初恋は、男の一生を左右する。3
有果は亜里沙へと伸ばしていた手を固め、新聞を読んでいた老婆は顎が外れると言わんばかりに口を大きく開け、静は目を大きく見開いた上に「え」と小さく呟いた。
――この子は今何と言った。
――『武くんはいっぱい、私にエッチな事を教えてくれるんです』?
――それはまるで、我が子が。
――この子を、毒牙にかけているようではないか!!
「せ、先生……これは、これは一体……どういう……!?」
「そそそそそそ、それは、それはそれはそれは……!」
「えへへー。武くんって凄いんですよ。エッチな事いっぱい知ってて、私にいろんな事を教えてくれるんです。あ、この間はオッパイの事を教えてくれたよねー、先生」
「お願いだ中村、少しの間だけ静かにしていてくれ……!」
「先生! 先生は居残り授業で何を教えているんですか!? ま、まさか先生が率先して、不純異性交遊を広めているわけではありませんよね!?」
「ちが、違います! この中村はあまりにそう言う卑下た話題に富んでおらず」
「良い事ではないですか! なぜウチの子供が卑下た話題をこの子に率先して教える事を止めないんですかっ!?」
「も、もちろん悪い事ならば止めるは当然です! しかし武くんは今後彼女が間違った知識を他人から植え付けられぬ様に気を使って、わざわざ居残り授業をして、座学で教えているのです! 決して実技で教えているわけではありませんよ!?」
「あったりまえでしょ!? というかなぜそれをウチの子が!?」
「それはっ、それは……っ!」
言葉に詰まった有果。そんな姿を見据えて、亜里沙はキョトンと首を傾げながら、まるで当たり前の事を言うように
「? なんでって――ウチの授業で先生がするエッチな話題に、武くんだけがついていけるからです」
バタン、と。老婆が椅子から転げ落ち、ビクンビクンと震えている姿を見据えて亜里沙が「もー、お婆ちゃん。急に倒れちゃダメだよー」と呑気な声で介抱しに行く。
何時の間にか立ち上がり、叫び声の応酬を行っていた有果と静の二人は、何だか疲れたような表情で椅子に座り込み、大人としての会話を繰り広げた。
「先生。国語の授業で、何を教えているのですか?」
「い、偉人の格言と共に、そこから連想される言葉の重みを教えておりまして……」
「それがなぜエッチな話題に繋がるのでしょうか」
「いつも、そう言う授業を行っているわけでは、無いのですが」
「という事は行っている時もあると?」
「ひ、否定は、し……しません」
「出来れば否定をして頂きたかったのですが……」
「あの、誤解を残したくありませんので言葉を挿ませて頂きますと、私はあくまで『性知識』と言うのは、正しい知識を身に着けてこそ、と思っております。
中学生と言う多感な年頃では間違った知識を身に着ける事が多いと思いますので、国語の授業中は雑学として、いわゆる『下ネタ』を混ぜ、面白く、しかし確かな性知識を与えるべく授業を」
「国・語・の! 授業をなさってください!!」
「正論ありがとうございますごめんなさいっ!!」
力強く頭を机の上に叩きつけ、頭を下げた有果の姿に溜息をついた静は――ただ聞きたかった事だけを、訪ねた。
「……ウチの子は、亜里沙ちゃんの身体に傷をつけるような事は、していないのですよね?」
その言葉に。有果は頭を上げて、キッと表情を引き締めた上で――コクンと頷いた。
「……それだけは、ありません。むしろ彼は、今後訪れかねないその様な事態を危惧するが故に、中村の卑下た知識の欠如を恐れ、彼に分かる範囲の事を、教えているのです。
彼は正真正銘――良い子です。この言葉に、嘘偽りは、ありません」
真実を、恐れずに口にした有果の言葉を噛み締めて。
静は一筋の涙を流し、一言呟いた。
「……良かった。ウチの子は少なくとも、人様に顔向けできない事は、していないんですね」
――それだけが、ただ嬉しかった。
勉強が出来ぬ事。部屋の掃除が出来ぬ事。母親を怒らせる事――そんな事は、些末な事でしかない。
ただ、人様に誇れる我が子であるのならば、母親として、こんなに嬉しい事は無いのだ。
「ちゃんと、授業をなさってくださいね」
「必ず」
「うちの子は要領よくないので、根気よく教えて頂ければ幸いです」
「彼はやればできる子です。必ず強く成長するでしょう」
「……あと、こんな時に言うのは何ですけど」
「はい」
「我が子を、成長させてくれて、ありがとうございます」
深く深く、頭を下げた後。
静はアイスコーヒー二杯分の小銭を置いて、買い物袋を手に取り、帰路を歩いていった。
――本日は、武の好きなクリームシチューで、ささやかなお祝いをしよう。
**
何だか今日は、母ちゃんの機嫌がいいような気がする。
オレ――相沢武は、本日の食卓にクリームシチューがある事に喜びつつ、ニコニコと笑みを浮かべる母ちゃんの姿に何だか妙な感覚を覚えていた。朝、この人に腹部を殴打されたとは思えない。
「なぁ美香。母ちゃんどうしたんだ?」
「さぁー?」
小学六年生の妹である美香にそう尋ねると、美香も首を傾げてシチューを口にした。
「武、武」
「何だよ母ちゃん。気色悪い声で」
「あんたの好きな子って、どんな子?」
クリームシチューが器官に入った。
「え、兄ちゃん好きな子いんの!?」
驚愕と言わんばかりの表情でそう尋ねてくる美香を無視しつつ、水で喉の流れを確保したオレは、むせつつ母ちゃんへ叫んだ。
「いきなりなんだ母ちゃん! オレにはその、好きな子なんて――好きな子なんてっ」
「いるんでしょ?」
ニヤニヤと笑みを浮かべながら聞いた、母ちゃんの言葉に。
オレは……唇を噛み締めながら、熱くなる顔を抑えつつ、溜息と共に、言葉を放った。
――母ちゃんに、詰まらない嘘なんか、付けるわけがない。
「……可愛い子だよ。母ちゃんと違って、胸デケェし」
「へぇー、亜里沙ちゃんの胸ばっか見てんのね武は」
「な――何で中村の事知ってんだよ母ちゃん!」
「ないしょ、ないしょ」
母ちゃんはオレの言葉をそうやって躱すと、空になった自身の皿を持って、台所へと向かっていった。
――その表情は、我が子の成長を嬉しく思う、母の表情に他ならないのだろうと、オレは気恥ずかしさと共に、そう理解した。