第三話 偽名と疑い
「なあ、アリゼ?」
「おーい。大丈夫か、アリゼー」
アリゼはユニ達が階段を登り見えなくなるまでの間、ずっと棒立ちになっていた。だから宿屋の主人が自分の名を呼んだ事にすぐには気が付かなかった。
「あ、うん。大丈夫!ごめんね、おじさん」
「おうよ」ユニより薄い紫色の目で、主人は優しい笑みを浮かべ、カウンターから木で作られた簡易な籠と金貨数枚を取り出した。
「ま、話が気になる事も分かるさ。それより、今日分の果物を買ってきてもらっても良いか?」
「勿論、『あの人』の話はそれが終わった後でも聞けるから。任せてください!」
そうだ、彼からの話は後でも良い。アリゼは宿屋の主人が持っている籠と金貨を手に取り、持ち手に腕を通した。ユニに何かを言われた旅人達が下りてこない事が気掛かりだが、まずは頼まれた仕事をこなそう。
「いってきます」
誰にも聞こえない小さな声で呟き、アリゼは外へと駆け出した。
*
「では、ごゆっくりどうぞ」
ユニの丁寧なお辞儀の後、扉が閉められた。
ベットが二つ窓際に並べられ、中央には三つの椅子と大きなテーブル。午前中にだけ日が当たるこの部屋にはマナシィと、『あの人』の二人だけ。マナシィはローブを脱ぎ、くるくるとそれを手で絡めてから椅子に腰掛けた。冒険者、と彼らに呼ばれていた相手も椅子に座る。
さっき気になった事がある。受付で、あのアメジストリー家の主人との会話。足を組んで彼を見遣り、マナシィは理由が分かっていながらも問うた。
「……ねえ、どうして彼らには名乗らないの?宿を取る時の『アルベルト』って、偽名じゃない」
「だって、本名を使うのは危ないだろう?それに、君なら分かるはずだ。君は例の少年にも偽名を与えた。自分の名前が嫌いとかじゃなくね。それにだよ、今の世の中はとても危ないんだよ。偽名なんて溢れる程居るじゃあないか」
「分かってる。分かってるけどね、彼らは貴方の事を知らないから、別に良いと思うのよ。それに、ご子息達に名前を呼ばせてないのは何故?」
マナシィは途中で彼の話を止めるように、少し大きな声で答える。彼の顔が曇った。
「いつか僕の名前を聞いた時、驚いてしまうだろう?だから、今は冒険者という呼び方で十分さ。彼らもそれで納得している。名前で呼んでもらっていないのは、僕が自分の名前を嫌いだと言っているからさ。アリゼには、名乗ってさえいない」
目前の冒険者は軽い笑みを零す。「貴方は怖がりなのね」マナシィは独り言のように言ってから、荷物をローブと一緒にベットの上へ投げた。
「そうだね。僕は臆病で怖がりで自分一人じゃなにも出来ない人間さ」
「そ、そこまで言ってないわよ。」
「分かってる。」マナシィと同じように言って彼は立ち上がった。そして扉に歩み寄る。えっ、とマナシィの声が漏れた。
「また出るの?彼らに『醒石』について話すって言ったじゃない」
「君が止めたのに、話して良いのかな?」
……ぐうの音も出ない。それはそれ、これはこれだと言いたいが、邪魔をした事に否定は出来ない。マナシィが言葉に詰まると、彼は赤い目を細めた。
「まあ、良いさ。すぐに戻るよ、彼らのどちらかが来たらさ、言っておいて。本当に『石』について知りたいなら。まずは僕の故郷へ、って。君ならもう分かってるはずさ」
マナシィは目を丸くする。彼の故郷は、おそらくあそこなのだろうが、彼の故郷を教えると頼まれたのは、何度か一緒に旅をした中で初めてである。
「ちょっと、縁起でもない」
冒険者は何も言わずに出ていった。本当に縁起でもない。マナシィは不安に思いつつも、ベットに投げた荷物の整理を始めた。
*
ユニは『醒石』について教えてもらえるという事で、気持ちが昂ぶりながらも自然と部屋に案内が出来た事に安心した。
そうか、やっと、あの石の秘密が分かるのか。段飛ばしで階段を下り、受付にいる父親へ『あの人』達を部屋に案内したと伝える。
「お疲れ、ユニ。今度は朝食を運んでくれないか」
「任せてくれよ、親父。……アリゼは食材を?」
「まあな、あいつは可愛いから、ロゼッタさんがオマケしてくれるんだよなあ、だから少し得をする」
「はあ、何やってんだよ、ロゼッタさん。」
ロゼッタは、この村唯一の食べ物屋だ。肉や魚、野菜や果物も全部揃っている店で、こちらの宿屋以上に儲かっていると思う。
どこで取ってきたか分からない食べ物だが、村に誰かが来ただけで警戒し、無害と分かるまで近寄らないような人だから大丈夫だと、ユニ以外も思っているはずだ。しかし仲の良い人にはとても馴れ馴れしく、鬱陶しいという事でも定評がある。
「ま、良いや。時間が迫ってるからもう運ぶな」
ユニはくるりと向いていた方と逆の方、つまり厨房へと足を進める。そこで、主人が呼び止めた。
「ユニ」
「ん?」
主人はいつも以上な真面目な顔をしている。ユニは足を止め、父親の口から出る次の言葉を待った。
「『あの人』の話を、あまり信じるな」
何故?ユニは眉を寄せる。
「……何で」
「何でだ、とか言うなよ。これは父親である俺からの頼み事、とでも思ってくれ。絶対とは言わない、ただ、少し気を付けるだけで良い」
じゃあ別に言わなくても、とユニは反論しようと思ったが、やめた。彼は理解している。自分の父親は、意味のない事を言わないと。
「……分かった。親父が言うんだ。一応、全ての言葉を呑み込む事はしない」
『醒石』の事以外は、な。
主人の反応を見ないでユニは厨房へと止めていた足を動かした。そうだ、『醒石』の事だけは知りたい。脳裏を、幼い頃の記憶に居る少女の姿が過ぎる。
——俺は、知るんだ。『醒石』の秘密を。
とりあえず、俺は仕事を終わらせないと。ユニは自然と駆け足になった。
書き忘れ失礼しました。
二月十九日〜三月十日まで更新不定期です。