どこかまだ足りないところがある、まだまだ道がある筈だ、と考え続ける人の日々は、輝いている。3
秋音中学校の廊下を走って駆け、スリッパから靴へと乱雑に履き替えた相沢美香は、そのまま校舎の外へと駆けた後、満足するまでランニングに勤しんでいた。
彼女――中村亜里沙と名乗った少女が、兄の好きな人なのだ。
可愛くて、胸が大きくて、それでいてオットリとしていて、その魅力に美香自身が惹かれそうになっていた。
それが何だか、無性に腹立たしかった。
どれだけ走ったか分からない。
方向も認識せず走っていたものだから、つい駅前まで走った所で、彼女はフゥと息を吐きながら、駅の壁に背をつけて、座り込んだ。
「……可愛いし、胸もあるし……ズルイよ、あの人」
自分に無い物は、胸だけだと思っていた。
顔も良ければ人当たりも、人に対する観察眼だって持っていると思っていた自分を越える、絶世の美少女。
兄が惹かれるのも仕方がない。それは分かっている。一目でわかった。
――それだけで、ある筈なのに。
ただ、苛立ちと恥じらいだけが、彼女の胸にはあったのだ。
「『どこかまだ足りないところがある、まだまだ道がある筈だ、と考え続ける人の日々は、輝いている』
今の日本を作り上げた一人と言っても過言では無い人間、松下幸之助の格言だ」
そんな彼女へと声をかける、一人の女性――杉崎有果は、美香の隣に立って、淡々と言葉を述べていく。
「美香。君の日々は、真に輝いている。君は自身を見定めて『まだ足りない』と嘆く事の出来る人間だ。もっと成長も見込めよう」
「……違うよ、先生。アタシが泣いてんのは、アタシに足りないものがあるからじゃ、ないよ」
「分かっている。教師を舐めるな」
有果は美香の頬へ、冷気を放つ小さな缶コーヒーを当てて、それを手渡した。
「君は、自身の兄を――誰よりも愛している。それも妹としてでは無く、一人の女として」
「……ばれてたかぁ。やっぱり先生って、凄いよ」
そうだ。――相沢美香は、相沢武を、愛してしまった。
ただ一人の兄。ただ一人、自身を理解してくれる男。いつもいつでも、自身を想ってくれる兄の事を。
彼女は――兄を一人の男として、愛してしまったのだ。
「でも、兄ちゃんは違うんだ。アタシの事を妹として見ていても、女としては見てくれないんだ」
「当たり前だ。お前がおかしい」
「うわ、キッツい言い方するなぁ、先生」
「同族嫌悪と言う奴だ。お前のような変態と私のような変態は相容れないと言うだけだよ」
「……ねぇ、先生。アタシどうしたらいいと思う?
アタシだっておかしいと思うよ。実の兄ちゃんを好きになって、大好きになって、クラスの男子なんか眼中に入らない位、惹かれてるなんてさ。
でも、仕方ないじゃん。理屈じゃないじゃん、こんなの。だって好きになったんだもん。
欲しいんだよ、兄ちゃんを。一人の男として。
だって、兄ちゃんが居ないと、足りないもん――アタシの人生」
十一歳の少女から放たれる、確かな、しかし、弱々しい嘆きの声。
有果は、自身の手に持った缶コーヒーのプルタブを開け、飲み口に唇を付けた。
「ぬるくなるぞ。飲みなさい、美香」
「アタシ、苦いの、ダメ」
「いいから――ブラックコーヒーだ。一気にあおれ」
強く、放たれた彼女の言葉に。
美香は少しばかり億劫と言った表情で、彼女と同じようにプルタブを開けて、飲み口に唇を付けて――意を決したように、その液体を口内へと送り込む。
むせた。力強くむせた。ゴホゴホと咳き込み、口から僅かにブラックコーヒーを滴らせながら。
だが――なぜだろうか。涙と共に、笑いがこみ上げてくるのだ。
苦味を感じて、大人はなぜこんな物を好き好んで飲むのだろうかと謎に思いながらも。しかし、自身の表情はくしゃりと笑みを浮かべ、そして泣き散らす。
「これ……苦いよ、先生」
「ああ。大人の味だ」
――お前が感じた苦さと、同じ味だ。
そう語った有果は、美香の頭をただ撫で続けた。
「美香。お前の抱いた気持ちは、間違っているかもしれない。だが、それは確かに、お前の心が抱いた、純粋な気持ちだ。
それを誇り、そして忘れるな。
その辛さを抱きながら、自身に足りない物を常に探し続けろ。
――大人というのは、苦味を抱きながら、尚も走り続けれる者の事だ」
まだまだ美香には、早すぎる真理かもしれないが。
それでも美香は、有果の言った言葉を胸に秘め、しばしの時を泣いて過ごした。
**
兄ちゃんが、帰って来た。
アタシは一言謝りつつも、あの中村さんはどうしていたか聞いたら、何やら表情を赤くさせたので、理解した。
変に「家まで送っていった」とか「アイツん家ちょっと遠かった」とか言い訳してるけど、アタシの観察眼舐めんな。
兄ちゃんはきっと、今まで亜里沙さんへの恋心を、理解はしていても実感はしていなかったんだと思う。
けれど、今日何かがあって、恋心を実感するに至る事が出来たのだろう。
――ホントなんだね、先生。
すっごく苦い。すっごく辛い。
今日飲んだ、コーヒーみたい。
母ちゃんが飲んでたコーヒーを、一口飲んでみる。
少し苦いが、多分加糖なんだろう。今日飲んだコーヒーよりも、若干甘みがあって、美味しいと感じる。
兄ちゃんはコーヒーを飲まないから、少しだけ、アタシのリード。
アタシはあるよ、って。自慢してやりたい。
――ほんの少しだけ、辛さを味わった、アタシの勝ち――