獣人少女を救った話
「…………」
「フーッ……!」
――思い切り噛み付かれてしまった左手。鋭く尖っていた歯が容赦なく突き刺さり、決して浅くは無い怪我を負ってしまった。
目の前には、敵意を剥き出しにして此方を睨み付ける少女の姿。ボロボロの衣服にぎらついた瞳。尾を逆立たせて警戒を露にするその姿は、しかし足腰が立たないのか酷く脆く見えた。
「言葉もろくに覚えてないようだしな……まぁ、最初から信じてもらおうなんて思ってないさ」
流れ出してきた血を舐める。慣れた味だ。
とりあえず自分の怪我はどうでもいいとして、優先すべきは彼女の怪我をどうにかしなければならない。
獣人である彼女の体力は、普通の人よりも優れてはいる。しかし、それにも限界はあるだろう。ぼろ切れに隠された身体は痩せ細っており、青アザや傷を差し引いても健康的とは言い難い。
「さて……とにかくその邪魔なものだけでも外させてくれな」
先程からじゃらじゃらと音を立てている足枷の鎖。その先についていたであろう重りの鉄球はここに来るまでに排除されている。しかし、後ろ手にされた手錠と首輪はそのままでは何かと問題がある。
今度は噛み付かれても怯まんぞ、と近付くと、それ以上近付くなとばかりに唸られる。間違いなくこちらに危害を加えるであろう敵意に苦笑しながら、更に近付いて。
「ガァウ!」
「ぐっ」
殺意バリバリの噛み付きが、首筋に襲い掛かる。
直ぐ様用意していた鍵を首輪に挿し込み外し、彼女が食らい付いている間に、しゃがみこんで足枷も外しにかかる。律儀に噛み付いたままついてくる彼女の牙は、徐々に危険な域に食い込んできた。
「最後にっ――」
長引かせると冗談抜きで自分が死ぬ。
その一心で彼女の背中に腕を回す。無理やり腕を掴んで、手探りで手錠の鍵を挿し込み、こちらも外す。
いきなり自分の両腕が自由になったことに驚いたのか、噛みつく力が緩むのを感じた、瞬間に頭を掴んで引き剥がした。血が吹き出すことはない。どうやら致命的なものには至らなかった様子。
「飯持ってくるから大人しくなっ」
そして即座にエスケープ。去り際に見た彼女の顔は、呆気に取られているようだった。
「今日のご飯だぞー」
無事に彼女の枷を外して早数日。流石に初日は此方の出す食事を食べてはくれなかったものの、目の前で口にしたり敵意が無いことを身体で示したりしていると、ようやく食べてくれるようになってきた。おかげで日に日に身体は包帯まみれになっていったが、取り敢えずはもう増えることは無いだろう。
オートミールなのでさほど旨くはないだろうが、長らくまともなものを食べていないであろうことを考えるといきなり固形物は具合が悪い。取り敢えずこれで一週間程は我慢して貰う。
「あーあー、口汚して……」
一応スプーンは用意してあるが、使い方がわからないのか完全に犬食いである。まぁ、狼の獣人のようなのである種間違ってはいないと思うのだが。見た目は少女に大きな尾と耳が付いているだけなので直接はほんの少し見目が悪い。まぁそんなのは追々でいいのだが。
とにかく完食するまで見届ける。その後は……自分の怪我の心配でもしておこうか。包帯でも替えることにする。
更に数日経ったある日。いつものように口元をべったべたにしてオートミールを完食した彼女だったが、その後の様子が少し違うことに気付く。
何やらその尾をパタリ、パタリと動かしながら此方をじぃっと見つめてきていたのだ。いつもなら、その服で口元を乱雑に拭いた後に、出ていけとばかりに唸られてしまうのだが。
もしやと思い、いつもその口を拭いてやりたいと思ってポケットに忍ばせていたハンカチを取り出す。恐る恐る近付いて、その口元に手を伸ばした。
「……ふむ」
逃げる様子もなく、警戒する様子も無い。
ゆっくりと口を拭いてやると、目を細めてされるがままになってくれている。どうやら、多少の身体接触ぐらいは許してくれるようになったようである。
そうなると、またやることが増えてくれる。お次は彼女の身体を少しずつでも綺麗にしてやらなければならない。
「少し待っててくれよ」
口を拭き終わり、部屋を後にする。
洗面器にお湯をくみ、タオルを何枚か。大人しくしてくれればいいのだが。
「…………」
「大丈夫だ。汚いままは嫌だろ」
部屋に戻る。ひとまず手を取るが、特に抵抗はされない。先に濡らして絞っておいたタオルで、掌から拭いていく。そのまま肩までくまなく拭いて、反対の手に。
両腕を拭き終わったところで、次は足へと。
同じように太股の辺りまで拭いてから、さて次はどうしたものか、とタオルを洗いながら考えていると。
「…………」
何をしてくれているのかわかったのだろう。彼女は自分から、身に付けていたぼろ切れを脱ぎ始めた。その下には何も身に付けてはいない。完全に生まれたままの姿になった彼女は、無言でこちらのタオルを握る手を掴み、それを自分の身体に押し付ける。
拭け、ということなのだろう。
許可が取れたなら何も心配することはない。少女の裸を前にして何も思わない訳ではないが、こうして少しでも接触を許してくれた彼女の信頼にこたえる為に、やれることを少しでもやっていかなくては。
「うん。いい感じ」
「…………?」
身体を綺麗にした後に、今まで抵抗を受けながらも最低限で済ましてきた傷の処置をしっかりと施し、そしてぼろ切れからかわいらしいワンピースへと装いを変えた彼女は、不思議そうに自分の身体を確かめていた。勿論、尻尾の面も考慮した獣人用のデザインである。
くるくる回る彼女のどこか幼く見える振るまいに微笑ましいものを感じながら、次は伸ばしっぱなしになっている髪の毛や耳、尾のメンテナンスに手をつけていこうと思う。
部屋にある椅子へと彼女を座らせて、大きな布を身体に被せる。何をされるのか不安そうな顔をする彼女ではあったが、取り敢えずされるがままになることに決めたらしい。実際、少しずつ身体にも力が戻ってきているようで、本気で抵抗されたら最早押し留めることも叶わないだろう。助かる。
「怖くないぞ」
柔らかな耳と共に頭を撫でてから、櫛をかけつつ毛量を減らしていく。ハサミと言えど刃物である。刃が擦れる音が聴こえる度に身体を震わせる彼女を落ち着かせながら、焦らないように、彼女が余裕を持てるように、ゆっくりと進めていく。
腰まで伸びているが、元々の髪質が良さそうだ。これからしっかり栄養を取っていけば、きっとフワフワな……毛並み? と言って良いのだろうか。まぁ、きっと彼女の魅力のひとつとなるだろう。
む……耳の根本に毛玉が。髪の毛と耳の毛は少し質が違う。こういう時は、毛玉を少し揉んでやって、スリッカーブラシで処置していく。
「髪はこんなものかな……? 次は耳の掃除……は、今晩にでも風呂に入ってくれたら一緒にやるとして。尻尾か。触らせてくれ……もふっ」
顎に手を当てて考えていると、漏れた声通りもふっと顔に尻尾がぶつけられた。こっちもやれ、という事だろうか。仰せのままに。
こちらは各種ブラッシングの道具を用いていく。毛が長いのもあるが、やはり長い間ほったらかしにされていたせいか毛玉が出来放題だ。これは長期戦である。地肌を痛めないように。
「……うん?」
しばらく真剣にやっていると、ふと背中を向けていた彼女が船を漕いでいることに気付いた。目の前で眠ってしまうことはこれが初めてだ。どうこう言っても、やはりまだまだ気は張っていたのだろう。
こうして無防備な姿を見せてくれるまでになってくれたのか、もしくは限界がきてしまったのか。前者なら嬉しいのだが……。
(こんなものかな)
ひとまず満足いくまでやったあとに、起こさない程度にそよ風で散髪後の後始末を済ませていく。髪に当てながら切った髪を散らし、床に落ちた髪を袋に風で集めていく並列作業。微妙に器用な魔術行使である。
恙無く作業を終えて、身体を覆っていた布を取ってから、少し考えて抱き上げた。
彼女が今までいた部屋はひどく質素な部屋……というか、ぶっちゃけ物置である。ここに連れてきた時にここに逃げ込まれ、それ以来動いてくれなかったので仕方なしに片付け仮の部屋として使っていたのだが。もう部屋を移動していいだろう。もういい加減きちんとしたベッドで眠ってもらいたい。
「信用してくれなくても構わないが……」
自分のことだけ考えてくれていいので、早く元気になって欲しいものである。
「今日からはちゃんとした飯だぞー」
「!」
部屋に食事を持っていくと、ベッドで膝を抱えていた彼女の耳がピンと反応するのが見えた。オートミール生活もいい加減止めていいだろう。今回からはちゃんとした食事を用意してみた。
朝食なので、麦パンにベーコンと目玉焼きというメニューだが、昼と晩にはしっかりした肉を出す予定である。
「……?」
「あぁ、それはジャムってやつだ。パンにつけて食べるんだ。こうして」
彼女が瓶入りのイチゴジャムを持ち上げてしげしげと見つめているので、渡して貰って蓋を開ける。刃を潰したナイフで切り分けてある麦パンに塗り、はいと彼女に手渡そうとして。
「……そういえば、使い方も教えなきゃならないな」
そのまま俺の手からパクリと食べた彼女に、フォークもナイフも使えないんだったなと思い出す。スプーンは辛うじて使うようになったが……。
「ん、なん……」
「……あ」
「意外と甘えたがりなのか? まぁ、いいけど」
たしたしと手を叩かれ、何かと見ると目を輝かせながら
口を開けている。どうやらジャムがお気に召した様子である。自家製なのでちょっと誇らしい。
取り敢えず、今回は手ずから彼女に食事を取らせてあげることにした。彼女がここに来てから一ヶ月。どうやら大分気を許してくれたようで嬉しいものである。
「うおっ」
「…………」
野暮用で日中に家を留守にしていた為に、暗くなってから帰宅することになった。
そして玄関を開けたその先に、膝を抱えて座っている彼女の姿。微妙に尻尾を振ってくれているのは気のせいだろうか。が、此方を確認するとすっくと立ち上がって部屋へと帰っていった。ちょくちょく振り返りながらの帰還だったが、もしかして追い掛けてきて欲しいのだろうか。
「……まぁ、取り敢えず着替えよう」
色々汚れてしまったし、先ずは着替えである。これで構いにいって嫌われたら今までの努力が無駄になってしまう。こういうのはちょっと離れるくらいの距離感でちょうどいいのだ、多分。
「なんてこと考えてたんだけどなー」
着替え終わり、ひとまず疲れを取ろうと座椅子に背を預けて座り込み、お気に入りの本を手にして読書タイムに入っていたところ。唐突に扉が開いたかと思えば、そこに立っていたのは当然ながら彼女の姿。何かを言う前にスタスタ此方に近づいてきて、今の状況に至る。
いや本当にどうしたのだろうか。
「…………」
「いきなりどうしたんだ、なんて言ってもわかんないだろうしな」
「……ことば、わかる」
「えっ」
――衝撃の事実。
そういえば、こっちが勝手にそう思い込んでいただけであって、彼女が喋れないなんて誰かが言ったわけでもないのだった。
しかしまぁ、それならコミュニケーションが取れる。
「で、どうかしたの?」
「……なんでも、ない」
「そ、そう?」
そのわりにはやたらと距離が近いというか、まるで犬に寄り添われるかのように、座る膝元に寄り添われている。今までに無いことだったので、少し動揺しています。
別にこれといってやることも無いので全然構わないのだが……いや、深く考えることもないか。彼女がこれでいいのなら、それでいいのだから。
「もう少しでご飯にしようか」
「……ん」
頭に手を乗せると、へにゃりとその耳がへたれてしまう。それがどうしようもなく可愛くて、頬が緩むのを抑えきれないのだった。
「朝。起きる」
「ん……」
「早く起きる。お腹減った」
ゆさゆさと身体を揺さぶられる。もう少し寝ていたいので無反応という抵抗をしていると、
「……なら、わたしも寝る」
そんな呟きと共に、ぐいっと毛布ごと腕を開かれる。やや強い勢いで胸に飛び込んできた彼女は、むふーっと息を吐いて寝息をたてはじめた。
随分信頼してくれたものだ。彼女が家にきて、三ヶ月目の朝である。
すっかり身体も健康になり、心も開いてくれて、すっかりなついてくれて。ついでに俺の怪我も痕が残ったものの治ってくれた。
そろそろ、最後の段階に進んでもいい頃だろう。今日の昼にでも話を切り出してみよう。どの道を選ぶかは彼女次第である。
「……独り立ち?」
「君も随分元気になった。俺の仕事はね、奴隷だった亜人の子供を引き取って、いずれは社会復帰させること。君のようにね」
やや怪しい手付きでフォークを使いながら食事を取っていた彼女が、俺の言葉に首を傾げる。次いで、徐々に険しい顔になっていった。構わず続ける。
「この仕事は始めたばかりでね。君が初めての」
「やだ」
「やだって……」
乱雑に切られた肉を豪快に口に入れた彼女は、聞く価値もないと耳を伏せて食事を続けてしまう。
「君だって、自由になったんだ。外に出て好きに生きるのが」
「今でも自由」
「いやでも」
「今、わたしは怒っていい」
ごくり、とこちらまで聴こえるほどに喉を鳴らして肉をのみこんだ彼女は、やや乱雑に手のナイフとフォークを机に置いた。そして立ち上がり、対面に座る此方へ歩み寄り、
「わかってない」
「うっ!?」
一瞬胸ぐらを掴まれ持ち上げられたかと思うと、地面に落とされて息が漏れる。
何をするのか、と文句を言う前に、彼女が上に覆い被さってきた。
「わかって、ない」
「……?」
「捕まって、独りぼっちで、ひどいことされて」
口数が少なく、感情の抑揚が少ない彼女の声が、小さく震えている。
「助けてくれても、信じられなくて。怪我させても、喋らなくても、ずっと優しくしてくれて」
「……それ、は」
「仕事でも!」
ばっと身体を起こし、強い目付きで彼女は睨み付けて。しかしすぐに強く目をつぶって、ボロボロと涙が溢れ落ちてくる。
「わたしは嬉しかった! 帰るとこなんて他に無い! わたしが信じられるのは、貴方しかいない……!」
ここに来てから、彼女は初めて涙を見せた。つまり、今の話が、今までで一番ショックだったということだ。
それにひどく申し訳なくなって、顔を手で覆って肩を震わせる彼女を抱き寄せる。
「言葉足らずだったね。何も、出ていけと言っている訳じゃないんだ。ここに残りたいのなら、それだっていいんだよ」
「足りなすぎるぅ……! あやまれぇ……!」
「ごめんごめん」
どんどん胸を叩いてくる彼女に謝りながら、くしゃくしゃと頭を撫でてやる。すっかり毛並みの良くなった尻尾が元気よく振られていた。
「仕事、続ける?」
「厳密に言うとボランティアなんだけどね。もちろん続ける」
翌日、自分の部屋でいつものように読書をしていると、下の方から声が飛んでくる。こちらも、いつもと同じと言えるくらいには、膝元にすり寄るその姿が馴染んでしまった。
「わたしみたいな亜人を、また?」
「そうだよ」
「じゃあ、わたし、それ手伝う」
「手伝う?」
本を閉じ、膝に顎を乗せていた彼女をみやる。彼女は幾分じとっとした目付きでこちらを見上げていた。
「いきなり連れてきても、最初は信じてもらえない。わたしが良い例」
「そりゃあそうだろう」
「ちょっとでも力があれば、襲ってくることもある。危ない」
下ろしていた左手を掴まれて、ペロリと舐められる。かつて彼女に思い切り噛み付かれた箇所は、しっかりと痕として残っていた。
「だから、わたしが手伝う。亜人同士なら、警戒も薄くなる。きっと」
「それは、有難い話だけど」
「わたしみたいのばっかりじゃない。正直、わたしはチョロかったと自負してる」
「えっと」
「事実」
ぐい、と肩に手をかけて、今度は頬被りをしてくる彼女。ひんやりした肌が心地好いが、ここまでボディタッチが激しいとこちらが照れる。どうやら、何かと振り切れてしまったようだ。
「気にしない。これは、わたしがやりたいこと。貴方がくれた自由を、貴方の為に使う」
「……卑怯な言い方だなぁ」
意識してやった訳ではないだろうが、こちらの言葉尻を取られてしまっては断ることも敵わない。
それに実際、同じ立場だった彼女の視点は、この仕事をする上で大きな力になってくれるだろう。
「力を貸してくれるかい?」
「良かった。それ以外の言葉だったら、噛み付いてるところ。こんな感じに」
「結局噛むんじゃないか」
「ふぉれわあまはみ」
――かつて冒険者として名を馳せた青年が、かつて奴隷だった獣人少女と暮らしていく物語。
これは、そんな二人の出逢いの話。