英知は泉である。その水を飲めば飲むほど、ますます多く、力強く、再び噴き出してくる。
国語の授業がチャイムと共に終わりを告げ。
俺たち一年五組の男子生徒ほぼ全員で生活指導室へと向かい、反省文を提出した。
その代表として担任である杉崎が率先して自身の反省文を提出していた事が、今回の事態がどれだけ異色なのかを物語っているだろう。
生活指導の田中先生はそんな杉崎を見据えながら訝しむような表情を浮かべ、それを受取った。
「……杉崎先生、皆まとめて国語の授業が終わってすぐに来たって……皆、授業はちゃんと受けて」
「何の事でしょうか私にはさっぱり理解ができませんさあ皆教室に戻るのだ」
生活指導の先生が問いかけてもあっけらかんとした表情で即座に身を翻し、退室する。
多くの生徒は「だりー」や「終わったー」などの安堵の言葉を吐きながら教室へと戻っていき、杉崎は生活指導室前にある職員室で立ち止まった。
「……私、このまま帰っちゃダメだよな」
「ダメに決まってんだろ。馬鹿かお前」
「だって職員室に居たら、田中先生に色々言われる……めんどくさい……」
「お前が事の元凶なんだから素直に聞き流せよ」
聞いとけよ、と言わないのは、コイツが素直に聞いてるはずもなく、どうせ右から左に受け流しているだろうからだ。
と、そこで。杉崎の目の前にあった扉が開いた。
職員室の扉を開け、退室しようとしていた少女に、俺も杉崎も見覚えがあった。――と言うより、あって当たり前だ。
「む、中村。職員室に何の用だったのだ」
「あ、えっと……数学のプリント、さっきの授業で提出し忘れたので……えへへ、ごめんなさい」
同じクラスの中村亜里沙だ。その可愛らしい幼さを残す外観と、ホンワカとした雰囲気を常に醸し出している彼女は、クラス中の男子から狙われる倍率高い女子である。
「そうか。私以外の授業はちゃんと受けるのだぞ」
「はーい先生」
「お前もちゃんと授業しろよ」
溜息をつきながら職員室へと入室していった杉崎とすれ違いながら退室した中村は、その職員室の近くに居た俺と目が合った。
「あ、相沢くんも居たんだ。男子はみんな生活指導室に行ってたの?」
「そうだよ。全く、杉崎のせいで面倒な事になった」
「お話はよく分かんなかったけど、焚き付けてたのは相沢くんだった気がするなー」
そんな事は決して無いと言いたい所だが、確かに生活指導にしょっ引かれた一因に、俺が居た事は間違いない。
「原因を作ったのは杉崎だ!」
認めたくない一心で、そう言い放ってフン、と鼻を鳴らす。教室へと戻ろうとして、中村から遠ざかろうとした、その時。
「ま、待って。相沢くん!」
「ん、何さ」
「あの……ちょっと、教えて欲しい事があるの」
「教えて欲しい事? 中村が、俺に?」
「うん……」
少しだけ困っている、と言わんばかりの表情をしながら訪ねてくる中村。だが彼女が俺に教わる事なんて無い筈だ。
彼女は頭が良い。学校の成績は常にクラス内一位だし、先ほどの数学プリントの提出忘れだって、やってこなかったわけではなく家に忘れただけで、再度手渡されたプリントも先ほどの自由時間(国語の授業中)に、五分足らずの時間を使って終わらせていた筈だ。
ちなみになぜ俺がそれを知っているかと言うと、別に意識して見ていたわけでは無く、彼女が前の席に位置しているから見えたのである。
「その……い、言いにくいんだけど……」
モジモジと、視線を泳がせながら頬を赤らめ、両手の指を合わせたり絡ませたりしている中村の姿は、確かに人気が出るのも分かるくらい、可愛らしかった。
「いいぞ。俺が分かる事なら答えてやるから、言ってみろって」
別に俺は中村が嫌いなわけでは無い。むしろいつも笑顔が可愛いくて一生懸命な彼女が困っているのならば、俺は力になってやりたいと思う。
もしかしたら好きな男子でも出来たのかもしれないし、それなら何とも可愛らしい相談じゃないか。俺に出来る事なら協力してやろ「あの、私に! え……エッチな事について、教えて欲しいのっ!!」俺は即座にその場から走り、逃げ出した。
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「はぁ……はぁ……な、なんで逃げるの……!?」
「職員室前でいきなりあんな事を声高らかに叫ぶ奴がいて逃げないわけあるかバーカバーカッ!」
特別授業用の階である四階の階段を越え、屋上へと続く階段で行き止った俺は、そこに腰を落として、俺を追いかけて来た中村の問いに叫び声で答えた。
ちなみに中村は、柔らかな雰囲気に似合わず体育の成績も良く、走るスピードも陸上部並の実力を有しているので普通に追いつかれた。
「ていうかお前、エッチな事教えて欲しいなんて言い方あるか! どうせ保健体育で分かんない所を教えて欲しいとかだろ!? そういうお約束はいいからホント!」
「え、確かに保健体育は相沢くんの方がテストの成績良いけど、私が聞きたいのはエッチな事だから関係ないよ!」
「お前どんだけピュアなんだよっ!!」
あれか!? 生殖器云々とかは健全な教育であってエッチな事じゃないってか!? あの辺りの授業を通常授業の数倍は集中して聞いてた俺はただのマセガキって事か!?
「私……実はそう言うお話って全く分かんなくて……友達に聞いても『亜里沙はそのままでいいよ』ってはぐらかすし」
「いやそのままでいいよホント……」
「だって、杉崎先生の授業中、そういうお話ばっかりしてるのに、私だけお話の内容が分かんないと、詰まんないよ……」
「分かんなくていいよ詰まんなくていいよ授業ってそんなもんそんなもん」
「でも相沢くんはいつも杉崎先生の授業についていけてるから、きっとエッチな事は何でも知ってるんだろうなー、頭いいんだなーって思って」
「もうヤダ俺死ぬ! 屋上から飛び降りて死ぬ!」
辱めを受けた俺は飛び降り自殺をする為に屋上へ続く扉を開こうとするが、昨今の教育機関の関係上、至極当然のように鍵がかかっており、残念な事だが身投げは無理だった。
項垂れる様に再び階段へ腰を落とした俺に、中村が「げ、元気出して。人生もっと良い事あるよ?」と慰めてくれた。
だがその表情は「一体何がそんなに悲しいんだろう」と言わんばかりの表情をしているので、俺が身投げしようとしていた理由すら分からないだろう。
「……お前さ、そういうエッチな事を知って、どうしようっていうんだよ」
「えっと、お話についていけるようになりたいなーって……」
「これは本心から言うんだけどよ、別に知ってて価値のある事じゃないし、恥ずかしい事ばっかだから知らないで困る事は、今の所無い筈だ。そりゃ……いつかは知らなきゃいけない事もあるだろうけど、それらは全部保健の時間で習うんだよ」
彼女がどういう目的でその事を聞こうとしているのか、真意は分かりかねる。
だがそれでも、保健体育の授業を超えた話を知ろうと言おうものなら、俺は止めたいと思う。
「お前はお前のままでいてくれよ。俺、お前のそういう所が好きなんだぞ」
「す――!?」
俺の何気ない一言で、なぜか顔を赤らめて、俺と同じく項垂れる中村。なんか変な事言ったか?
「で……でも、知りたい……私、知りたいよ」
「中村」
「違うの! べ、別に相沢くんが好きで居てくれる私から、抜け出そうって事じゃ決して無いの! ただ――私、大人になりたい、から」
「大人?」
「私、確かに他の子よりテストの点数はいいけど、それが大人になるって事じゃ、ないと思うんだ」
「じゃあ、どういう事が大人になるって事なんだよ」
「学校の授業じゃ、教わらない事を、キチンと知識として身に着ける事……それが、大人になるって事だって……私は、そう思うな」
……そう言って微笑んだ中村の表情が、泣いているように見えて、俺は言葉を詰まらせた。
中村は、一年五組の中で誰よりも子供っぽくて。
そういう知識に対して誰より疎くて。
何時も誰からも「可愛い」と頭を撫でられる【子供】でしかないのだ。
だが彼女は――【大人】になりたいと思っていた。
だからこそ、大人になる為の知識を欲していた。
――少しだけ道を逸れてしまっている事に気付かない程に、焦りながら。
「『英知は泉である。その水を飲めば飲むほど、ますます多く、力強く、再び噴き出してくる』」
四階の廊下から、女性の声が聞こえた。その声を、俺も中村も知っている。
「これはドイツの宗教詩人であるアンゲルス・ジレジウスの格言だ。人の知識に対する見解が強いのが特徴で、この格言はその最たる例と言えるだろう」
杉崎有果だ。彼女は四階の廊下から屋上へと続く階段を登りながら、俺たち二人に笑みを見せた。
「杉崎、どうして」
「そりゃお前、職員室の前で『エッチな事を教えて欲しい』等と言うワクワクする声が聞こえたら、追いかけるしかなかろう」
やっぱりあの時の声は職員室に丸聞こえらしい。逃げてよかった。
「中村にはこの格言がピッタリだな。大人になる為の知識を身に着ける事により大きく成長し、そして強くなるだろう」
「おい杉崎、焚き付ける様な事言うんじゃねぇよ」
「お前はさっきからなぜ中村の願いを否定する。知識を身に着ける事は悪い事では無かろうに」
「大人になる事が傷付く事なんだとしたら、俺は中村をそんな大人にさせたかねぇよ」
「そういう知識を身に着ける事が、傷付く事か?」
ふぅと溜息をついた杉崎は、俺の手を引いて階段から降り、四階廊下で俺に囁いた。
「お前の言い分は分かる。ただ無駄な知識を頭に植え付けただけならば、中村は真の意味で大人にはなれない」
「分かってんならなんで焚き付けるんだ」
「正しき知識を身に着ける事は間違いでは無い。傷付く事もあるだろうが、それを含めて大人になる事だ。そしてその傷は決して、心を深く傷つけたりはしない」
――それは、確かに正論だろう。
中村が欲していた知識は、無駄な知識だ。
しかし、何かの拍子でその無駄な知識を、間違った知識として身に着けてしまったその時こそ、彼女は心に大きな傷を負ってしまう事になる。
そしてその傷は一生心を傷付けてしまうだろう。
……そうなるのならば、例え無駄な事でも、正しい知識を身に着ける事は、間違いでは無いのだ。
「相沢、お前は優しい子だ。中村は、非常に聡い子だ。
だがそれ故、お前は他人を傷付ける事を恐れ過ぎているし、中村は知識に対して貪欲になり過ぎる。
優しい事は罪では無い。知識を求める事は悪では無い。
だが、その結果に他人を傷つける事になるのは罪と。
その結果に間違った知識を覚えてしまう事は悪と。そう断ずる必要がある」
「じゃあ一体、どうすんだよ。どうすりゃいい」
「簡単だ。――私とお前が、正しい知識を与えればいい」
ニヤリと笑みを浮かべた杉崎は、再び中村の元へと歩を進め、そして彼女の前に立って言うのだ。
「お前の願いは分かった、中村。私と相沢が、お前に知識を与えよう」
「ホントですか!?」
「ああ。今日から毎日一時間、居残り授業だ!」
やったー! とはしゃぐ中村と、彼女の頭を撫でながら笑う杉崎。
(……杉崎は、ちゃんと生徒の事も考えて行動してるんだな)
授業中は無駄な言葉を放ってるだけかもしれない。
だがそれでも――彼女は教え子にきちんとした知識を与えようとする教師であり、大人なのだと、俺は今ちゃんと認識する事が出来たのだ。
(……ま、居残り授業はかったるいけど、中村の為に付き合ってやるか)
俺もフッと、小さく笑みを浮かべた。
「じゃあ先生! まずは何の事について勉強するんですか!?」
「では男性の性感帯について勉強しよう」
「勉強には順序が重要だよなぁ杉崎ィ!」
教師の後頭部を思い切りぶん殴ったのは、十二年間生きてきて初めての事だった。




