重要なことは、疑問を止めないことである。探究心は、それ自身に存在の意味を持っている。1
「中村。家に丈夫なロープと天井吊りフックがネット通販で送られて来たら、家族はその荷物を何に使うと思うだろうな」
「自殺だと思うよ間違いなく」
「だよなぁ、無理だよなぁ。やっぱ飛び降り自殺が一番いいのかなぁ、道具もいらないし……安楽死の薬とか、薬局で処方してくれねぇかな」
「あの、元気出して。私のお胸ならいつでも触っていいから」
「べ、別に俺が胸触りたいわけじゃねーしーっ」
学校の授業が全て終了した、一年五組の教室には、俺と中村亜里沙の二人だけしかいない。
居残り授業――と言えば聞こえは悪いが、俺は授業を受ける方では無い。教える方である。
「でも男子って、何で女子のお胸を見てエッチな事を考えるの? 女子のお胸だって乳腺と脂肪の塊なだけだよ?」
「男子が持ってないもんだからなぁ……言ってしまうと人間の女性だけらしいんだよ、乳房が妊娠前に肥大化する哺乳類って。例えば人間と近しいサルの雌なんかも、尻が肥大化する事はあっても乳房は妊娠中でしか発達しないらしいし」
「へぇ、そうなんだ。なんでなんで?」
「一説だと、サルが交尾をする為の欲情って、雌の臀部が肥大化する事が要因に挙げられるらしい。
所謂雌の背面からしか交尾をしないから、胸を見る必要が無い。だから臀部だけ肥大化して雄を欲情させる。
でも人間の交尾……いわゆるセックスに関しては、対面で行う事も多いから、対面状態で男性を欲情させる為に発達してるって言われてる。
もしサルの身体が構造的に対面から交尾が出来るのなら、サルの雌も乳房が肥大化してたかもしれない」
「……相沢くん、詳しいね」
「……俺もどこでこんなの覚えたんだろ」
何だか本当に俺自身がエロガキに思えてならない。
いやいやいやいやそんな事は無い筈。俺はただの中学生男子。これは世間一般に知られている事だろう。
「じゃあ女性のお胸は、男性を欲情させるための機能として肥大化してるって事でいいのかな?」
「いや、それを否定する説もあるらしい。例えば胸が小さい女性が居ても、その乳房と言うもの自体に欲情する人間も存在するし、結局はホルモンバランスと脂肪の吸収がどれだけ優れているか、と言う問題に発展していくんだと思う」
「あ――なら、相沢くん」
「ん?」
「今日は男子が見る、女性のオッパイについていろいろ教えて欲しいな」
乙女の口から然したる抵抗も無く放たれるオッパイと言う単語に、俺は少しだけ恥ずかしさを感じながら「はぁ!?」と驚愕の視線を彼女へと送る。
「い、今説明した通りだっての! これ以上説明できることなんて――」
「でも今のは生物学上でしょ? 私が知りたいのは、男子が女子のオッパイでどんなエッチな事を考えちゃうのか聞きたいんだー」
ニコニコやワクワクと言う表現が似合う表情で俺の言葉を待つ中村に、俺も拒否できなくなる。
――そう。この時間は『生物学上の話では無く、下ネタ話の正しい知識を与える時間』なのだ。
溜息と共に、思考を巡らせる。
確かに、男の子がまず何より目を付ける女性の身体と言えば、いわゆる胸元――オッパイが一番上位に来るだろう。
「とは言ってもな……」
なぜ胸を見る、オッパイに劣情を覚える、と聞かれた所で、中村が満足いく答えを出せる気がしない。
この欲望に関しては、遺伝子レベルで刻み込まれた、ある種の運命にも似た感情であるからして、それを上手く説明できる知識を、俺自身持っているとは思えないのだ。
「ふむん。確かにそれは気になるな。私も小学四年生の頃から肥大化した乳房を、同級生男子に見られる興奮を未だに忘れられないのだからな」
「それはただの痴女だと思う」
と、遺伝子レベルで刻み込まれたツッコミとしての義務を果たした所で、俺のツッコんだ相手が担任の杉崎有果である事を悟って、視線を背後に向けた。
「揃っているな。では本日の居残り授業は『男子が劣情を覚える正しいオッパイについて』だ」
「お前もその議題に興味があるんだな」
「『重要なことは、疑問を止めないことである。探究心は、それ自身に存在の意味を持っている』――これもアルベルト・アインシュタインの格言だな」
「アインシュタイン、格言多いな」
「そうさ。彼はいわゆるオッパイに関する探究心を常に持ち得ていた。それ自体に存在の意味を持つからな」
よし、とりあえず格言自体は良い事言っているから無視する事にする。アインシュタインさんごめんなさい。
杉崎が椅子の一つに腰かけた事を確認しつつ、二人の視線が俺に向けられている事も意識できた。溜息と共に諦めの感情を吐き出して、俺は顎に手を置いた。
「――例えばさ、女性は男性のどんな所に『男らしい』って感覚を覚える?」
「難しい問いよな。中村はどうだ?」
「えーっと、そうだなぁ……お父さんが朝起きた時に、おヒゲいっぱい生やしてたら、ちょっと男の人って思うかな」
「杉崎は」
「多感な中学生が、女子からの卑下された視線を一身に受け、顔を真っ赤にして泣いている時とか」
「聞いていない事にするよ」
視線は中村に。心中の罵倒は杉崎に。
「中村が『男らしい』って考える感情は、男が女の子の乳房を見て劣情を抱く事と一緒だな。乳房が発達している女子を見るだけで、男はその女子に『女らしい』って感情を覚えて、興奮する」
「え。女の子らしいから、エッチな事考えるの?」
「ちょいと単純だけど、その通り。さっきも言ったけど人間の感情って、やっぱり『自分に無い物を持っている』事が重要だと俺は思うんだよ。少なくとも俺の乳房は大きくならないし、俺には女性器は無く、男性器しかない。だからその部位を見て興奮を覚えちまう」
「自分に無い物だから、性欲によって好奇心がくすぐられる……って事かな?」
「難しい言い方するとな。中村がお父さんの『ヒゲ』って物に男らしさを覚えるのは、自分に生えないものだからだと思う。それが劣情じゃないのは、多分父親であると言う事と、そもそも中村に性って感情が希薄だからだろうな」
「私の劣情には一体どんな意味があるというのだね」
「お前の劣情はただの変態性の現れだと思う」
「何だか最近の相沢は私の心をバッサバッサとなぎ倒していくゲームの戦国武将のようだ」
なぎ倒されたくなかったらちったぁまともな発言しやがれ。
「でも中には、先生みたいに変な事を考えてエッチな事を想像しちゃう変態さんもいるんだよね?」
「そうだな全くもってその通りだ」
「私は遂に一年五組の清涼剤にすら変態さんと罵られたぞ」
「嫌な気持ちを抱くか?」
「むしろすっごく興奮してきた……っ!」
「自身に経験がない事、本来起こり得ない事に対して、感情は起伏が激しくなる。それを性的欲求とイコールに出来る事が、変態への第一歩だな」
「勉強になりまーす」
と、そこで中村の表情に疑問符が浮かんでいる様子が、手に取るようにわかった。
「でもさ、今のお話を聞いていると……例えば赤ちゃんの時にはお母さんがお乳をあげる時間とかで、オッパイはたくさん見るよね? それで見慣れちゃって、オッパイに性的興奮を覚えなくなるとかは無いのかな?」
「近しい例はあるだろうけど、その例えなら多分無いだろうな。例えば中村はお父さんが好きか?」
「うん。大好きだよ」
「じゃあお父さんと結婚して子供を作りたいと思うか?」
「え、それは無いなぁ。お父さんはお父さんだし、別に男の人として好きなわけじゃないし。……あ、子供の頃は『お父さんと結婚する』って言ってた事あるよ」
中村のお父さん、今貴方のランクは『父親としては好きです』に確定しました。何で子供の頃って『お父さんと結婚する』とか言うんだろうな。時の流れって残酷。
「そうだろ、結局男もそうなんだよ。母ちゃんの事は心のどっかで好きかもしれないけどさ、結局母親に劣情は抱かないモンだ。その好きって感情は、劣情とは無関係の【愛情】だ。だからどんだけ母親の胸を見てようが、そもそも劣情の対象にしてなきゃ意味が無い」
「そこで劣情の対象にしていると、変態さんの仲間入りなの?」
「そこはあんまり否定したかないけど、その場合は『マザコン』っていう一種の性癖だな」
「だが待ってほしい。相沢は以前の授業で『母性に惹かれる事は正常な性癖』と言ったではないか。それについてはどう弁明する」
先ほどまでの罵倒から立ち直ったのか、そこで口を挿んだ杉崎。今の質問は、彼女にしては良い質問だ。
「まず、母性って言うのは究極の『女らしさ』だと、俺は考えている。そこに重ねるのは決して『実の母親』では無くて『理想の女性』の姿なんだ」
「そうか。つまりお前は『理想の女性像』を『母性』そのものとして見ている、と言うわけだな」
「簡潔に述べるとそうなるだろうな」
「じゃあ、質問! その理想って言うのは、どうやって決めるのかな?」
ふむん、中村もなかなか面白い事を聞く。『理想』なんてもんは人によって変わるんだから、その理想をどう定めるか、と言う質問なら――こう答えるしかない。
「人間は多少なりとも、環境に応じて感情を左右させる生き物だ。――だから、そこから理想が定まっていく」
「環境に応じて」
「感情を、左右させる?」
杉崎と中村の声が重なる。俺は頷きつつ、例え話を続ける事にした。