一芸に熟達せよ。多芸を欲張る者は巧みならず。
「『一芸に熟達せよ。多芸を欲張る者は巧みならず』」
また何か言いだした。
俺――相沢武はそう思いながら、短く切りそろえた髪の毛をガシガシとかいた後、頬杖をついてウトウトと顔を傾けていた。
先日風邪を引いて体調を崩していた事が原因で、今もまだ眠たい。あと少しクラス内が静寂であるならば、意識を閉ざしてしまう自信があった。
「これは長宗我部元親の格言だな。似たようなことわざに『二兎追う者は一兎も得ず』などがあるが、私はこちらの格言の方が好きだ」
並べられた机と椅子。それに腰掛ける少年少女達。
彼らの目の前には黒板があり、教壇があり、先生がいる。
先生は教科書を開きながら教卓にもたれ掛る。ふわりと、その長い赤髪がなびいた。その髪は腰まで伸びており、枝毛の一つも見当たらない。
「『一芸に熟達せよ』というのは文字通り、一つに長けた何か、それだけを極めろ、という意味だ。
対して『多芸を欲張る者は巧みならず』とは、多くの物を極めようとすれば、全て上手くはならないという事柄を言い表している」
どうやら教卓にもたれ掛ったのは、それまでの体勢が少しだけきつかったらしい。すぐさま教卓から離れ、振り返る。
鋭くも、綺麗な瞳をした女性教師だ。薄橙色の肌、端麗な目鼻立ち。スレンダーという言葉が似合う体型、少しだけはだけたスーツから見える、豊満な乳房を強調するワイシャツがやけに淫靡に思える。
「だからな」
教師は、その胸ポケットから四つ折りされたプリント群を取り出して、俺の机に置いた。
「国語五十五点、数学四十三点、社会三十二点、理科四十五点、英語三点、音楽二十八点、美術十六点、家庭科八点」
それはテストの答案用紙だ。溜息をつきながら、後悔する。
(昨日、意地でも学校来れば良かった……)
先日、朝目覚めると頭痛と吐き気に襲われた俺は、学校を欠席した。丁度、中間テスト終了の二日後。答案が帰ってくる日の事だった。
その答案が、担任経由で帰って来たのだ。
秋音中学校一年五組担任教師――杉崎有果から。
(にしてもイヂワルな。テスト返却日に休んだだけで、なぜこんなイジメみたいな……)
周りの女子からはクスクスと笑われ、男子からは「ドンマイ」と声がかかる。
――だが悪夢はここで終わらなかった。
「そしておめでとう、保健のテスト百点満点。先生は鼻が高い。このままエロい事だけを極めて行くのだ」
「早く授業しろよバカ教師っ!」
俺は顔を真っ赤にしながら、両掌で表情を隠した。
――眠気は、完全に去っていた。