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理想の妻

作者: 霧氷 こあ

 博士は憂鬱だった。

 博士は、努力に努力を重ねていくつもの研究を成功に収めた。その結果として、皆に賞賛され人望も厚かった。

 憧れの的である博士は人生のゴールとも言われる結婚を果たす。しかし、その結婚生活は長く続かなかった。

 博士と婚約を交わす相手はみな、博士の人徳につけ込み、その莫大な遺産を狙っていた。博士は何度も詐欺紛いな結婚を経験し、次第に疲弊していった。

 女とは、なぜこんなにも醜いのだろう。同じ人間でありながら、どうして本当の私を愛してくれないのだ。いやしかし、これは逆もありうるのかもしれない。そんな考えが、博士の思考を埋め尽くしていた。

 博士は懊悩(おうのう)し、決心する。ないのなら作ればいい、と。やがて博士は膨大な資産と培ってきた細胞テクノロジーを注ぎ込み、何年もの歳月を経てロボットを作った。

 出来上がったロボット――妻を揺り起こす。

 まるで人間といっても過言ではない命の宿っているかのような動きで、妻は瞼を開けて体を起こす。

「おお……完成した……我が妻よ……」

 博士は感嘆の声を零して妻を抱き寄せた。

「やだ、博士。恥ずかしいわ……」

 こうして博士と妻の結婚生活が幕を開けた。


 結婚生活は上々だった。生活に困らない必要最低限の知識のみをつぎ込んだ叡智(えいち)の結晶は、非の打ち所がないほどよく動いた。

 例えば、博士の苦手である虫。博士は掃除というものが苦手で、部屋はいつも薄汚れた印象を与えていた。現れる虫を殺虫剤で撃退するのも一苦労な博士は、いつも虫が出るたびに驚き、そして困惑していた。

 だが妻は、虫に恐れることなく素早く処理する。それに、博士の部屋までさも当然のように片付けた。

 博士はその一連の行動をみて、言葉に表せないほどの感謝を示した。

「ありがとう、私はなぜこんなにこの部屋に虫が沸くのか疑問でならなかった。存在する価値もない虫たちに飽き飽きしていたんだよ、本当に助かった。ありがとう」

「当然のことをしたまでです、またいつでも頼ってください」

 眩しい笑顔を向ける妻を、博士は心から愛おしいと思った。

 なぜなら今まで、博士が虫におびえている姿をみせようものなら、忌々しい前妻たちは口をそろえてこういっていた。男のくせに虫が怖いだなんて情けない、と。

 だれにだって苦手なものはある。それを男だから、という理由で罵倒するのはあまりにも浅慮だ。夫婦というものはお互い支えあって生きていくものだというのに。

 そう考えた博士は夕方、料理をしてくれる妻に歩み寄る。

「私にも、手伝わせてくれんかね?」

 突然の申し出にも、妻は優しい笑みを浮かべる。博士の思い描いた理想の女性像を象った顔だ。だが博士は、その上っ面だけをみて感動するのではない、笑顔の奥に垣間見える本当の心を感じているからこそなのだ。

「ううむ、魚はどうにもうまく捌けない……」

 博士は科学に重きを置く人間で、それ以外の家事はてんで駄目だった。だが、それを見ても妻は嫌な顔一つしないで博士に向き直る。

「なら、一緒にやりましょう。ゆっくりでいいですから。まずは、ここをこうして……」

 一つの手順をゆっくり、詳しく説明してくれる妻の指示を聞き逃さぬよう集中して、博士は魚を捌いていく。そして時間こそかかったが、無事に完遂することができた。

「おお、すごい! 初めて自分で魚を捌けた!」

「とてもお上手でしたわ、博士。最初なのにこんなに綺麗にできるなんて、器用ですね」

「いやしかし、もの凄く時間がかかってしまった。貴重な時間を割いてしまって申し訳ない」

「何をいっているんですか、博士」

 そういって妻は博士に指を絡める。思わず博士の鼓動が高鳴った。

「博士も昔いっていたでしょう? 止まらずに歩み続けることが、進化する一番の近道だと」

 それは博士が若かりし頃に、彼を讃える人間に向けて言った言葉だった。必要最低限のことしかプログラミングしなかったのだが、自分から進んで色々なものを学習していっていると分かり、博士は驚く。

「うむ、そうだったな。ありがとう、これからも少しずつだが手伝うよ。その時はまた教えてくれるか?」

「ええ、もちろんです」

 博士は満足しながら、ソファーに腰掛ける。そしてしげしげと料理の続きをする妻を見た。

 今まであそこに立っていた前妻たちを思い出し、博士の暖かくなった心が冷えてくる。前妻たちは、博士がなにかを手伝うと、やれ野菜の切り方が下手だとか、煮込み時間が足りないだとかで、愚痴をこぼしてばかりだった。誰にだって得手不得手があるというのに。

 博士が、自分は料理などは苦手だと告げていたにも関わらず、博士自身を全く愛していない前妻たちにとって、とても鬱陶しい行為だったのだろう。

 食事が終わり、博士は自分が妻に甘えすぎていると気付いた。

 今まで、妻はこうあるべきだ、と理想を思い描いていながら、私は理想の旦那になれているのか?

 そう考えた博士は奮い立ち、洗い物を始めようとする妻を遮る。普段滅多に握らないスポンジを握って、皿洗いを始めた。妻はそれをみてまたしても微笑する。

「博士、わたしがやりますよ?」

 博士は頑として首を縦に振らなかった。それは博士が少しでも、妻の負担を減らしたいと思ったからだ。今まで、皿洗いなんかを手伝うと決まってこういわれていた。洗い方が雑すぎる、二度手間になるじゃない、と。そして最後には溜め息を吐かれるのだ。

「これぐらいで、後は水で流せばいいのか?」

 博士は不器用なりに綺麗に皿を洗った。妻は何度も確認をしてくる博士を優しく最後まで見守った。博士はまたしても喜びに包まれ、感無量になる。

「ありがとう、本当にお前は良妻だよ。ああ、今までの女はなんだったのか。もうお前以外の女なんて存在する価値もない。それほど、君を愛しているよ」

「わたしなんてまだまだですよ。でも、嬉しいです。博士……愛してる」

 思いつく限りの愛の言葉を語り合い、博士は寝床へ向かった。今までは必要としていた睡眠薬も、そろそろ使わなくて大丈夫かもしれない。それにしても、私が眠っているあいだ、寝る必要のない妻は何をしているんだろう、と博士は考えながら床に就いた。

 博士は今まで以上に熟睡し、約半日眠りこけた。

 起床した博士は、部屋のテレビを点ける。すでにキッチンからは、妻が朝食を作っているのか美味しそうな香りが漂ってきている。

『一体、何が起こっているんでしょう! これほどの死者が出たのは前代未聞です。この国、いや全世界の女性が奇病で倒れています』

 博士は寝ぼけ眼を何度もこすって双眸を見開く。まだ自分が夢をみているんじゃないか、という衝撃が博士を突き抜ける。

「全世界の女性が死亡……?」

 ようやく覚醒した頭に届いたニュース内容は、未知のウイルスによる死の報道だった。

 博士は長らく連絡をとっていなかった細胞の研究を行っている施設に電話をかける。数回のコール音のあと、誰かが受話器をとった。

「なんだよ! こっちだって忙しいんだ! いちいち電話の相手はしていられない!」

 電話口はとても騒がしく、喧騒までもが伝わってくる。博士は素早く言葉を繋げた。

「待て、私だ。この世間を騒がせているニュースについて訊きたい」

「ああ! 博士でしたか! すいません、それにしてもお久しぶりですね……と今はこんなことを言っている場合じゃなかった。えっと未知のウイルスのことでしょうか?」

 博士は電話越しだが首を縦に振りながら答える。

「そうだ、一体何がどうなっている。本当に女性は死んだっていうのか? 考えられない」

「それが、どうも本当なんです。すでにこのウイルスの殆どを我々は解明しました。恐らく、我々の研究していた細胞に関する事柄を知りえていないと、これを広めるのは無理でしょう。そのせいで、研究所内は疑心暗鬼に満ちています」

 受話器の声は重々しい。我々の研究に精通している人間が犯人なのだろうか、と博士は考えを巡らす。

「そのウイルスは、どんなウイルスだ?」

「ええと、どうも視覚や聴覚など、ありとあらゆる五感に反応し、まず女性の子宮に侵入するようです。そこから、まるで毒のように有害な物質を放ち、数時間もすれば筋肉が活動をとめます、そして心臓も止まるのです」

 あり得ない、と博士は愕然とする。だが、我々が長年研究していた細胞に関する膨大な知識を使えば可能なのかもしれない。だがそれには長い時間が必要だし、性能の良いコンピューターもいるだろう。

「本当に女性がこの世から消えたとしたら、子孫はどうする。体外受精のほうは、問題なく行えるのか?」

 数秒の沈黙のあと、暗い声が返ってくる。

「……無理でしょうね。まだ大気にウイルスがわんさかいます。それに、そもそも女性の子宮に根を張る時点で厄介なんですが、このウイルスは男性にも少なからず影響を与えることが分かりました」

「なぜ、無理なんだ。我々の培ってきた経験と知識を活かせばその程度!」

「これは様々な影響のうちの一部分ですが、男性の生殖器の活動も停止されます。つまり、もう我々は生きながら死んでいるのかもしれません……」

 それに、と言葉を続ける受話器を床へ落とす。博士はこれはまだ夢なんだ、と呟きながらベッドに戻ろうする。

 しかし、キッチンからは朝食を作っている音がする。

 博士は重たい足取りでキッチンへ向かう。そこにはいつも通り、エプロンをつけて朝食を作っている妻がいた。

「おはようございます、博士。もう朝食が出来上がりますよ」

 微笑む妻に猜疑心(さいぎしん)を抱く。妻はロボットだから感染していないのか、それとも――。

「……お前が、殺したのか?」

「はい? すいません、うまく聞き取れませんでした」

「お前が、ウイルスを撒いて……この世の女性を鏖殺(おうさつ)したのか!」

 妻はいつもと変わらない笑顔を向ける。手にもった菜箸は美味しそうなたまご焼きを摘んでいる。

「ええ、そうですよ。博士が存在する価値がないと仰ったからです。虫を駆除したときと大差ありませんよ。それより見てください、今日はいつもよりも上手にたまご焼きが焼けたんです。先におひとついかがですか?」

 はい、あーんといいながら差し伸べられるたまご焼きを博士は腕をなぎ払うことで地面へ叩きつける。初めて、妻の顔が(かげ)った。

「ふざけるな! お前はなんてことをしてくれたんだ!」

「どうしたんですか、博士? 今日は別のものが食べたかったですか? すぐに作り直しますよ、何がいいですか?」

「そういうことを言っているんじゃない、お前がウイルスを撒いて人々を殺したことに対して怒っているんだ!」

 妻は飄々(ひょうひょう)として語る。

「あなたが存在する価値がないと言ったから、駆除したんですよ」

 博士は、考えるのをやめた。傍らにある椅子を持ち上げて、落ちたたまご焼きを拾っている妻に向けて振り払った。

 ごつん、と鈍い音がする。表面こそ皮膚をつけているものの、中身はロボットだからだ。

「やめて、やめてください、博士……痛いです、わたしはあなたの理想の妻なのよ、あなたの願いを叶えたの! 愛してるわ……あなた、愛してるわ」

「うるさい! その汚い口を閉じろ!」

 博士は、なおも愛を語る妻を殴り殺した。

 妻というものは一体なんなのか、博士はもう何も考えたくなかった。それに、もう人類は、新たな命を繋ぐことは叶わない。

 博士は自分の全財産、叡智をつぎ込んだ愛の結晶を粉々にし終えると、キッチンの包丁を力強く握る。

 ひしゃげた機械の残滓(ざんし)が静電気を発し、僅かに形の残っている口であったものが動く。

「愛してるわ。あなた、愛してるわ。あなた、愛して――」

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