第七話 静まる宿
部屋内が冷たい空気で覆われる。余韻を残したユニの声は、マナシィにしっかりと届き、彼女は驚きで目を丸くした。
「……そう。そうなのね」
マナシィは何かを思い出したかのように、ユニは悲しげに、互いに目を合わせなかった。
「とりあえず、座ってユニ君」
こく、と微かに頷いてユニは席に着いた。心の中でまだ色々な思いが渦巻いている。初めて醒者だという人に会って、興奮してしまったのかもしれない。彼女にとっては、あまり良くない事に決まっている。
「……すみません」
ユニは気まずさと申し訳なさで沈んだ声を絞り出す。マナシィの顔は、見る事が出来ない。
「良いのよ。私こそ、何も知らないくせにごめんなさいね。……でも、教えれない」
今までと変わらぬ口調で、彼女は淡々と述べた。断られる事には慣れてはいるが、さすがに今回はきつかった。
「私は、ね」と聞こえた気がしたが、空耳だろう。ユニは一度深呼吸をし、何度も目の開閉をした。落ち着け、ユニトレイア。いきなり話した俺が悪いんだ。
——よし。
「悪い、いきなりこんな事言って!いやぁ、デリケートな事に触れるのは良くなかった!うん!」
たはは、と情けない笑顔でユニは頭を掻いたが、静まる部屋に虚しく響くだけだった。マナシィは顔を上げず、一層申し訳ないという気持ちが膨らむ。
「その、すみませ」
「ユニ君!!」
「は、はい?!」
マナシィは先程のユニと同じように突然立ち上がり、窓の外を指差した。ユニは相手のいきなり過ぎる行動に心臓が縮んだような気がして、気を抜いていた肩をビクッと揺らす。何か、と言いながら指先の窓へ視線を遣る。
良い感じに日が昇っていた。空を見ていなかったから気づかなかったが、今日は雲一つない青空で鳥の鳴き声が心地良い天気だった。
まるで、今の俺と真逆な天気——。
「もう昼時よ、お腹が空いたわ」
マナシィは何事もなかったかのように座り、足を組む。もしかしたら、ユニが作り出してしまった重い空気を変えようとしてくれたのかもしれない。
「あっ、ああ!そうだな、ごめん!ちょっと行ってくる!」
時計を見ると、短い針が真上より右に傾いている事を知った。慌てて椅子から立ち上がり、扉に手を掛けた。
「あのさ、また、また来ても良いか?次は……マナシィの仕事について教えてくれよ!俺も宿について話すからさ!」
振り向きながら早口で言う。マナシィはきょとんとするも、すぐに相好を崩した。
「ええ、良いわよ。またいらっしゃい、ユニ君」
誰かに似た笑顔に、ユニも精一杯の笑顔を返し、部屋を飛び出した。
*
そういえば、荷物について触れなかったな、と厨房へ足を運んでから思った。あの荷物に、何が入っていたのだろうか。
ボーッと考えながら、入り口に背を向けている長身女性に声を掛ける。
「母さん」
「……あら、ユニちゃん?」
キュッ、と古びた音を立てて蛇口の水が堰き止められ、ユニの母は振り返った。
「母さんじゃなくって、お袋で良いのよ?お父さんの事は親父って、呼んでるじゃない」
そう言う黒髪にこげ茶の目をした母は、ユニと全く似ていない。似ていると言えば、少しだけ吊り上がった目元だろうか。いつだったか、デリカシーのないユニは気になって「義母ですか。」と聞いた記憶がある。その時は驚かれたが、今はあまり気にしないようにしているのは母の優しさからかもしれない。
「お袋はババくさくて何か嫌って言ってるじゃん」
「んもう……まぁ、良いわ。お昼でしょ?ちょっと待ってね」
調理師のユニの母はタオルで手を拭き、忙しく右へ左へ動く。ユニは汚れた壁に身体を預け、それを目で追った。手伝おうか、と言うと母はいつも「料理しか出来ないから、ユニは何もしなくて良いのよ」と頭を撫でてくる為、出来る限り手を出さないようにしている。
あせあせと動く母から目を逸らし、ユニはロビーの方へ目を遣った。昨日より客の数は増えたはずなのに、全然騒がしくなく、本当に静かだ。
「そう言えばさあ」
「はあい?」
「大量の冒険者さん、帰ってきた?」
炊飯器でご飯を盛っていたユニの母は、動きを止め驚愕といった表情になった。
「気にしてなかったわ……ちょっとユニ、お父さんに聞いてきて」
「ええー、マジ?」
昼飯、無駄になるんじゃねえの。
「お昼ご飯、無駄になったらどうしましょう」
ユニが考えた事と同等の言葉を口にすると、ユニの母は困った風に杓文字を持っていた手を放した。
「じゃあ、聞いてくるわ」
よっこらせ、とユニは後ろに掛けていた体重を前へと移動させ、すぐに受付の父親の場所に行く。
父親は新聞を読んでいて、とても暇そうであった。そういえば、マナシィと話していた時、物音一つ廊下からは聞こえなかったような。
「親父」
「ん、おお。どうしたユニ?」
見慣れない眼鏡を外して父親はちらりとユニをを見る。
「まだお客さんって、一人も帰ってきてない?」
「ああ、そうだな」
玄関口を一瞥し、新聞へとすぐに視線を移した父親は興味なさそうに、もうユニを見なかった。
「はあ、今日も昼飯は不要なのか」
時折、ここの客イコール冒険者達は朝昼夜と帰って来ない事がある。昨日は偶々昼に居なくて、偶々今日も居ないというだけの二日連続の出来事である。いつもなら母親にユニが知らせるが、今日は知らせ忘れてしまった。
親父が伝えれば良いのによ——肩を落とし、なんだかユニが母に申し訳なくなった。どんよりとした空気を纏い、ユニは味噌汁の火を止める母親に姿を見せて
「母さん。今日も昼飯無し」
「いやだあ、もう」
と、二人一緒に落ち込んだ。
「ま、とりあえず二階を確認してくる」
「じゃあ、私はアリゼちゃんに朝ご飯食べ終わったか聞いてくるわ」
えっ、とユニは言ったつもりだったが、声は出なかった。
「アリゼ帰ってきてんの?」
「?ええ。部屋で休んでるわよ」
いつの間に。ユニは話の抜け駆けをしたことに、若干の罪悪感を抱いて唸る。
「どうせ二階だし、俺が聞いてくるよ」
母は用意した主食と副菜に手際よくラップを施し、出したお盆やお皿を片付けながら頷いた。
「じゃあ、お願いするわね!」
そう言って、蛇口を捻り、また洗い物を始めた。ユニは洗い物が多過ぎるのでは、と言いそうになった。
「おう」
*
階段の上り降りをするのは何回目だろう、今日はまだ昼食も運んでいないのに足が疲れた。ユニはまず手前の部屋からノックをしていくが、どこの部屋からも返事がない。
「っはあー、皆で行ったのかよ」
流れ作業のように、次はマナシィのいる部屋をノックしようとしてユニは直前で手を止めた。
「——、——」
マナシィは一人のはずなのに、声が聞こえる。まるで誰かと話しているような口調だ。駄目だ駄目だ、と思いつつも、醒者の彼女の事だ、気になって仕方がない。軽い気持ちでそっと扉に耳を立てた。
「——。ええ、そうよ」
「……来れそう?近くに——でしょ?」
「——?……彼ね。ええ——かしら」
何の事か分からない。それに一部分だけしか聞き取れず、話題さえ掴めない。
「だから手遅れ、——、……よ」
今は何かに集中しているようだった、故にユニはマナシィの部屋を後回しにしようとした。扉から耳を離した時、
「アルベルトじゃないわ、シアトルって名前よ」
と、確かにそう聞こえた。その部分だけはっきりと、マナシィは『あの人』の名を口にした。
——シアトル?
「ええ。ええ……絶対よ」
ユニは、心底後悔する。この会話に聞く耳を立てるべきじゃなかったと。
「彼が、死んでしまうのは」
※誤字修正しました。