怠け病
名倉憲也は地方公務員だ。市民から「税金泥棒!」と罵られれば「まったくその通りです」と頭を下げる。ところが、憲也の場合は三十歳まで複数の小さな会社で働いた経験があるから比較できるが、新卒で公務員になった職員のほとんどが、能力相応の当然の報酬とばかりに驕り高ぶっている。
「税金泥棒」の定義は明確だ。権利を声高に主張する割に義務を怠り、一般市民の労働量に見合う賃金以上の収入を、時にはその労働量の半分以下の労働量でせしめている。分かり易く言えば、ワーキングプアの対極にいるのが公務員だ。
笑止千万な一例として、十年くらい前まで『床屋代』なるものがあって、たしか年に一度、千五百円の現金が支給されていた。組合幹部の説明によれば、本庁勤務者は時間内に本庁舎内にある床屋に行けるのに対し、区役所などの公所には床屋がないから、公平を期すために組合が交渉して『勝ち取った権利』らしい。嗚呼、推して知るべし。
また大きな職場にはヤミ専従もいて、勤務時間内は組合活動を優先にし、自分の本来の職務をこなして定時を過ぎれば超過勤務手当をきっちり請求する。何よりも、年次休暇の二十日を使い切れること自体が人員数に余裕がある証拠で、それはつまり仕事が楽ということでもある。
中には多忙な職場もあって、体を壊したり精神面で破綻する職員も多いが、全体から見ればほんの一部にすぎず、どう考えても税金泥棒としか思えない。
などと偉そうなことを言っても所詮憲也とて同じ穴の狢なのだが、その憲也ですら「辞めちまえ!」と、石を投げたくなる女職員がいる。仮に泥子と名付けよう。
泥子は大学から新卒で憲也の職場に入ってきた。仕事を覚えるのが早く、とびきりの笑顔で誰にでも「おはようございます」「お疲れ様です」と挨拶のできるさわやかな女の子だった。職員の誰もが「今年の新卒はアタリだ」と信じて疑わなかった。
ところが、憲也とは係が違うので後で知ったのだが、二カ月が過ぎようとした頃に急に休んだ。朝になって電話してきて「体調がすぐれない」との理由だった。この時は二日間休んでから出てきた。その一カ月後にまた二日間休み、その翌月は三日間休んだ。
憲也もそのことに気づき、係長にそれとなく聞いてみると、「子どもの頃から病弱で生理も重いらしい」と小声で教えてくれた。なるほど、女性には生理休暇がある。労働基準法第68条で『使用者は、生理日の就業が著しく困難な女性が休暇を請求したときは、その者を生理日に就業させてはならない』と定めている。法律上は休暇中の賃金は支給してもしなくても差し支えないし、最高裁の判例でも『本条は生理休暇が有給であることまでも保障したものではない』としている。しかし、憲也が邪推するに、たぶん、『使用者』たるほとんどの自治体が強力な労働組合を抱えているから、有給休暇を『勝ち取って』いるにちがいない。
泥子は休む。勤務開始時刻二十分前に数秒も違わず電話してくるから、その時刻に電話のベルが鳴ると泥子だ。
彼女はこの七年間で、半年以上の長期療養休暇を五度ほど取っている。しかし辞めない。忘れた頃に出てきて、一週間続いたから今度は大丈夫かと期待しているとぼちぼちと欠勤が増え、そしてまた長期療養休暇に入る。おそらく泥子はトータルすると出勤日数より欠勤日数の方が遙かに上回っていることだろう。泥子の辞書に『同僚に迷惑を掛けるのはロクデナシ』という項目がないのだ。その代わりに『怠け者こそ公務員の鏡』という項目が特記されているにちがいない。
そして泥子は今日、たぶん半年以上ぶりに職場にやって来た。昼休みに弁当を食べていると突然、所長室から所長と泥子が並んで出てきた。とたんに弁当がまずくなった。
何を今さら、と、冷ややかな気持ちで箸を停めずに聞き耳を立てていると、所長が口を開いた。
「食べながらでいいですから聞いて下さい。泥子さんですが、このたび、正確な病名が判明しました。『脳脊髄液減少症』ということです。と言われても御存知でない方が多いと思いますが、今から十年程前に医学会で発表されたばかりの疾患で、まだ国際疾病分類には記載されておらず、現状では保険病名でもないそうです。ここに、主治医が泥子さんのために書いてくれたメモがありますので、読みます」
泥子はうつむいたまま、深々と頭を下げた。
「脳脊髄液減少症の患者の多くは、極めて気の毒な状況に陥っています。頭痛、頸部痛、めまい、倦怠感などが治らず、通院しても『正常です』と言われるだけです。職場でも、また家族からさえ『怠け病』と思われ、理解されずに孤立するケースがあります。実際に治療に携わると、患者の置かれた辛い立場に驚き、困惑することが少なくありません。泥子さんの場合は、大学四年のとき交通事故に遭われ、その際に脳脊髄液が脳脊髄液腔から漏出することで減少していると思われます。泥子さんには、ブラッドパッチ治療(約二十ミリリットルの血液を硬膜外腔へ注入)を計四回行い、改善を図りました。よく、激痛に耐えられました。現在は、検査所見からも、ほぼ正常化したと思います」
* 文芸同人誌「北斗」第577号(平成23年5月号)
*「妻は宇宙人」/ウェブリブログ http://12393912.at.webry.info/




