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勤勉ですね。

 最近、中学の頃から訳あって、一緒に過ごすことの多かった悪友が、ただ今一人の女子生徒に執心しているらしい。しかし、それだけならば、別にどうと言うことは無く、ただの他人事で済むはずなのだが、それについての相談を何故か俺に相談してくるのであった。


 そして、今日もまた、いつものように机を挟んでの会話が始まるのである。


「ねえ、トオル。どうしたらC子さん、振り向いてくれるかなぁ?」


 問題児にして、変なところで気の弱い親友は、昨日の授業内容を復習しているトオルに尋ねた。トオルは口元のマスクをモゴモゴと動かしながら、手を止めずに答える。


「知らない。いつもみたく、愛想笑いと口説き文句でも言っておけばいいんじゃないか?」

「そんなのでC子さんは落とせないよ」


 皮肉を込めて言ったはずなのに、タケルは気にせずに、悔しそうにそう返す。まだ長く、彼よりも熱心に観察していたわけではないが、そこまで反応を示さない物なのだろうか。

 疑問を覚えるトオルの心を見抜いたように、タケルは手近を通り過ぎようとする女子の手を掴んだ。

「確かに、他の女子だと……――」


 そう言いなが立ち上がり、女子生徒の身体を引き寄せるように、手を優しく引く。外見的には完璧とも思える顔立ちを鼻先まで近づけて、驚きで目を見開き、何も出来ずに硬直する女子生徒に向かって、タケルは微笑んで見せた。


「えーと、前原さんだっけ? 今日も可愛いね」

「ふぇあ、あ、は、はいっ! タケル君はいつも格好いいです!」


 顔を真っ赤に、突然の出来事にお世辞でしか返せない少女を野生に返すと、タケルは再び席に座り、トオルの顔を見た。


「こんな感じだけど」

「ただの一例でクラスメイトを口説くなよ」


 件の女子生徒はと言うと、普段あまり目立たない分、恥ずかしそうに机の上で顔を伏せ、熱量を減らそうと努力していた。

 そんな様子も気にならないのか、タケルは話を続ける。


「でも、C子さんだと冷たい眼で『は?』って言われるだけなんだよねぇ」


 確かに想像できるのだが、そんな人間と上手くやって行こうと考える頭が分からない。


「そんな女子を、好きになるお前の感性が分からない」

「結構、可愛いところもあるんだよ?」


 タケルは自身に満ちた、楽しげな笑みを浮かべてそう言った。トオルは自分の知らない一面でもあるのかと、小さな期待で、視線をタケルの方へと向ける。


「この前なんて、道端で荷物を抱えたお婆さんに『頑張れば寿命が延びる』って言ってあげていたんだ。格好いいよね!」


 果たして、どんな状況であれば、そんな文言が飛び出すと言うのだろうか。予想外ではあるが、トオルは少し残念そうにタケルに尋ねた。


「そこは手伝ってやるところじゃないのか?」

「C子さんの体力だと、家と学校の往復までが限界なんだよ」

「……か弱いな」


 唯一、女子らしい部分とも思えるが、勉強魔の反動と捉えると可愛げのない。

 トオルは再び、昨晩の仕事で出来なかった勉学に励みだすと、タケルは椅子を前にこちら側に引いて距離を詰めてくる。


「そういうトオルだって、色恋沙汰の一度や二度くらいあるでしょ? たまには僕に相談しても良いんだよ?」


 上手くも行って居ない人物に、何を相談することがあるのかと思いながら、トオルは顔を上げずに、自分の人生観を交えて言った。


「そんなもの、俺の人生に要らない。お前らみたいに色恋に時間を使えるような暇も無い」


 そう言い終えたところで、担任の教師が扉を開ける。

スピーカーから鐘の音が聞こえて来るのと同時に、ホームルームが始まった。そこで、タケルはふと気が付いた。


「ん、お前らって?」


 しかし、数分後、尋ねる前に忘れてしまう。




 【異文化言語同好会】部室の扉を開けたタケルは、目の前の変化に愕然とした。


「そんな……嘘……でしょ?」


 両手で口を押さえ、その異様な状況を理解することに全力を尽くす。いつものように、部室内に放置された古い机の上で勉強をしているはずのC子の手元には、なんとも可愛らしい絵柄が表紙を飾る、女子向けの漫画が握られていたのであった。


「C子さんが、少女漫画なんてものを読んでいるっ!?」

「来て早々、うるさいわね!」


 お節介な戸惑いに憤慨するC子も姿を、いつものことかとトオルは見ていると、それに気が付いた彼女は、機械仕掛けのように挨拶の言葉を口にした。


「あら神山くん、こんにちは」

「こんにちは、橘さん。今日も、元気そうで何よりです」


 仕事で使うような、同じく使い古された挨拶を通るが述べると、少し間を置いてからタケルがC子に疑問の声を挙げた。


「……え、僕には無いの?」


 そう言うと、少女漫画を速読しながら、C子は相変わらずの冷淡に返す。


「アンタは昼休みにも会ったでしょ。何度も挨拶するなんて馬鹿みたいじゃない」

「C子さんが最近、僕に挨拶したことなんて在ったっけ?」


 C子は考え込む動作を長々とし始めると、タケルは根負けしてしまったらしく、しばらくしてから、何処か悲しげに少女漫画を指差して話を切り替えた。


「まあ、それは別にいいけど、今日はどうしたの? そういうのには興味が無いと思っていたけど」


 トオルも内心で同意するが、表情に出さないようにしながら会話の行く末を見守っている。C子は集まった視線が気怠くなったのか、諦めた様子で小さくため息を吐くと、漫画を顔の位置まで上げて尋ねる。


「この私が、たまには大衆向け文学であるところの、少女漫画というジャンルを読んでいるのが、そんなに不思議なわけ?」

「いつも国語辞典で読書している人が読んでいたら、それは不思議だよね」


 ふと部室内に設置されていた本棚を見ると、件の愛読書らしき、最新版の国語辞典がいつの間にか飾られているのが確認できる。

 しかし、C子は大きく首を横に振って否定の意を表した。


「それは先週までよ。最近は、六法全書」

「C子さん、弁護士にでも成るの?」

「成らなくても一読くらいはするものよ。だって、この国のルールなのだから」


 確かにその通りではあるのだが、読書するような読み物ではない気がする。少なくとも、学校で読書する女子高生は、彼女だけだろう。

 トオルはソファーに座り、鞄から小説を取り出したとき、再び扉が大きく開け放たれた。


「あっ、橘! 勝手に読み進めないでよ!」


 そこに立っていたのはマリナだった。


 トオルはそっと鞄に小説を仕舞うと、C子の元へと向かうマリナの姿を観察する。どうやら一緒に見る約束をしていたらしく、小さな体のマリナは、腹の高さまでしか届かない机に張り付いた文句を呟いていた。

 その様子から、鈍感なタケルも悟ったらしく、C子が熱心に見つめている漫画を指す。


「これ、もしかして須藤さんの?」

「え、ああ、はい。そうです……」


 頬を僅かに紅潮させながら、マリナは何とか受け応えてみせる。ようやく慣れてきた気もするが、あの反応だけは治っていないらしく、偶に暴走することをトオルは知っていた。

 マリナは見惚れていた視線を何とか外すと、C子を怖くない目で睨みつける。


「昨晩遅く、橘が急に少女漫画を貸せってメールが来て、一通り持ってきたのですよ」


 少し不愉快そうに話すマリナの横では、タケルがもっと不愉快そうに笑っている。未だにメールアドレスを知らされていないタケルにとっては、その言葉が自慢にしか聞こえていないようだった。

 苛立ちをなんとか抑えたタケルは、C子の顔を覗き込んで言う。


「それにしても、意外だな。C子さんが、恋に興味を持つなんて」

「あら、私だって恋の一つや二つ、しないわけではないのよ」

「えっ!?」


 タケルは信じられないというような、いつも余裕ぶって浮かべた笑顔が消えかけた表情で、言葉に詰まる。その反応を見たC子は、馬鹿にされたのだとでも思ったのか、呆れた様子で漫画のページに目を向けた。


「冗談よ。昨日、姉がまたフラれて帰って来てから、恋について教えろと煩いの。だから、適当に知識を付けて、それを教えれば満足すると思っただけ」

「C子さん……」


 感慨深そうにタケルが呟く。


「冗談なんて言えたんだ」

「それは何の冗談かしら?」


 冗談ではなさそうな、怒りの色を含んだ声色が聴こえてくる。喧嘩にはならないと考えられたが、空気が悪くなると、二人以外が会話をしなくなってしまうため、やむを得ず、トオルは立ち上がった。


「ですが、少女漫画で勉強なんて出来るものなんですか?」


 机の下に置かれた、マリナの物と思しき、大きなピンク色の鞄から、トオルは有名な一冊を手に取って尋ねた。

 C子は不機嫌そうな顔を、声の聞こえた方向へと回す。


「神山くん、私は別に学術的な知識じゃなくても良いと思っているの。姉を騙して、丸め込めれば、それで良いと思っているわ」

「そう、ですか」


 とても投げやりな回答に、トオルは戸惑いながら引き下がると、その様子を嬉々として見るマリナが腕を組んで偉そうに語り出す。


「それに、トオルは分かっていないわね。少女漫画には恋愛の全てが詰まっているのよ。乙女心を学ぶのに、そこら辺の学者さんよりも正確なはずよ!」


 とても親しげに呼ばれたが、誰も気にした様子も見られなかったため、トオルはその発言を無視する。そして、手に取った一冊を机の上に置くと、何を思ったのか、タケルは大きな声で言った。


「なるほど。つまり、少女漫画の内容を実践すれば、女の子はときめくわけだね」


 どういう理解なのかを問う前に、タケルは鞄から少女漫画を取り出して、その恋愛描写が強く押し出された部分を探しだす。


「じゃあ、早速……」


 そう言って本を閉じると、タケルはC子の後頭部で纏めた髪の束へと手を伸ばす。


「C子さんの髪、綺麗だ――」

「汚い手で触らないで、汚れるでしょ」


 少女漫画から目を離すことも無く、C子は向けられた手を、暴言と共に払い除けた。その瞬間、しばらくの静寂が訪れたかと思えば、次に困惑したタケルが疑問を口にした。


「えと、ああ、C子さん、もしかして男の子?」

「どうしたの、突然? ついに狂いでもしたのかしら」


 眼鏡の奥で光る瞳は、欠片も冗談を言ってはいないことを証明している。

 僅かに表情を落としたタケルの意を察したマリナは、ここぞとばかりに優しく、慰めの言葉を頭の中から際限なく取り出して投げかけた。


「だ、大丈夫ですよ、タケル君! あ、アタシなら絶対ときめきますからっ!」

「うん、ありがとうね」


 伸ばした手は偶然か、マリナの髪に触れる。赤く茹であがったお嬢様を他所に、理解できていないC子にトオルは言った。


「橘さん、タケルは多分、それを実践してみただけですよ」

「……なるほど。でも、髪を触られるのは何だか不快だったわね。嫌いな相手だったからかしら?」

「ノーコメントで」


 それについて語ると、周囲の二人がやたらに怒り出しそうだから、なるべく何も言いたくはないし、今からでも存在を忘れてほしいとさえ思ってしまう。

トオルの紳士的な対応も、人並みの感性がないC子には理解できず、何かを考えついたように、明るい声で提案が向けられるのだった。


「そうね。試しに、神山くんがやってみてくれないかしら」


 向けられた目には、一切の邪心が見られず、ただ真面目そうな女子生徒の顔だけがある。深い意味なんてないのであろう、そんなC子の要望を無下にも出来ず、タケルは背中に感じる不穏な気配を受けて、それでも小さく頷いた。


「畏まりました」


 言葉の終わりに、トオルは腕を伸ばす。黒く長い髪は、息遣いと共に揺れていて、空気感のせいで生じた緊張で無意識に呼吸が止まり、先程まで聞こえていた呼吸音がマスクの中から消え去った。


 後ろ髪に触れる位置に手を侵入させ、迷いながらも、指の裏で髪の毛を撫でるように滑らせた。やはり髪の毛であるのだが、誰かさんは気に入らないようで、手首を力強く掴まれてしまう。


 横を見ると、タケルが立っていて、トオルの手首を掴んで顔だけは優しく笑っていた。


「ねえトオル、ちょっと長すぎやしないかな?」

「お前の腹時計は狂っているのか? まだ二秒だ」


 そんな言葉を口にすると、さらに強く、トオルが痛みを感じるほどに握力を入れられる。


「二秒も、だよ?」


 目には殺意が籠っているのだろうと、平和な国で育ったはずのトオルは感じる。何とか、その手を引きはがしたとき、痛む腕を摩るトオルの隣でC子は顎に手を当てて考えを述べた。


「ふむ、やっぱり不快ね。人間の弱点である頭部の主導権を握らせるというのは、やっぱり人間として警戒してしまうわね」

「そんな学説的に少女漫画を読む人、初めて見たわよ」


 マリナは、冷静な結論でまとめたC子を前に、怪訝な様子でそう言う。

 試された甲斐もない辛辣な反応に、特別興味があるわけでもないトオルも静かに傷ついていたが、幸いなことなのか、誰にも悟られることは無かった。


 複数人で何かをすることが楽しくなったのか、マリナは鞄からお気に入りの一冊を取り出すと、慣れた調子でページをめくり、C子の前に出す。


「それなら、これなんかどうかしら?」


 マリナの選んだ構図というのは、男子生徒が女子生徒を壁際まで追い詰め、顔の横に手を置き逃げ場を限定しているようなものだった。


「壁ドン、というやつですね」


 横で、知識のなさそうなC子に向けてそう言うと、タケルが懐かしそうに声を漏らす。


「それならこの前、須藤さんにやったよね?」

「は、はい……」


 何故かマリナは萎縮して、照れたような、怯えたような顔で体をよじっている。知らない間に何かがあったのだろう、そんな会話が飛び交った。

C子も思い当たったらしく、深い呼吸のあとに、タケルの目を見る。


「壁ドンというのは、確か手でやるものでしょ。足でやる奴はアンタくらいよ」


 かなり特殊な状況を目撃したにも関わらず、とても冷静に語る。

 よく分からないことをされたようだが、恋する乙女というものは、何が何でも美化したがるのか、嬉しそうに過去の味を噛みしめていた。


 C子は受けた提案を検討していたが、すぐに否定する。


「でも、これも同じよね。パーソナルスペースに嫌いな人間を入れるなんて、正気の沙汰じゃないわ」


「C子さん、たぶん相手役に嫌いな人を登用するのは問題があると思う」

 タケルの発言を受けて、C子は閃いた様子で顔を上げる。そして、唇に手を当てて、自分の考えを改め始めた。


「盲点だったわ。男性役は、想い人なのね」

「今まで、何だと思っていたのよ……?」


 平静を取り戻したマリナが呟くと、それに対してC子は真顔で口を動かす。


「学校でそれぞれ、顔、頭、運動、美術に秀でただけの人間達だと思っていたわ」

「お金持ちも居るよねぇー」


 確かにそうなのかもしれないが、そこまで露骨に言われると、少女漫画の闇が見えてきそうで困る。トオルは本の持ち主であるマリナを気に掛けながら、丁寧な口調で話を誘導する。


「それで橘さんは、想い人にこのような行為をされることが、何か特別な感情の芽生えに通じますか?」

「いえ、無いわ」

「左様ですか」


 即答されることは想定済みであり、おそらくはこれで検証は全て終了することだろうとトオルは考える。そんな思考が動いたことを知らないC子達は、漫画を閉じて会話の終わりを語り始めていた。


「それにしても、少女漫画というのは非現実的な設定が異常なくらい多いわね。読んでいて驚いてしまったわ」

「そうだね。宇宙人とか、超能力とか」


 動体視力の成せる業なのか、これまでの時間でタケルは内容を理解していたらしい。そして、何かを思い出したように、満面の笑みでC子に尋ねた。


「あ、同級生がメイドなんて、在りそうじゃない?」

「労働法に引っかかりそうな設定ね」


 僅かに気まずい空気が流れたのかもしれないが、それで止まる親友ではなく、C子さんらしいと笑っている。トオルがその内容に書き記された漫画の表紙に目を向けていると、机の上から漫画が取り除かれ、いつもの勉強道具へと切り替わっていった。


「まあ、少女漫画が如何に現実で使えないか、よく分かったわ」


 トオルは何となく、視線をずらして、逃げるように元居たソファーへと戻って行く。




 トオルは普段、大きな屋敷の中に住んでいる。見上げるように大きな邸宅の中に、数十名規模の使用人が住むための部屋まで用意されているのだから、まさしく漫画のような世界がそこには存在しているのだと、廊下を歩きながら改めて実感することができた。


 黒く肌触りの良い燕尾服を着こなして、長い廊下の突き当たりまで進んで行くと、やたら豪華な扉が目に入る。そして、トオルは慣れた手つきで二回、扉を甲高く叩いた。


「お嬢様、御夕飯の支度が出来ました」

「分かった。すぐに行くわ」


 偉そうに、人形のように可愛らしくも憎らしい少女が、室内のベッドの上から、白い顔をこちらに向けている。床に足を付けて靴を履く彼女の青い瞳が、不快そうに歪んだとき、トオルはマスクの無い、喋りやすい口を開いた。


「ああ、それと」


 水を打ったように静かに、足音さえも止まったことを確認すると、トオルは声色を低くして威圧するように説教を始めた。


「同級生として過ごしている以上は、名前で呼ぶなと何度も仰ったではありませんか。昨日の今日で、もうお忘れなのですか?」


 ウェーブの掛かった金色の髪が揺れ、小さな体に向けてトオルは言った。


「マリナお嬢様」


 その声に身体に緊張を走らせるマリナは、桃色のワンピースの布を握りしめる。


「う、うっかりしていただけよ!」


 立場を忘れて狼狽えるマリナに、トオルはさらに厳しい言葉を並べた。


「うっかりで、こんな生活が発覚したら、面倒なことになるだけです」

「そんなことが無いように、違う教室に在籍していたりするのでしょ? 大丈夫よ。名前くらいで分かるわけないわ」


 私立高校であるから、それくらいの権力を行使することは容易だと、彼女の父親は言っていた。自立を促すことと、一使用人に過ぎないトオルが普通の学校生活を送るための配慮である。


 そんな意味を知っているにも関わらず、未だに威張り散らすマリナに、トオルは優しい声色で呟く。


「お嬢様、少々目を瞑って下さい」

「え、ええ。分かったわ」


 何の疑いもなく閉ざされた目の前を、トオルは音を立てずに移動する。そして、マリナの前まで迫ると、顔に触れるため、手を伸ばした。


「痛いッ!」


 マリナは涙を眼に溜めて尻もちをつく。トルはデコピンをした指を撫でながら、冷たい視線を上から贈る。


「侮ると痛い目を見ると、少しは学んでください」

「それで主人たるアタシに攻撃してくるなんて、最低の執事ね! 減給してやるわ!」

「俺はお嬢様のお父上に雇われているので、その権限はありませんし、住み込みなので指し当たっての問題もありません」


 学費まで削がれたところで、労働法上は解雇できないから、ここでの生活が伸びるだけなのである。そこまで考えが及んだことを理解したのか、ただ威圧されてしまっただけなのか、マリナは黙り込んでしまう。


 よほど悔しかったのか、泣きそうな顔で俯いていたから、トオルは膝を付いて屈み、マリナを脇を抱えて立たせた。


「バレたら面倒ですよ。特に、タケルにでもバレた日には、恋愛成就は不可能だと思って下さい。この意味が分かりますか?」


 トオルの文言を聞き終えたマリナは、涙を堪えた視線を上げる。


「あ、明日からは、ちゃんと、するから」

「よろしい」


 マリナの頭を撫でる。


それを最後に、全てを言い終えたトオルは他の仕事のために部屋の扉をくぐる。開け放たれた部屋の中では、マリナが怒りをベッドにぶつけている。


「んぅ~……にゃあっ!」


 クッションを殴る掛け声が、長い廊下を足早に歩くトオルの耳にまで届いた。


「ふう」


 あと数時間ほどの労働の途中で、トオルは足を止めて振り返る。先ほど撫でた手を眺め、まだ残る感触を思い出して、誰に聞かせるでもなく、何となく言ってみた。


「やっている方は、それなりに、だな」


 住み込みのバイトをしているだけの、男子高校生の話。


トオル君視点のお話でした! あまり喋らない彼は、こんなことを考えながら会話に参加しております。

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