、お願いだからやめて」
今度は笑みを崩して亜里沙の口を塞いだ有果。
「そ、そう! 武くんは普段ご自宅ではあまり勉強をしないのかもしれませんが、学校ではとてもいい子です! ですからあまり心配はなさらないで下さい!」
「でも、あの子保健体育以外の成績があんまり良くないし……あ、ねぇ亜里沙ちゃん。こんな事聞くのは、亜里沙ちゃんに失礼かもしれないけれど、勉強は得意?」
「得意って程ではないですよー」
気恥ずかしそうに頬をかいた亜里沙に代わり、有果が答える。
「中村は学年の中でもトップの成績を誇っています」
「あら、そうなの! じゃあ普段居残り授業は、ウチの子が勉強を教わっている事が多いのかしらねぇ」
迷惑かけてゴメンね、と謝った静の姿に、ぶんぶんと首を強く振った亜里沙。
「違います! ほんとに私の方が教わっているんですよ! 私が勉強を教えた事なんて一度も無いです!」
「え、でも学年でトップだったら、ウチの子が教える事なんて」
そこで有果は、再び「ヤベェ」と言わんばかりの表情を浮かべて、亜里沙の口を塞ごうとしたが――時、既に遅し。
「いえ! 武くんはいっぱい、私に『エッチな事』を教えてくれるんですっ!!」
空気が、死んだ。