彼女は自分を蔑んだ
彼女は自分をとにかく低く見ていた。
自己肯定というものは殆ど存在しない、恐ろしく自分というものを蔑ろにして過ごしてきた。
何故なら、自分は得体の知れない存在だから。気味が悪く、受け入れがたいものだから。
そして周りもまた、そんな彼女の扱いに困り、結局は彼女の元から去っていった。
「どうぞ」
「…………」
皿に盛られた新鮮な野菜を、彼女はおどおどとしながら見つめている。その目は片方ずつ色が違っていた。
「遠慮しないで、食べる。わたしはあんまり食べれないけど、味は保証」
自分の隣にいる獣人の女の子――ルミナスが、胸を張って言う。身体の構造的にあまり野菜が摂取出来ない彼女はもっぱら肉食だが、どうやら野菜の味もちゃんと理解しているらしい。
二人に言われてようやく野菜に手を伸ばした彼女は、長すぎる袖からほんの少しだけ見える指先で野菜の葉を掴むと、小さな口で少しずつ啄み始めた。
「で、主。この子はどこから?」
「主は止めて欲しいって言ってるんだけど……」
「将来に期待して欲しい」
「うぅん……」
自分を主と呼んで憚らない少女、ルミナス。元々奴隷だった彼女を救いだしたのは確かだが、別に彼女と主従関係になった訳では無いのだが。
まぁ、結構頑固なところもあるのはもう理解している。なにせ、最初に自分を主と呼び始めてから早半年。注意しようが何を言おうが全く直そうとしないのだから、もう諦めた方が良いのかもしれなかった。
「奴隷には見えない。けど、普通に暮らしてたようにも見えない」
「そうだね。彼女は君のような奴隷ではなかった。けれど」
一度言葉を切ると、ルミナスは座る自分に近付いて少しだけ屈む。その耳元に、小声で彼女が置かれていた状況を説明した。
全てを聞いた彼女は、耳と尾を心無ししんなりさせる。
その目は、今は夢中になって自家製の花の蜜ジュースを吸う彼女へと注がれている。
「……それは、辛い。でもそんなことってある?」
「亜人の中でも森人や虫人は特殊だからね。有り得ない、とは言えないな」
「…………」
それっきり、黙り込んでしまう彼女の頭を撫でてやる。
目の前の彼女は、亜人の中でも群を抜いて多様性がある人種である。例を用いるならば、ルミナスは獣人であり、その中でも狼の亜人となる。このように亜人と言っても種別ごとに更に細かく分けられていくのだが、その中でも取り分け種別が多いのが虫人。すなわち彼女が属する人種なのだ。
どれだけ多いかと聞かれれば、正直な話わからない、と自分は答えるだろう。なにせ、そもそもどれだけの種別がいるのかがわかっていないのだから。
そして、目の前にいる彼女はその中でも更に特異な個体である。
「…………」
虫人の中でも、成長過程で一度完全に身体を作り替えて大人へと至る種類がいる。つまり変体というものだが、これは別に珍しくはない。
何が彼女を特異たらしめているのか、それは一重に、彼女以外にその身体的特徴を持つ種が存在しない、ということだ。
平たく言うならば、新種。特異体。突然変異種。
そんな彼女は、生まれるや否や捨てられたのだ、と里親であった者は言う。どう育つのかもわからない。危険な種であれば手に負えない。恐らくはそんな考えで捨てられたのだろうと。
そしてそんな里親も結局はその考えに至ってしまったのが、ひどく自分には悲しく思えた。
「…………?」
「こんなにかわいいのに」
「…………」
此方が何を話しているのか気になったのか、一度食べる手を止めて首を傾げている。そんな彼女を見て母性でも刺激されたのか、後ろから抱き締めて頭を撫で始めるルミナス。ぶっちゃけ見た感じの年と背丈はほとんど同じなので母性もくそもないのだが。
因みにルミナスは十七歳である。背丈も小さく幼く見えてしまう彼女だが、それは奴隷の時期が長く発育が遅れてしまっているせいだ。ここに来てから色々急激に成長しているので、後一年もすればあるべき姿に追い付くのだろう。
「まぁ、取り敢えず俺は色々調べるとしよう。ルー、任せていいかい?」
「勿論。初仕事、頑張る」
「ふふ、仲良くね」
取り敢えず、抱き着かれても困惑するだけで嫌がる素振りも見せないので、任せても問題ないと判断。
ひとまず彼女のことはルミナスに任せて、自分は彼女のことを調べる為に席を立った。
「うーん……。確かにどの種にも当てはまらない、けど」
書斎に籠り早二時間。虫人関係の書物を読み漁って得た結論は、やはり彼女の持つ特徴は前例にない。勿論、ある程度の当たりを付けて、成長過程で変体を行う種に絞って、の話ではあるが。
「前提から間違っているのか? 両親が蝶だと言うからその近辺で調べてるけど……」
いいや、そもそもの話、彼女が完全な新種であったならばいくら調べても意味が無い。……無いことはないが、それは彼女が完全に独立した一個体であることを裏付けることにしかならない。
それならそれでもいいのだが、自分にはどうしても引っ掛かるものがある。
「あの身体の模様には見覚えがあるんだよなぁ」
そう。彼女の身体――特に、両手足に走る楕円が列なった色鮮やかな模様。自分は確かにどこかで、それと似たような物を見たような……あるいは、知識として知っていたような気がするのだ。
資料を閉じて頭を抱える。それを知ったとするならば、まだ自分が仲間と共に世界を駆け巡っていた頃。レベルとしては軽く見て流してしまうような、豆知識として仲間からぽつりと聞いたような、そんなもの。
恐らく危険なものではない。それならば忘れるはずもない。この頭が平和ボケしていなければ、の話だが。
「ダメだな、思い出せん」
息を吐いて、頭を切り替える。
そもそも、彼女は虫人にしてはいくつかおかしなところがある。
先ずひとつ。未だに、彼女は言葉が喋れない。覚えてない、知らないだとかの話ではなく、そもそも言葉を発する器官が未発達なことが窺える。
これは変体をしていない虫人にまま見られる現象である。幼年期の彼らはいくつか身体に不具合があることも多く、しかしそれらは変体を通して解消されるから問題視されていない。
だがそうなると、彼女が未だに幼年期であることになる。変体を行う年としては、人の年で早ければ五歳、遅くても七、八歳に変体を終えて成体となる。その後、新たに年を重ねて成長していくのだ。彼らは幼年期と成体とで年を分けているらしく、感覚としては第二の生誕のようなものなのだろう。
そして彼女だが、未だ幼年期であると仮定しても年を取りすぎている。里親から聞いた話では今年で十五にもなるというのだ。しかも、今では身体の成長が止まってしまっている。
幼年期で十五年は長すぎる。しかし成長が止まるのは幼年期の特徴でもある。彼女が変体をするのならば、それはいつ始まってもおかしくないのだが、今のところその兆候は欠片もない。
それに、瞳の色もそうだ。単なるオッドアイならともかく、彼女は瞬きをする度にその色が変わる。そんなものは見たことが無かった。
「難しいな……」
ひとつ呟いてしばらく黙り込んだ後に、もういいかと資料をひとつに纏める。
彼女の正体が何なのかはいずれはっきりする。ならば、ここで一人唸っていても何も変わらない。勿論これからも気になることがあれば調べはするが、結局のところ自分がすることは変わらない。
かつてルミナスを救えたように、彼女にも自分の居場所を見つけられるようにするだけだ。
「主。全部食べた。追加する?」
「欲しそうならあげてもいいよ」
「わかった」
部屋から出たところで、廊下の曲がり角から顔だけを出していたルミナスにそう答えてから、疲れた頭を癒そうと風呂場に向かうことにした。
彼女は酷く何かを怖がっているようだ。
受け入れてから一週間、彼女の様子を見て感じたのはそれだった。
夜も更けた頃に部屋にきたルミナスもまた、同じことを感じたと言う。
「わたしとはまるきり違う。わたしは、主に救われるまで……救われてからも、しばらく自分のことしか頭に無かった」
「と、いうと?」
「自分のことを考えてない《・・・・・・・・・・・》。それでいて、何かをするにも躊躇ってる、みたい」
ふむ、とルミナスの言葉に、ここしばらくの彼女の行動を照らし合わせる。
が、しばらく考えてから、
「何も、おかしなことはしてない、よな」
「それは主が? それとも、あの子が」
「どちらも」
「なら、どちらも」
自分は特に怖がらせるようなことはしていない。というよりは、この一週間はなるべく離れて見守るようにしてきたつもりだ。
そして、見守ってきた結果は、特に何も無かった、というのが結論となる。
「だからわからない。あの子は、何を怖がってる?」
「…………」
耳を微妙にへたらせながら考え込むルミナスだが、その頭を撫でながら、
「もう少し様子を見よう。答えを出すにも、今はまだ早い気がする」
「……主が言うなら」
本当は朧気ながら答えが見えてはいるのだが、別に急ぐことも無いだろう。
目の前の彼女なんて、一週間じゃとりつく島も与えてくれなかったのだから。
彼女を受け入れて一月が経ち、その日に大きな変化が起きた。
それは晴天が広がる日。その昼過ぎに起きたことである。
「主のパンツが木に実った」
鼻歌交じりで洗濯物を干していたルミナスが、木陰で本を読んでいた自分にいきなりそんなことを言いにきた。なんだその表現は。
「嫌な言い方をしない。風で飛ばされたんだろう?」
「まぁ、そう」
「取ればいいじゃないか。簡単に届くだろうに」
単に木に引っ掛かった程度、彼女なら苦もなく取れる。何せ軽く飛べばその辺の木の高さくらい飛び越えられるのだから。
しかし彼女は、そんな俺の言葉に不満そうに唇を尖らせる。
「今の服は、破きたくない」
ワンピースの裾を掴みながら言うルミナス。
見れば、それは彼女に初めて与えたあのワンピースだ。どうやらお気に入りのようで、確かにそれで木に登ればどこかしらほつれてしまいそうではあった。
かつては足首まであった裾だったが、今では膝下辺りまで上がっているあたり、彼女の成長が窺える。
「……そろそろ限界じゃないのかな」
「まだいける」
「目のやりどころに困りはじめてきたんだが」
「……思わぬ副産物。尚更大事にする」
ぐっ、と両手を握って妙な気合いを入れたルミナスを見て、余計なことを言ったかと頭を掻いた。
まぁ、大事にしてくれるならそれは嬉しいものだ。取り敢えず今回は、木に実ったらしい自らの下着を収穫せねばならないかと立ち上がる。
「で、どの木?」
「あの木」
「……? 誰かいるな」
「シルク。見張ってもらってる」
「必要なのかい……?」
指差された木の下に、日の光を受けて輝く頭が目に入る。ルミナスがシルクと名付けた、彼女の頭だった。
人の、しかも男のパンツをじぃっと見られるのは忍びない。とっとと風で取ってしまおうと歩き始める。その時だった。
シルクの口から、細い何かが吐き出される。
それは赤だったり、青だったり、ピンクだったり、オレンジだったりと、それは色鮮やかな、細い糸であった。
糸は俺のパンツに絡み付くと、あっという間に枝から外れてシルクの元へと戻っていく。プツリ、と糸を咬み切る音が聞こえた。
一瞬呆気に取られたが、彼女に歩み寄ってその頭に手を置く。此方に気付いていなかったのか、驚いたように身体を震わせると、目をつぶって縮こまってしまった。
「ありがとう。取ってくれたんだね」
「…………?」
「それにしても綺麗な糸だ。もしかして、最初から出来たのかい?」
自分の言葉に、シルクはぱちくりと目を瞬かせた。鮮やかな赤色から黄色、そして青へとその目の色が変わる。
やがてコクりと頷くと、少しだけ怯えながらも、一歩、二歩と後ずさる。
その身体を、俺は抱き寄せてから――持ち上げた。
「怖くなんてないぞ? 成る程、君はそれが気になっていたんだな」
「…………!」
「周りは君を怖がっていた。正体がわからない君が、何になるのかわからなかったから」
瞬間、彼女の目が赤く染まる。どうやら感情でも変わるらしい。
「けれど、一番怖かったのは、他でもない君だったんだな。自分が何者かわからない恐怖……。そうだなぁ、その怖さは、君にしかわからないだろう」
何もわからないうちに捨てられ、拾われた先でも気味悪がられて仲間外れ。何かを言おうにも声は出ず、それが何故かもわからない。そもそも、自分が何者なのかもわからない。
それが怖くて、彼女は今から先に進めなくなった。周りにも自分にも受け入れられない未来の自分になんて、きっとなりたくなかったのだ。
「でも、俺は怖くないぞ。例え君が自分を受け入れられなくても、俺は君を受け入れよう。俺じゃ足りなければ、ルミナスだっている」
「ん。シルクは良い子。わたしは大好き」
「…………?」
「本当だとも。そうじゃなきゃ、こんなことは出来ないだろう?」
「主。わたしも交ぜる」
下から聞こえるルミナスの声に、シルクを下ろす。すぐにシルクの背後から抱き着いた彼女ごと、俺は二人を抱きすくめた。
おずおずと、その細い両腕が、俺の背中に回される。
「…………っ」
「信じてくれるかい? あぁ大丈夫だ。ここには二人もいるじゃないか。何も不安なことはない」
「わたしも主に救われた。シルクだって、救われなきゃ」
顔を埋められた肩に熱いものを感じる。それは彼女がここにきて、初めて見せた感情の爆発だった。
彼女が怯えながらもここでの生活をそつなくこなしていたのは、仲間外れにされたくなかったから。
彼女は今まで何一つ問題なく過ごしてきた。ひとつひとつの行動に怯えながらも、一生懸命、普通に見えるように。ひとつでもおかしなところを見せたら、また仲間外れにされてしまうから。
そつなく見えた彼女の生活は、懸命なまでの努力の塊だったのだ。
その日の夜。彼女は、色鮮やかな繭に包まれた。
「……あぁ、ようやく思い出した。参ったなぁ、こんなこと忘れてたなんて」
「主、何かわかった?」
翌日、シルクが寝ていたベッドの上に現れた虹色の繭を見て、ようやくあの時感じていた既視感の正体がわかった。それすなわち、シルクの種類、種族である。
いやしかし、本当に何で忘れていたのだろうか。あの時はひどく感動したのに。これでは相棒に怒られてしまうな。
「主、主。何かわかったら教えて」
「んー……。まだ内緒」
「ずるい、意地悪」
「だって、先に教えちゃうと感動が薄れるからね」
感動……? と首を傾げるルミナスの頭を撫でてから、ある人物と連絡を取るために自室に戻る。
まだアイツはあそこにいるのだろうか。自由を体現化した存在だから、下手をするといないのかもしれない。まぁ、その時はその時だ。
「連絡つくまで一週間もかかるとは思わなかったぞ」
『何よー甲斐性無し。こっちだって今更連絡来るなんて思ってなかったのよ』
シルクが繭に籠ってから一週間。
通話魔術の向こう側から全く悪びれもしない声が聞こえてきて、一瞬通話を切ってやろうかとも思ったがそうもいかない。此方は彼女に聞きたいことがあるのだから。
「聞きたいことがあるんだが」
『何よ。今更婿に来たいとか? ざーんねーんでーしたー! もう遅いですー!』
「…………あのな、実は家に」
『まぁでもー? どーしてもって言うなら! どーーーしても!! って貴方が言うなら、よう』
通話を切った。無駄な数十秒と魔力を使ってしまった。
そうだ。何もアイツに聞かずとも資料があるじゃないか。最初に調べものをした時は頭から抜け落ちていたから手を出さなかったが、今なら
『―――――――――!』
頭に甲高い音が響き渡る。
溜め息をついてからパスを開き、波長を合わせると、今度は声だけではなく姿まで目の前に現れた。……わざわざ映像まで送ってきやがった。
「どうした。忙しいんだが」
『ごめんなさいぃ! 連絡してくれたのが嬉しくて悪態ついちゃいましたあぁ!』
うっすら透けた彼女の姿がおいおい泣きながらすがり付いてくる。映像なので感触はないはずだが、なぜかがっしり肩を掴まれているような気がした。
取り敢えず話が進まないので、泣きじゃくる彼女を落ち着かせてから本題に入る。
取り敢えず事情を説明すると、
『……ふーん。で、今何日目?』
「一週間経ったところだな」
『見せて貰うことは出来る?』
「あぁ。部屋を移動して繋ぎ直せるか?」
『貴方と私は完全にパスが通ってるのよ? 辿ってついてくから平気』
「……相変わらず器用だな」
『昔の貴方ほどじゃないけどねー』
話しながら、部屋を移動する。
シルクがいる部屋に入ると、彼女はまじまじと虹色の繭を見つめ始める。
「どうだ?」
『……七色とは驚いた。両親が蝶だから、蛹になるのは当然だけど』
「問題は?」
『無し無し。早けりゃあと二日もすれば出てくるわよ。あ、でも今のうちに貴方の魔力を送っておくのをオススメするわ。両親いないなら、貴方が親になるんだから』
「……そうか、良かった」
『それにしても、そっかー。まだ残ってたのね……。隔世遺伝、か』
「無事に出てきたらまた連絡する。一度はそっちに行かなければならないんだったな」
『単なる顔見せだけどねぇ。あの爺さん、新しい娘が産まれたとなるとじっとしてらんないから。ま、待ってるわ。ひとまず、じゃあね』
「あぁ、また」
投げキッスをしてから、彼女の姿が掻き消える。変わらないな、と苦笑してから、そっと虹色の繭に両手を添えた。
そして、ついにその日が来た。
「あ、主! 主ぃー!」
まだ日が昇るか昇らないか、といった時間に、ルミナスの珍しく大きな声が家に響いた。
いよいよか、と部屋を出ると、その瞬間に横から強烈なタックルが飛んでくる。当然避けきれる訳もなく、身体をくの字にしながら吹っ飛んだ。
「あ、主! 繭にヒビが! シルクが!」
「だ、大丈夫……羽化するだけだよ……」
「うかって何!?」
「シルクが出てくるの……」
「平気!?」
「シルクはね……」
俺は全く大丈夫じゃないが。
取り敢えずルミナスを落ち着かせてから、一緒にシルクの部屋へと走る。
開けっぱなしの扉から部屋に入ると、そこには微かに歪み、亀裂の入った繭の姿があった。
固まった糸が、解れていく。やがて、綺麗な円形だった繭が、次第に歪み始めた。
最初に見えたのは、二つの隆起。それまで盾となりその身体を護っていた虹色の繭が、それまでの頑強さを無くし、柔らかな糸の束となり。それが、ほどけていく。パラパラと、艶やかだった糸が、役目を終えて。
その中心に、羽根に包まれた少女がいた。
膝を抱き、顔を埋め、その名の通り絹のような髪を持つ彼女は、顔を上げてうっすらと目を開く。
「シル、ク?」
此方の服をぎゅっと握りしめていたルミナスが、不安そうに声を出した。
それに答えたのは、自分ではない。であれば、返事をしたのは、声の出せなかった、目の前の彼女しか、有り得ない。
「おは、よう、ルミナス」
朝日が昇る。窓を背にした彼女の、半透明な蝶の羽根。それは七色に輝いて――けれど何より、それよりも。
「どう、かな? 私、変じゃない?」
初めて見せたその笑顔が何よりも輝いて見えたのは、きっと、気のせいではないのだろう。
「妖精、族?」
「あぁ。それがシルクの本当の種族だ」
孵化したシルクに服を着せ、どうせだからと繭だった糸を三人で糸巻きに巻いて回収しながら、彼女のことを説明していく。
「でも、私の両親は……」
「あぁ、確かに蝶の虫人だったんだろう。……まぁ、この辺りはおいおい話していくよ。ちょっと難しい話になるからね」
遥か昔に栄えた種族、妖精族。今では殆ど姿を見れなくなってしまった種族だが、希に虫人の中に妖精族の遺伝子を持つものが産まれる。それが隔世遺伝であり、シルクという存在である。
正直この辺りは俺では説明しきれない。長という名のお爺ちゃんが丁寧に教えてくれるだろうから、余計な説明はしないでおく。俺の持つ知識は精々が伝承レベルの眉唾ものである。
「じゃあ、私は虫人じゃあ、ない?」
「そうなるわ。貴女は私と同じ妖精族。……ってやだ!
綺麗な子じゃないの~……娘に欲しい~」
「えっ、誰!?」
突然背後から聞こえた声に、シルクは咄嗟に俺の背中に隠れてしまう。呑気に振り返っていたルミナスとはえらい反応の違いである。種族的に彼女のほうが警戒心ありそうなものだが。
ともかく、いきなり現れた彼女に文句のひとつでも言わなければ。
「いきなり来るなよ、王女様がポンポン外に出ていいのか」
「じい様に来られるのとどっちが良かった?」
「お前が来てくれて良かった」
流石に王に出てこられたら色々と問題がある。いや王女でも問題はあるが。
「シルク。彼女は妖精族の王女だ。君は彼女についていって、妖精の国へと行かなければならない」
「え……」
「あそこには君と同じ妖精しかいない。君が今まで感じ、恐れていたようなことは有り得ない。きっと、平和に暮らせるはずだ」
そこまで言って、何故かじとっと目の前にいる二人から睨まれていることに気づく。何だ、何かおかしなことを言っただろうか。
「主。わたしの時のこと、思い出す」
「言葉足らずは相変わらずか……」
そんな二人の言葉に、あれ、と自分の発言を省みる。そしてちらりと振り返ると、なにやら瞳に涙を溜めているシルクの姿。その瞳は真っ青である。
慌てて言葉を繋ごうとして、有難いことに王女様がフォローに入ってくれた。
「あのね。妖精は産まれたら一度国に来て王に会わなきゃならないの。それが終わったら晴れて自由、帰りたければ帰ったって構わないのよ。ねぇ」
「あ、あぁ、勿論。……ごめんよ、不安にさせちゃったかな。シルクがここを帰る家だって思ってくれるなら、そんなに嬉しいことはないよ」
「……ホントですかぁ?」
「本当、本当」
必死に泣くのを堪えながら聞いてくる彼女の頭を撫でながら、罪悪感に苛まされる。俺は何をこんな良い子を泣かせているのか。
ルミナスの時から何も成長していない。
「……じゃあ、帰ってきます。絶対、ここに帰ってきます」
「待ってるよ。……そうだな、約束しよう。帰って来た時には君の好きなものをご馳走するよ。何がいい?」
ここでひとつ、彼女から我が儘を言ってもらいたい。そんな想いから、そう聞いた。
今まではこんなことを聞いても、勿論喋れないのもあって答えてはくれなかったが。
今なら、きっと。
「……じゃあ、蜜のジュースが飲みたい、です」
「わかった。約束だね。待ってるから、帰っておいで」
「――はい!」
彼女は自分を蔑むのを止めた。
自分の正体がわかったからでは、ない。確かに彼女の正体は美しい。今や誰もがそれを認めてくれる。
しかし、彼女が自分を好きになれたのは、自分が妖精だったからではない。
彼女を――自分を初めて認めてくれた人達の為に、彼女は自分を低く見るのを止めたのだ。
彼女は今日も花のように笑う。
シルクの髪を靡かせて、七色の羽を輝かせながら。