第2話 部員を見つけましょう。(3)
C子は全力で走り出した。しかし、彼女の身にはすぐに異変が起こった。体は重く、まるで鉛のように、重力が自分の足を床に縫い付ける。
理由は何となく分かっていた。
「運動……不足ね……」
息も絶え絶えに、その場で踞っていると、騒がしい足音を廊下に響かせながら、誰かが駆け寄ってくるのが分かる。
振り返る気力もなく、C子は低い体勢のまま動かずにいると、足音はすぐ後ろで止まった。
「C子さん、どうしたの?」
声の主は、何故かタケルだった。C子は膝をつきながら、ふらふらと揺れる視界で背後を振り向く。
「……ハァハァ……ちょっと、教室から走ったら貧血が……」
「C子さん、教室すぐ隣だよね?」
能天気なタケルの声に腹が立つが、今はそんな場合ではなかった。C子は足を立たせ、窓枠に掴まりながらタケルに言った。
「早く、須藤さんを探さないと」
「須藤さん?」
タケルは誰のことかを、本当に分かっていないらしく、首を傾けて疑問の表情を浮かべている。その様子に、C子は苛立ちを覚えながら説明した。
「……この前の女子よ。金髪で、小さくて」
「ああ、C子さんよりも胸が大きい?」
「何でそんなことだけ、覚えているのよっ……!」
酸素が足りず、声のでないC子はタケルを睨んだ。他に誰も居ない廊下で、タケルは困惑しながら慌てて弁明を口にする。
「C子さんの胸のサイズは好きだよ? 確か、トリプル――――」
「絶交されたいの?」
「……ごめんなさい」
怒りを鎮めることは出来ないと諦めて、タケルはようやく口を閉じた。そして、疲れきった顔のC子に、彼は恐る恐る尋ねた。
「それで、須藤さんをどうしたいの? え、もしかして消すの?」
「造作も無いけど、違うわ」
「造作さえも無いんだね」
苦く微笑みながら、タケルは言う。C子はそれに気づかず、まだ遠い廊下を睨みながら、自分の考えを述べた。
「……あの子に恩を売って、入部させる。私の城に財布が生まれるわ」
「C子さん、せめて人間扱いしてあげて」
タケルの言葉を無視して、C子は再び振り返り、歩き出そうと、右足を廊下のタイルに滑らせた。
「だから、早く見つけないと」
しかし、歩みはすぐに止められた。
「いや、彼女ならすぐそこに居るよ?」
「え……?」
その言葉に驚いて、C子は思わずタケルの顔を見る。少し近すぎる顔は、すぐに窓の方に視線を移す。
「ほら、窓の外。人目に付かない場所で虐められそうになっているよ?」
そう言われて、C子は開いていない窓に身を乗り出して、眼下の光景を確認した。
見るとそこには、マリナの取り巻きである二人が立っていて、金色の髪が、壁に張り付くようにして立っていることを示している。その様子からは、緊迫した空気が見てとれた。
「今にも殴られそうね。殴られる前に止めないと!」
「声を掛ける?」
タケルに言われて、少し考えるが、C子はすぐに首を横に振る。
「インパクトが無い。助けても、また繰り返すわ」
「演出家だね。じゃあ直接?」
それが一番良いのだが、自分の足では追い付かないというのは証明済みだった。
「……無理ね」
C子は、腕を掴んで離さないタケルの顔を見た。
「タケル、アンタが助けに行って」
「僕は嫌だよ、あんまり興味ないし。でも、C子さんがお礼をしてくれるなら考えるよ?」
よく分からない事を言うタケルに、C子は眉を潜める。弱味を見せることに躊躇してから、投げやりに答えた。
「じゃあ、アンタを特別に友達にしてあげる」
「え、今まで友達でもなかったの……?」
小さな唸り声をあげながら、タケルは溜め息を吐く。そして、窓の鍵を外して大きく開いた。
「まあ、良いや。言質を取れたってことで……」
タケルは、いつものように能天気な笑みを浮かべ、そっと窓枠に足をかけて、平然と地面へと落ちていった。
「えっ、ここ三か……い……」
ダァンッと凄まじい音を靴底に響かせて、タケルは少女たちの真横で、ヒーローさながらの着地を見せた。
「イテテ。ちょっと鈍ったかな?」
そんな事を言いながら、タケルは直立の体勢に足を運び、突然の出来事に、少女たちは驚嘆の声をそれぞれにあげている。
「た、タケル様?」
「タケル様がどうして……!?」
"様"付けとは、アイツは王様か何かなのか? C子は怪訝な顔つきで、窓の外に顔を出して、一部始終を観察している。
タケルは笑みを作りながら、取り巻きの少女たちに声を掛けた。
「ねぇ、君達。彼女を虐めるの、止めてあげてよ。じゃないと、君達全員嫌いになるからね?」
「「は、はいぃっ!」」
本当に呆気なく、元気な返事をして、取り巻き達は楽しそうに逃げていった。何もしなくても、何も起こらなかったのかもしれないが、とりあえず、恩は売れたようだ。
C子は残ったもう一人の様子を伺う。
「怪我はない?」
「は、ふぁいぃ……」
惚けた声は、何も考えていない乙女の鳴き声をしていた。
■■■
書類を手に取り、C子は淡々と、壁際の椅子に座るマリナに言う。
「入部おめでとう。須藤さん」
「煩いわね。アタシはタ、タケル君のお願いで入部したのだから……」
マリナは少し照れた様子で、牛革ソファーに体を沈ませる、タケル様に熱い視線を送っている。C子はつまらなそうに、その光景を見てから、三枚の紙切れを扇いで、元給湯室の扉を開けた。
「じゃ、私は入部届けと、同好会の届け出を出してくるわ。足を捻った誰かさんの代わりに」
「ありがとうね、C子さん」
そのお礼を聞き終える前に、C子は扉を閉めて行ってしまう。残された室内には、特に接点の無い二人がいるだけで、意味の無い静寂がやたら大きく響いた。
そして、マリナは両手を擦り合わせながら、唇を動かした。
「……あの、タケル君」
「何かな、えーと、須藤さん」
虫の鳴くような声だったが、マリナの言葉は、静かな室内ではよく聞こえた。
どこか舞い上がっていたマリナは、声を大きくしてタケルに尋ねる。
「どうして橘さんなんかと、いつも話しているのですか?」
その質問に、タケルはただの笑みを浮かべた。それを見たマリナは、許されたのだと思って、言葉を続ける。
「あの人、愛想も悪くて、いつも勉強ばかりしていて、他人をみくだしているような人ですよね?」
「まあ、否定はしないかなぁ……」
頬杖をついて笑うタケルに、マリナはいつになく楽しそうに、大きな声でC子について語った。
「タケル君は騙されているのです。あんな酷い人とは、あまり話さ――――」
ガァァンッ!!
マリナの顔の横で、そんな音が響いた。驚いて視線を送ると、顔を霞め、長ズボンを履いた左足がコンクリートの壁を蹴りつけている。
顔を上げると、いつの間に立ち上がったのか、タケルが立っていて、片足立ちのまま、マリナの鼻先まで顔を近づける。
「あのさ、少し黙ってくれると、助かるんだけど?」
「へ……あの……」
「C子さんは、君程度も助けるような優しい人だけど、僕は別にそうじゃないんだよ?」
浮かべた笑みの中、目だけは冷たくマリナを見ている。怪我をしている足は、床から微動だにせず、その状態を保っていた。
息すらも凍らせるような空気の中、タケルは優しい声で、マリナに命令した。
「二度と、C子さんを侮辱しないでよね? 僕との約束だよ」
「え、あ、は……い」
ガラリと音を立てて、扉が再び開かれる。仕事を終えたC子は、疲れ切った表情を浮かべて戻ってきていた。
「提出してきたわよ……って、なにやってんの?」
二人の状態を見て、C子は不愉快そうにそう言うと、タケルは足を下ろしてフラフラとソファーまで戻る。
「んー……壁ドンってやつだよ。C子さんもやってみる?」
「嫌よ。あと壁ドンって、傲慢で、独占欲と外見にしか取り柄の無い男が、手でやるもんでしょ」
「C子さん、トラウマでもあるの?」
楽しそうに笑うタケルに、C子は疑念の籠った視線を送る。しかし、すぐに諦めて鞄を手に取ると、タケルの前に手を差しのべた。
「さ、帰るわよ。肩、貸してあげるから早くしなさい」
タケルは驚いた様子で目を見開き、そして、その手を引っ張り過ぎないように掴んだ。
足を引き摺りながら、二人が扉の外まで出ると、タケルはもう一人の部員に向かって微笑んだ。
「須藤さん、悪いけど鍵をお願いね?」
「……は、はい」
「あと、今のは他言したらダメだよ?」
「はいっ!」
二人だけの秘密と言えば、耳障りの良い契約は、マリナの心に深く刻まれる。
本当に静かになった室内で、マリナは一人、胸を撫で下ろした。
「か……」
吊り橋効果というものがある。
「格好いい」
これはその一例だろう。
吊り橋効果とは、心拍数の上昇を恋愛による効果と錯覚するもの。
皆さんも、好きな人を崖の上に、熱心に呼び出してみると良いかもです。とても怖いですから。