テスト前線。(2)
テスト初日を終えた土曜日。次の月曜日に迫る三教科のテストに備えて、C子は部室を訪れていた。
珍しく晴れた日の光が窓から差し込み、春の涼しさを完全に溶かしていく。
古い扇風機の稼働音が響く中、C子は扉を開く人物を見た。
「さて、勉強会を始めたいところだけど……」
C子の視界に写っていたのは、能天気に笑うタケルと、もう一人。大きなマスクで口元を隠す、背の高い男子生徒が立っている。
何度か廊下ですれ違いはしたが、直接的な面識はないため、C子は訝しそうに尋ねる。
「タケル、その人は誰?」
視線で指し示すと、タケルも同じように男子生徒を見る。そして、問いの意味を理解したらしく、大袈裟に声を張り上げた。
「【異文化言語同好会】部員の神山透君に決まってるでしょ! どうして知らないの!?」
「アンタが一向に連れて来ないからな決まってるでしょっ!」
当たり前のように言われ、C子も同じように声を上げて憤慨する。
部員名簿を見たことはあった。しかし、そこに書いてあったのは、名前だけで、顔までは分かるはずもない。
納得のいかない形での出会いに、C子は不機嫌そうに眉を歪めていると、トオルと紹介された男子生徒は、外見の怪しさとは相反し、丁寧な態度で挨拶を始める。
「初めまして神山です。お噂は、タケルから飽きるほど聞かされています」
単調な言葉遣いは機械的で、表情も、と言っても目付きだけしか見えないのだが、あまり変化をさせない。そんな態度であろうとも、他の二人よりはマシだと感じ、C子は胸を撫で下ろした。
そして、気持ちを切り替えて、いつも通りに返す。
「勝手に他人の話をしないで、と伝えてください」
「C子さんに僕は見えないの?」
タケルは目を丸くして尋ねた。
単に無視しているだけなのだが、応えるのも面倒に思い、C子は視線すら合わせようとしない。トオルも同じなのか、気にする気配もなく、慣れた様子で会話を続けた。
「名前は、何とお呼びすれば宜しいでしょうか? 」
「苗字で呼んで。本名もアダ名も嫌いだから」
「分かりました。それなら……」
そこでようやく、トオルはタケルを見た。
一人だけアダ名で呼ぶ姿が奇妙に写ったのだろう。C子は嫌悪感を顔に出しながら、説明しようと口を開くが、先にタケルが、満面の笑みを浮かべて言った。
「ああ、僕は特別だから許されてるんだよ」
能天気な声が、周囲の音すらも沈ませる。静かになった室内では、外気の風と、扇風機のモーター音だけが強く響いた。
C子は苛立ちを抑えながら、トオルに向かって言う。
「特別なバカだから見逃しているのよ」
「理解しました」
「酷い希少価値だね」
能天気なタケルの笑顔は、どこか楽しそうに、作り物の如く固定されていた。
そろそろ机に戻ろうかとC子が考えていると、タケルは視線をずらし、彼女の背後で、小さく動き続ける影を見つける。
「まあ、僕はC子さんの負担を減らすために、トオルを呼んだんだわけだけど、どうして須藤さんを呼んだの?」
突然名前を出され、困惑しながら顔を上げるマリナの代わりに、C子が冷たい口調で説明する。
「仕方ないでしょ。この子、すこぶる頭が悪いのよ?」
「ちょっ、橘……!」
遠慮の無い一言に、マリナは手をバタつかせてみせるが、その発言に対しての否定は無い。数秒の間、言葉に迷うマリナだったが、次に自身の指を触りながら言い訳を重ねた。
「だ、だって、家の事とか、色々あって勉強の時間が取れなかったんだもん」
「別に理由は聞いてないわ。ただし、私の邪魔をしないで」
さながら、虫でも見るような視線を送るC子に対して、不休で解かせた問題集の山の隙まで、マリナは小さな身体を震わせていた。
そんなマリナに、タケルは優しい声色で言う。
「大丈夫だよ、須藤さん。あれは照れ隠しで、頑張れって言う意味だから」
「タケル君……」
涙を溜めた瞳で、祈るようにタケルを見つめるマリナだったが、C子は眼鏡のレンズを拭きながら、吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「私は足手まといにならないように言っただけよ? どれだけ好意的な解釈をしてるのよ」
「わぁ、せっかくのフォローが粉々だぁ」
「頼んでないから散りなさい」
そう言って、C子は普段から部室で使っている机に向かって歩き出す。
「時間も勿体無いし、さっさと始め――――」
その時、どこからか軽快なクラシックの音楽が聞こえてくる。音楽系の部活は当然、活動していないため、C子が首を傾げていると、タケルはおもむろにポケットを探り始めた。
タケルが取り出した、青い携帯端末を操作すると、音楽は水を打ったように静まり返る。
「ごめん、ちょっと父親から電話が来たみたい」
「一応、校内の通話は――――」
溜め息混じりに、C子が口を開くのと同時にどこからか、今度は演歌が聴こえてくる。C子は机の上に置いた鞄のポケットから、赤い色の携帯端末を取り出して、それを耳に当てた。
「はい、もしもし。買い物? 分かったわ。それじゃ……」
ピッ、と切られた端末を、その場に居た全員が凝視する中、C子はタケルの目を見て言った。
「校内の通話は、校則で禁じられているのよ。気をつけなさい」
「どうして、そんなに平然と続けられるの?」
タケルの呆れたような声が聞こえる。
C子は自分の行いを恥じる様子もなく、少し考え込むような仕草を見せると、何かを思い付いたように顔を上げた。
「さっきの電話、もしかしたら大切な話かも知れないし、早くかけ直して来なさい」
「えっ……。まあ、C子さんが、言うなら、そうするよ」
どこか誤魔化しの入った命令に、タケルは躊躇いながらも同意する。珍しく周囲の視線を気にして、タケルは端末を片手に廊下へと出ていった。
騒がしい人物が居なくなったせいか、緊張の糸が解れ、C子は小さく溜め息を吐く。机の椅子に腰を掛けると、同じように、壁際の椅子に腰を掛けたトオルが口を開いた。
「タケル、珍しく嬉しそうですね」
C子はその発言に違和感を覚えるが、あまり気に留めず、無遠慮に淡々と、校内での姿を思い出しながら返した。
「いつも馬鹿みたいに元気じゃない」
「前はもっと、つまらなそうに生きてました」
昔からの付き合いなのか、どこか遠くを見るように、トオルは告げる。いつも楽しそうに笑うタケルが、つまらなそうに、静かに生きる姿は想像出来ない。
トオルの証言に、マリナも問題集から顔を上げて同調した。
「確かに最初、タケル様はクールな方だったわね」
「アンタはさっさと勉強を続けなさい」
「は、はい……」
まだ半分も終わっていないため黙らせたが、しかし、自分の知らないタケルが居ることは真実であるようで、それを使えば、静かな日常を取り戻せるのではないかと、C子の頭の隅には、そんな思考が過った。
トオルは口元を隠すマスクを動かしながら、世間話でもするように、懐かしみながら、過去を語り出す。
「入学したときは、勉強も普通でした」
「ああ、疑問が一つ消えたわ」
この学校は私立の進学校で、お嬢様でも無ければ、基本的には試験を受けなければ入学は出来ない。だから、タケルも真っ当に勉強したのだろうという予想をC子はしていた。
二回ほど頷いてから、C子は言葉の裏にある意味に気づく。
「あれ? 私のせい!?」
自分に会ってから勉強をしなくなったのではないだろうか、そう思ってC子が声を漏らしていると、丁度そのとき、電話を終えたタケルが扉の前に、驚いた様子で立っていた。
「どうしたの? C子さん」
「な、何でもないわよ!」
タケルのために狼狽えた。そんな言葉を吐いたら、後から面倒なくらい喜ばれてしまう。
他の二人にも視線で注意するが、意識しているのはC子だけのようで、全く目が合わない。顔が赤くなるのを隠しながら、C子は思考を紛らわせるようにタケルに問うた。
「それで、電話はどうだったの?」
「いや、良い成績を取れっていうのを、長々と言われたよ」
いつもと少し違うような気がしたが、どこが違うのか、答えを出すことは出来なかった。そのためか、C子は冗談でも言うように、思ってもない台詞を口にする。
「良いお父さんね」
「そんなことない」
咄嗟に、聞いたことの無い語気で言われ、C子は言葉に詰まった。動揺が伝播したのか、あるいは内面を見透かされたのか、タケルは怯えたような目でC子を見てから、慰めるように、優しい笑みを作る。
「……あ、何でもないよ。早く始めるんだよね?」
「そう、ね」
まるで嘘だったかのような、いや、嘘をつかれ続けているような感覚が心臓をつつき、季節外れの寒気が肌に触れた。
痛みのような、久々に感じた罪悪感を忘れ去るように、わざとらしく、普段通りにC子はタケルに尋ねる。
「それで、貸しておいた問題集は持ってきた?」
「徹夜で終わらせたよ!」
ぎこちなく、狂った歯車のように、微妙に噛み合わない。
「アンタ、何しに来たのよ……」
遠回りでもするように、力なく音を鳴らした。
もはや一時の投稿なのかなと思わせてしまいますね。遅れて申し訳ありません!
タケル君の家庭は……。