第1話 自己紹介をしましょう。
「ねえ」
黄昏色に染まる教室で少年は、真剣な面持ちで、帰り支度を急ぐ、少女の背中に呼び掛ける。他に誰もいない二人だけの空間は、その声を大袈裟に響かせていた。まるで、若い青春の時間を祝福するかのように、赤く、紅く、夕日が全てを彩っている。
しかし、その声に気がついているのであろう少女は、素っ気なく、黙って自身の黒い学生鞄を片手に、さっさと歩き出してしまった。
「ねえねえ、C子さん」
もう一度、少し大きな声で、少女に付けられたアダ名を呼んでみるが、それでも構う気配すら見せずに、C子という少女は出口を目指す。
照れくさいのか、夕日のせいか、頬を紅く染めた少女に向かって、少年は、さらに大きな声で少女の名前を呼んだ。
「橘銀河子さ――――」
「その名前で呼ばないでって言ってるでしょっ!」
怒りに染めた顔で勢いよく振り返り、黒縁眼鏡越しの瞳を細め、C子は少年を鋭い目付きで睨む。興奮する彼女が呼吸する度に、後ろで纏めた黒髪が揺れていた。
その反応に、少し驚いた様子で仰け反る少年は、すぐに何事もなかったような、優しげな笑みに戻った。
「いい名前じゃん。なんでそんなに嫌がるの?」
「そう言ってるの、アンタだけだからね。皆、私の名前を影で笑っているのよ」
「C子さん……」
悔しそうに歯を食い縛り、暗く沈む床に視線を落とすC子。その姿に、少年は思うところがあるようで、迷いながらも口を開く。
「確かに、裏サイトでも笑われてるけど、ちゃんと学内新聞でも笑われてるよ?」
「逆に、何で隠さないのよっ!?」
影でなければ良いというものではない。そんな意味を含んだ叫びは、廊下まで大きく響いているのだが、理解できる者は、この階には残っていなかった。
興奮している自分に気がついて、C子は冷たい掌を額に当て、冷静であるように努める。そして、一度深く呼吸してから、改めて目の前に立つ少年を見た。
「アンタの名前が羨ましいわ。平凡で目立たないなんて、最高じゃない。ふざけてんの?」
「C子さんの名前ほどじゃないよ」
「うるさいわねっ!」
半分くらい真実であるから、それ以上の反論はなく、C子は拗ねて黙りこんでしまう。その反応に、少し困ったような顔で少年は後頭部を掻いた。
「でも、C子さんが羨むほど、立派な名前じゃないよ?」
それを聞いたC子は、不愉快そうに眉間にシワを寄せる。
「山本武なんて、考えに考え尽くされて、逆に誰も付けないような、ありふれた名前で良いじゃない」
「C子さんは、全国のタケル君に謝るべきだと思うよ」
かなり失礼な発言に、タケルは苦笑いで返す。
「C子さんの意見は分かるけど、ゲームみたいな恋愛イベントが発生したとき、普通の名前だと萎えるんじゃないかな?」
「確かに、アンタ顔だけは良いから、無いことは無いかしらね」
性格に難ありと、学校中の女子に認定されて以来、告白合戦が鎮静化したことを、友達の居ないC子でも知っている。
そして程なく、二人は出会ってしまった。
「『どうしたの、タケルくん。こんなところに呼び出して……』」
タケルが唐突に、裏声で喋りだし、女子を真似たのか、くねくねと気持ち悪い動きをしている。普段から、たまに奇怪な奴ではあるのだが、それにしても気持ち悪い。
C子は鞄を盾に、恐る恐るタケルに問う。
「唐突にどうしたの? 頭でも打ったの?」
「違うよ? ほら、再現した方が分かりやすいかなって」
「それなら初めに言いなさいよ。只でさえ、変なんだから」
C子がそう言っても、タケルは気にすることなく、楽しそうに笑いながら演技を続けた。
「じゃあ、さっきの続きから。コホン……
『どうしたの、タケルくん。こんなところに呼び出して……。』
『実は僕……、ずっと君のことが好きだったんだっ!』
『なんてこと、両思いだったのね!』」
短い寸劇を終えて、タケルがC子の方を見ると、いつの間にか出したのか、ファンシーな袋を開き、中身を摘まんで口に運んでいた。
「……あ、終わった?」
「とりあえず、そのお菓子仕舞ってね。それで、感想は?」
「うーん、別に……? 普通で良いんじゃないの?」
「そう? じゃあ、変わった名前なら」
適当な返事に疑問を覚えながら、タケルは再び、体をくねらせる。
「『どうしたの、がりゃんぬぅす君――――」
「待て待て待て待て」
奇妙な名前の選択に、思わずC子はタケルの腕を掴んで止めに入る。
「どうしたの、C子さん」
「その流れで私の名前呼ばないで、かなりムカつく」
至近距離で見つめれば、甘いマスクに吸い込まれそうになるが、中身は腐敗しているため、C子は冷静で睨むことができた。
「告白が台無しじゃない」
「そう? かなり印象的な場面じゃない?」
「悪い意味でねっ!」
納得がいかないタケルは肩を竦め、腕から手を離し、頬を膨らませるC子に尋ねる。
「じゃあ、C子さんはどんな名前が好みなの?」
「私? ……そうね」
薄い唇に指先を当て、お菓子の袋をクシャリと僅かに歪ませる。
「ジョンとか?」
黄昏時も沈む頃、カラスが自慢げに鳴らす音がよく聞こえる。
いつになく優しく、タケルはC子を見つめた。
「親御さんを責めないであげてね。遺伝子のせいだから」
「ダサいなら、ダサいって言いなさいよっ! 寂しいじゃないっ!」
「僕は好きだよ?」
「なおさら嫌よっ!」
何が不快なのか。理解できないタケルは、片眉を下げる。
その姿を視界に入れてC子は、不本意ながらも、長々と話し込んでしまったことを後悔した。
「あーもうっ! ……それで、何の用なのよ?」
「用?」
首を傾げるタケルに、C子は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「何の用も無く、私に時間を取らせたわけ? 血族もろとも許さないわよ?」
「まさか10分程度でそこまで言われるとはね」
放課後の教室で、誰にも邪魔をされない10分は基調であるから、その発言はC子をさらに不快にさせる。
そして、タケルは思い出したように、口実めいた言い回しで答える。
「まあ、用事はあるよ。別に大したことじゃないけど」
「大したことじゃないなら、さっさと終わらせてくれない?」
諦めの滲んだ言葉に、ようやく感情を悟ったタケルは、申し訳なさそうに目を細めた。
「そうだね。C子さんが副部長だからってだけで、ここまで時間を取らせるのは悪かったね」
「ちょっと待て」
当然のように立ち去ろうとするタケルの腕を、C子はもう一度、爪が食い込むくらい強く掴んだ。
「何か不満……あ、部長が良かった?」
しかし、女子の、さらに文科系であるC子の握力では、タケルが痛がるはずもなく、平然として笑みを浮かべていた。
悔しさの溢れた顔を真っ赤に染めて、C子は尋ねる。
「まず何の部活だ? というか、私は帰宅部に全力を注いでいるつもりだったんだけど?」
「帰宅にそこまでの情熱があるとは知らなかった」
授業以外の残された時間のすべてを勉強に注いでいるC子が、いつになく怒気を込めているため、鈍感なタケルも彼女の視線から目を反らした。
「いや、C子さんが居れば、部活設立しても良いって、先生達が言ってたから」
「私、入部届けも出してないよね?」
「そりゃ、勝手に書いたから」
「そうね、それ以外無いわよね」
溜め息を吐き、冷静さを取り戻そうと試みるC子に、タケルは小さく頭を下げる。
「ごめん。本気で【良い名前同好会】を作りたかったから、つい……」
「その副部長に私がなるわけがないって、解って推薦されたみたいね」
どうやら、キラキラネームが入部するわけがないと、無理難題を突き付けられていたらしい。
両手を合わせ、にこやかにタケルはC子に言う。
「やってくれるよね?」
「嫌に決まっているでしょ。先生の考えを汲み取りなさい」
「成績上位者に言われると耳が痛いや」
早く取り消さなくては。そんなことを考えながら、C子は踵を返す。
「どうしても、やってくれないの?」
「やるわけないでしょ、そんな部活」
「でも、家で勉強出来ないんだよね?」
「…………」
タケルの言葉に、C子は黙って立ち止まる。C子が教室で、図書館の閉まったあとも勉強している理由は、騒がしい家族に邪魔をされないためだ。
そして、教室も図書館も、休みの日などには開いていない。
「部室は給湯室だった場所を貰ったから、お茶も出せるし、お菓子も毎日持ってくるよ?」
「……――――っ!!」
そこまで言われて、C子はお菓子の袋が潰れるくらいに、腕に力を込めて振り返る。
「分かったわよっ! その代わり、名前は変えるからねっ!」
顔を真っ赤にしたのは、照れか、怒りか。されど、沈んだ夕日の影のせいには出来なかった。
【異文化言語同好会】設立。
本来、男女で二人きりなんて、無言で終わるものですよね? なので、これはフィクションです。