テスト前線。(1)
ある時期を境に、学校中が慌ただしく動き出す。入学式と、進学校特有の短い夏休みの、ちょうど中間にあるその行事は、"多く"の学生にとっては、嬉しいものではなかった。
騒然としていた教室は静まり返り、しつこく睨みを利かせていたグループも、苦悶の表情を浮かべて、自主的にサボっていた勉強を進めている。
そんな教室の片隅で、独り、いつものように過ごしている人物がいた。いつものように、ホームルームが終わり、部室へと向かうことを待ち望んでいる人物がいた。
そこに、一人の女子生徒が近づいてくる。染めた頬を隠すように、丁寧に飾られたノートで口元を隠し、照れたふりをしながら口を開いた。
「山本君、あの……さ、勉強会があるんだけど、来てくれる?」
「勉強会?」
何のことか分からないというように、タケルは愛想笑いで返した。クラスの女子達が、遠巻きに様子を伺う中、彼女は少し戸惑いながらも笑顔で説明を続ける。
「ほら、明日はテストじゃない? せっかく部活も休みだし、皆で一緒に勉強した方が捗ると思うの」
タケルはそこで、ようやく腑に落ちた。
ここ最近、一週間前から【異文化言語同好会】の出入りが悪いのだ。須藤と呼ばれる女子生徒も欠かさず顔を出していたのに、今は二つ隣のクラスでしか見ることはない。もう一人の男子部員も、誘っては見るが断られてしまった。
好都合ではあるのだが、疑問に思っていた。そうか、明日はテストなのかと、タケルはホームルームの終わった教室で、自分の鞄を手に取った。
「今日は止めておくよ。足手まといになっちゃうからね」
「え……」
驚く少女の横を通り抜け、タケルは足早にその場を去っていく。彼女の名前はなんだったかと、気にすることさえも忘れている。
◆◇◆
いつも聞こえていた部活動の声も、談笑する生徒達の足音も、忘れられてしまったかのように、全て静まり消え去った校舎の隅の一室で、他の部活とは異なり、何もしない自堕落な活動を続ける【異文化言語同好会】では、二人の、高校生らしい会話が聞こえてくる。
革張りのソファーに体を沈めて、あまり見せない神妙な面持ちでタケルは、古びた机に向かって、先程から黙って勉強を続けるC子に向かって言う。
「C子さん、明日はテストなんだってね。僕、実は全然勉強してないんだよ」
「知ってる」
当たり前のことだとでも言うような、脊髄反射の如き反応に、タケルはどこか納得できない様子で、もう一度、確かめるような口調で言葉を重ねる。
「本当に勉強してないんだよ? なんで誰も、日程を教えてくれなかったんだろうね」
本当に分からないようで、タケルは腕を組んで首を傾げていると、顔も見ずにC子が言った。
「担任の先生が、通告でもしてたからじゃないの?」
面倒くさそうに、問題集にペンを走らせながらC子が尋ねると、タケルは視線を上げて、能天気に明るい声を出した。
「ああ、そのときか。僕は寝てたから聞いてなかったよ」
「そうね。忘れていたわ」
ヘラヘラと、ふざけたような普段の行動を見ていれば、そんな姿を想像することは難しくなかった。そして、C子は回答に区切りがついたペンを止めると、呆れた様子で、桃色の小さな唇を歪め、懐疑の意を示す。
「大体、私が熱心に勉強しているんだから、少しは気付いても良かったんじゃないの?」
そう尋ねられたタケルは、苦く笑みを浮かべたまま表情を固めた。背もたれから体を離し、前傾姿勢に直してから、改まった様子で疑問を口にした。
「でも、C子さん、四月の初めから勉強してなかったっけ?」
「当たり前じゃない。大学受験まで、あと三年よ?」
「逆転の発想だね」
確かに間違っては居ないのだが、青春の全てを捨てる女子高生は珍しい。そう思いながらも、理由を知っているタケルは口にせず、笑みを浮かべたまま、空いた間を保つために言葉を紡ぐ。
「でも、赤点取ると、放課後まで補修しなくちゃいけないから、C子さんに会えなくなるかもしれないよ。寂しいなぁ」
その言葉にC子が反応して、問題集の文字列を追っていた目を初めてタケルに向けた。眼鏡の奥にある二つの目は、いつになく優しく微笑む。
「あら、じゃあ勉強しなくても良いのよ?」
「……C子さんの正直なところ、僕は好きだよ」
久々に見た笑顔を、タケルは内心複雑な想いになりながらも、喜んで受け入れることで妥協した。
C子は手に持っていた、赤いシャーペンを教鞭のようにタケルに向けて、溜め息混じりに尋ねる。
「そもそも、日々の授業を聞いて、予習復習をしていれば、平均点は余裕じゃない。今まで、何してたのよ?」
「寝て、食べて、遊んでたに決まってるじゃないか!」
「自業自得じゃないのよっ!!」
理解しきれないことを目の当たりにして、C子は興奮した頭の熱を冷ますように、額に手を当てた。
そして、もう一度深い溜め息を吐いてから、タケルの顔を睨む。
「はぁ……。仕方ないわね、一夜漬けは嫌いだけど、分からないところは教えてあげるわ」
「ありがとう! C子さん!」
どこか嬉しそうな反応に、C子は不快そうに顔をしかめるが、タケルは気にせずに教科書を取り出し、そして、表紙を上に向けてから、一瞬止まってC子を見た。
「えと、テスト範囲教えてくれる?」
満面の笑みが憎たらしく、C子はそっと、手前に置いた自分の問題へと視線を下ろした。
「もう、諦めなさい。無駄だから」
「もう少し可能性を感じてほしい」
無理難題である。C子はペンを動かしながら、適当に、大雑把な思考でタケルの会話に応えた。
「今の発言が全てを物語っているのよ。時間の無駄」
「C子さん、僕はこれでも昔から"やれば出来る子"って言われてきたんだよ?」
「それ、"出来ない子"にしか言われないから」
眼鏡のレンズに、黒く並べられた文字の波を写しながら、問題を読みといていく。C子は慣れ親しんだ、そんな行動を取りながら、世間話としてタケルに言った。
「勉強が出来ないと、就職とか大変よ。今のうちに、ある程度の知識を身に付けておかないと苦労するわ。次から頑張りなさい」
「まあ、そうだね。それに赤点取ったら、次の日から部活自体が停止するから、頑張らないと」
そんなことになったら、周りにも迷惑が掛かるから、今のうちに勉強をしなくてはいけない。部活が停止したら、おそらくは部室の鍵も使えなくなるため、自宅以外での勉強は難しく……――――。
「はぁっ!?」
タケルによる予想外の発言に、C子は驚いて立ち上がる。そして、タケルに詰め寄るように、自分の座っていた机の横に立つ。
「どういうことよ。そんなの、校則に書いてないわよっ!?」
「C子さん? さりげなく、カッターナイフに手を置くのはやめようね。会話に変な圧力が生まれるから」
いつの間にか出ていたカッターナイフを筆箱に戻すと、タケルは掻いてもない汗を拭ってから、困った笑みを浮かべてC子に説明を始めた。
「先生に言われたんだよ。赤点を取った部活は、一週間活動停止だって」
学校には、生徒に懲戒を科す権利があることを思い出す。校則には無くとも、その能力は存在するため、C子は少しの間、難しい顔で考え込むと、ひとつの結論に至った。
「つまり、アンタを追い出せば良いのよね?」
「C子さん、僕が部長だって忘れてるよね?」
手詰まりである。
C子は頭を抱えて踞り、低い唸り声を上げる。時計の針がやたら緊迫した音を鳴らす中、何かを諦めたような、どこかで聞いたような声が校舎内で響いた。
「んぅ~……あーもう、分かったわよっ!」
少し涙目になりながら歩み寄り、タケルの鼻先まで顔を近づけると、C子はテーブルに置かれた、新品のように綺麗な教科書に掌を叩きつけた。
少し傾いた眼鏡の奥に、悔しそうに細められた瞳が光っている。
「その代わり、今週の二教科は自力でなんとかしなさいっ! 土日で三教科教えるからっ!」
近い距離で放たれた大きな声に、怯む様子もないタケルは、小さく笑顔を浮かべて口を開く。
「C子さんの好きなお菓子、持ってくるね」
「当然よっ! あと、飲み物は紅茶だからっ!」
怒って赤くなった顔を離し、C子は机の上から文房具を持って、勢いよくタケルの横に座った。
テスト前の部活停止期間ですが、C子さんは学年首席なので部室の鍵を借りられます。タケル君は、テストがあると知らなかったので、毎日部室に来ています。