橘家の日常
「ぅん……」
朝、いつもの時間を布団の中で寝かせた身体が覚えているようで、決まった流れを経て意識は起き上がる。少しずつ、光を認識し始めた眼を開き、視界に天井を含んだ。
「おはよう、ギャーちゃん」
「おはようぉ」
目の前に居たのは、ただの兄だった。毎日のように家事全般をこなし、専業主夫のように家の中を動くセイヤが、ボサボサの前髪から二つの目を覗かせている。
「……って、何やってのよっ!?」
ようやく明瞭になった思考で、状況を理解したC子は言った。布団の横に座り込むセイヤを押し退けると、寝覚めに見た光景を忘れるように勢いよく立ち上がり、机の上に置いた眼鏡を掛けた。
突然押されて、タンスにもたれるような体勢になったセイヤは、後頭部をぶつけた押さえながら、頬を赤く灯している。
「目覚めのビンタをして貰おうと思って」
「永久に、目覚めなければ良かったのに……」
「もぅ、最高だなぁ~っっ!!」
とてつもなく満足そうに、そんな声を高々と鳴らしていた。不快な言動に深い溜め息を吐いていると、セイヤは思い出したように、畳の上に置かれたお洒落な袋に手を伸ばす。
「ああ、そうそう。ギャーちゃんに似合いそうな下着買ってきたんだけど、どうかな?」
「兄が買ってきた下着を身に付けろと?」
寝起きであることもあり、苛立つC子は眉間に皺を寄せて睨んだ。手渡された下着が確かに、C子の好みには合っているため、尚更腹が立つのである。
いつものように、机の上に袋を置いてから、なるべく冷静であるように尋ねた。
「というか、何で毎回、私の下着を買ってくるよ?」
初めは、単なるプレゼントか何かだと思っていたのだが、頻度が増えてきている。
「だってぇ、女性物の下着を定期的に買いに行くと、ランジェリーショップのお姉さんが軽蔑の眼差しを送ってくれるんだよ?」
「ランジェリーショップの店員さんが不憫ね」
「そう言ってくれると有り難いよっっ!」
何も善くはないのだが、これ以上追及していると時間が無駄に消えると考えて、C子は黙って布団を畳み始める。
押し入れに寝具を入れたところだ、背後に立っていたセイヤが腑抜けた声で言った。
「まあ、どうせ、下着を新調するお金が参考書になるんだから、儲けものでしょ?」
「どうせなら参考書の方を買ってきてくれると助かるのだけれど……」
「本屋さんは女性店員少ないからなぁ」
女性が入れば迷惑を掛けるのか。C子は怪訝な表情を隠しながら、廊下へと繋がる扉の前に立つ。
「私のプライバシーを守るために、鍵でも掛けようかしら……」
そう呟くと、首を傾けてセイヤは言った。
「え、ノックはしたよ?」
「それで守れるプライバシーが無いって言ってるのだけれど?」
扉を開き、廊下を進んでリビングまで進んでいくと、そこにはさらに上の兄が、威厳を演出したいのか、銀縁のメガネを掛けて、新聞を大きく開いて、C子が来るのを待っていた。
そして、C子を一瞥すると、ぎこちない低い声で出迎える。
「おい"ギンガっち"、休みだからっていつまで寝てるんだ」
ちなみに朝の6時である。
そこは真面目に返すのも面倒であるため、C子は必要なことだけを述べた。
「サクラ兄さん、そろそろ愛称を固定して。面倒くさいから」
生まれてからずっとが顔を合わせているのだが、未だに呼び名が決まっていない兄は、口元を隠してゴニョゴニョと独りごちる。
「やっぱり、ギンちゃんの方が良いか。いや、シロガネかな」
「何でも良いけど、人前に出して恥ずかしくないのにして」
同じ変な名前を持つ兄、橘桜桃にC子は言った。そんなチェリーに、セイヤは台所に向かう途中で楽しそうに、まるで音楽でも掛けるように言い残す。
「チェリーちゃん、ギャーちゃんが自室に鍵つけたいんだってぇ~」
「ナニィっ!?」
それまで冷静を気取っていたチェリーは、突然立ち上がり、大きな声をあげながら頭を抱えだす。
「は、反抗期かっ……! いや、引きこもりの前兆か!? 誰だっ!? オレの妹を汚した奴はぁぁァア!!!」
「兄さん、近所迷惑」
「はい……」
C子に指摘されると、水を被った炎のように静まり返る。マンションの住人としての常識は、一応社会人として持っているのであった。
座布団の上に座るチェリーが、C子の取り出した書物を見て、不機嫌そうに尋ねる。
「おい、また勉強してるのか? 良いって、そんなことしなくてもオレが養ってあげるから! 一生面倒みるから!」
「それが嫌だから勉強してるのよ。セイヤ兄さんの方にして」
「オレは妹が好きなんだ。弟は養わん!」
チェリーという兄は、外見的には完璧そうな人間ではあるのだが、重度の家族想いを患っているため、たまに煩くなるのである。
「ボクだって、いつかはちゃんと家を出るから、ギャーちゃんは心配しなくても良いんだよ?」
「今年で7年目だがな?」
チェリーは冷たく言った。セイヤも男の罵声には興味がないようで、真人間のように困惑している。
そして、セイヤは視線を運び、リビングの隅を見た。
「それに今は、心配するならアッチの方にしてあげて」
そう言われてC子も、同じようにそちらを確認すると、外行きの洒落た服装の姉が、苔や茸でも生やしそうなくらいに落ち込んで、ぐったりと寝そべっていた。
こちらの視線に気がついたのか、姉はすっくと起き上がり、酒の臭いを含んだ茶色の髪を揺らして喚く。
「あーもうっ! なんだって、男は見る目ないろよぉ」
悪態をつきながら、涙なのか酒なのか分からない液体で汚れた顔を床に横たえた。
「料理が好きってユうからぁー、高級料理の店で半年も修行して、お弁ろう作ってやったのに、結局わかい子がいーんじゃラいのよぉー」
呂律の回っていない言葉遣いで、長い髪を振り乱しながら、雪子が過去の長すぎる努力を後悔していると、チェリーが無遠慮に尋ねてくる。
「今回で何人目だったっけ?」
「5、いや15人目ね。いつもセツ姉さんは手間を掛けすぎるのよね」
「シーちゃん」
若い女を見つけた目で、セツコはC子の顔を見る。化粧などしなくても、まだ潤いのある肌を見て、悔しそうに顔をしかめた。
「シーちゃんだって、同じニヨイするもん! 絶対、カレヒ出来ないもん!」
そんな根拠のない暴言を聞き、立ち上がるのはチェリーの方だった。
「そんなもん出来て溜まるかっ!! オレの妹は、男を知らずに清く正しい身体のまま死ぬんだよっ!! ふざけてんじゃねぇっ!!」
意味の分からないことを宣うチェリーに、セツコも酔いが回ってフラフラとしながら立ち上がって、子供のような反論を繰り返す。
「うっさいチェリー! チェリーの癖にィっ!」
「おい、どういう意味だ!? いま絶対、別の意味もあっただろっ!」
理解の及ばない争いが行われていると、小さな足音が廊下の方から聞こえてくる。
そして、人形のように可愛らしい顔を覗きこませてながら、隔てる扉が開かれた。
「……姉上? 兄上? どうされましたか?」
心配そうに尋ねるのは、橘家の末っ子である宝珠であった。いつもより早い目覚めに困惑しながら、チェリーは幼い顔に注目している。
「ホウジュ……」
「喧嘩、っで、ございますっ、かぁ……?」
泣きそうな表情を浮かべて、ホウジュは嗚咽で肩をヒクヒクと揺らしている。そんな異変に気がついたチェリーが、目線を下げて、慌てて幼い妹を宥め始める。
「いやいやいやいやっ! ホウジュ落ち着けって。オレ達はいつでも仲良しだから! なっ!?」
嫌がるセツコの肩を無理やり掴み、チェリーはひきつった笑みを作る。セツコは酔いで回りが見えていないのか、ぼんやりと否定の言葉を口にする。
「わラし別にぃ……」
「おい、金払うから協力しろ」
「弟よっ、ダイスキっ!」
単純な、扱いやすい姉に抱きつかれながら、チェリーは安堵する。ホウジュも同じように優しげな笑み浮かべていたが、すぐにセツコを見て首を傾けた。
「うん。……あれ? セツコ姉上は昨日、今日こそは結婚すると仰っていませんでしたか?」
昨晩のこと、セツコは皆の居る前で、7回目の結婚するから帰って来ないと報告をしていたことをホウジュは言っているようで、セツコもそれを思い出したのか、恥ずかしそうに床に崩れていく。
「いや、えと、その……チョットなぁ~……」
「どうして泣いているのでございますか!?」
床に流れる涙をチェリーが拭き、セイヤも醜い姿を見せたくないのか、ホウジュの視線をテーブルへと誘導していく。
「ほーら、ホウジュちゃん。早く朝御飯にしないとねぇ~」
「あ、セイヤ兄上! 承知致しました!」
何故か子供に懐かれる兄は、ホウジュの前に綺麗な黄色いオムライスの皿を置いていく。渡されたスプーンを手に持って、言葉遣いで忘れられる子供らしさをホウジュは見せた。
「今日は、水戸黄門でお願い致します!」
「相変わらず渋いねぇ~。あ、ソォレっ!」
セイヤによって、異様に上手な肖像画を描かれたオムライスに、瞳を輝やかせるホウジュは、名残惜しそうにスプーンを端の方に付けて、ゆっくりと食事を始めた。
小さく切り分けたオムライスを口に入れると、幸せそうな声が漏れだした。
「う~ん、大変美味しゅうございます~」
その横で騒がしい食事に注意をすることも出来ずに、C子も黙々とオムライスを口に運んでいる。砕けたネズミの描かれたオムライスを食べていると、C子の心情を代弁するようにチェリーが呟いた。
「オレにも絵の才能が在れば……」
「チェリー兄上も食べますか?」
「ええっ、良いのっ!?」
とても嬉しいそうに言ってから、すぐに我に返って首を強く横に振った。
「いやダメだ。菌が移ると危ないから。……あと、オレの幸せゲージが満たないから」
さっさと食べ終わった皿の上にスプーンを横たえて、C子は何となしに立ち上がってから口を開く。
「何その気持ち悪いメーター。限界も早いし」
「だから彼女も出来ラいのよぉ。チェリ~」
「うるせぇ、独り身」
「あぁん?」
続けるように言葉が流れだし、楽しい食事とやらが構築されていく様を眺めるC子は、誰にも聞こえないような声量で言った。
「うるさい……」
それを聞いてか、察してかセイヤは、身につけた桃色のエプロンの前に風呂敷包を抱えて、廊下扉の前に立っていた。
「お弁当は作ったから、ギャーちゃんは学校に行っておいで」
その風呂敷の中身は、明らかに普段とは異なり、2倍ほど大きかった。
「……セイヤ兄さん、このお弁当は大きすぎないかしら」
「ギャーちゃんの友達の分も用意したんだ~。皆で仲良く食べるんだよ?」
とても気が使えて、まるで真人間のようである。普段の行いを考えると、何故だか異様に、
「なんか気持ち悪い」
「うぅぅ~ん、いつもお返し有り難ぉぁおう!」
これで十分なのかと、退いたセイヤの横を通り、喧しいリビングから自室へとC子は戻っていく。
◆◇◆
ところも時刻も変わって、いつもの部室の昼時では、タケルが卵焼きを口に含んで苦笑いを浮かべていた。
「C子さん、お兄さんには感謝するけどさ」
タケルは他の二人の部員の様子を確認してから、言葉に迷いながらもC子に尋ねる。
「このお弁当、少し甘すぎないかな?」
「皆で仲良く食べろとのお達しよ」
「絶対、そんな残酷な意味で言ってない……」
米以外、ほとんど砂糖に浸けたような味わいを、なんとか全員で完食するまで、二時間ほど掛かったそうな。
全員集合……。いろいろ疲れました。




