第二話「ちゃんと言えなかった後悔」
ポケットの中で、指輪に触れた。
癖みたいなものだ。
考えごとをしているとき、信号待ちのあいだ、エレベーターを待つ数秒、気がつくと指先がそこにある。
小さくて、硬くて、冷たい。
もう七年も持っているのに、その感触だけは少しも馴染まない。
出版社の営業フロアは、夕方になると急に騒がしくなる。電話のベル、コピー機の音、誰かの笑い声、急ぎ足で通り過ぎる靴音。
俺はデスクの端に積んだ見本誌を抱え直し、外回りの報告をまとめながら、無意識にコートのポケットへ手を入れていた。
指先に、輪の縁が当たる。
それだけで、喉の奥に薄い鉄の味がした。
七年前の、まだ冷たさが残る春の雨の夜の駅は、いつも同じ順番で戻ってくる。
雨の匂い。
濡れた床。
ホームの白線。
蛍光灯の青白さ。遠くから近づいてくる電車の音。
それから、傘を持って立っていた真昼の、あの疲れた顔。
あの日のことだけは、たぶん一度も忘れたことがない。
「佐垣さん、これ来週の書店回り資料です」
声をかけられて、俺は顔を上げた。
新人の営業がクリアファイルを差し出している。
礼を言って受け取り、机に置く。視線の端に、今月の新刊一覧が映った。
その中に、見慣れた名前がある。
朝倉まひる……
背表紙だけでわかるくらいには、俺は彼女の本を読んできた。
新刊が出るたび、営業先の書店で見つければ買ったし、見つからなければ帰りに大きい店へ寄った。
仕事の延長みたいな顔をして手に取ることもあったし、発売日を避けて買いに行くこともあった。
サイン会には……合わせる顔がない……
イベント会場の近くまで行って、外から看板だけ見て帰ったことなら何度かある。
本当に自分でも馬鹿だと思う。
ーーそんなに真昼が忘れられないのなら、会いに行って、お前の気持ちをもう一度、伝えればいい。そうだ今度こそ会って……
いつもそうやって、心の中で、自問自答していた。
でも、見たいのに、見てしまったら完全に終わる気もしていた。
何が終わるのかは、うまく言えないまま。
ポケットの中の指輪を、俺は一度だけ強く握った。
あの日も、そうだった。
真昼に会う前から、俺はポケットにそれを入れていた。
明確に、結婚しよう、というところまで言葉にできていたわけじゃない。
その指輪を最初に見つけたのは、本屋を運営する会社に就職して、最初の給料が出た頃だった。
真昼とふたりで出かけた先のショーケースの前で、彼女がふっと立ち止まった。
「これ、いいじゃん。可愛いね」
そう言って目を輝かせた顔を、今でも覚えている。
値札を見たときは、正直かなりひるんだ。
それでも、ここで怯むのは違う気がした。
この先も一緒にいたいと思う気持ちに、ようやく手が届くような気がしていたからだ。
「じゃ、これにしよう」
「えっ、マジ、いいの?」
「もちろん!いまは金持ちだからな」
「ありがとう。うれしい」
そうだ、俺は真昼の、この無邪気な笑顔が大好きなのだ。
初任給に、大学からバイトして貯めていた分を合わせて「無理」をしてでも、この指輪を真昼にあげたかった。
まだ何者でもない自分でも、真昼の隣に立ちたいと思った。
そして、この先も一緒にいたいと思っていた。
仕事が忙しいのは知っていたし、連載が始まってから真昼がどれだけ追い込まれていたかもわかっていた。
それでも、だからこそ、形にしたかった。
ーーおまえの人生に、俺もいたい。今も、そしてその先も。
その想いを言うための指輪だった。
二人の名前と、「Forever」という文字を刻んだ指輪を、」店から受け取りに行った俺は、待ち合わせの時間に遅れてしまった。
いつも二人でいた駅は、朝からの雨で、地面が光っていた。
改札の外の屋根を叩く音が絶え間なく続いていて、ホームへ降りる階段には湿った空気がたまっていた。
濡れた床に人の靴跡が伸び、白線の向こうは黒く光っている。蛍光灯はどこか青白くて、時間が少しだけ現実からずれて見えた。
真昼は、柱のそばに立っていた。
薄いコートの肩が少し濡れている。髪の先にも雨粒が残っていた。寝ていないんだろうとわかる顔だった。
化粧で隠しても追いつかない疲れが、目の下に薄く落ちている。
それでも、俺を見つけて小さく笑った。
あのとき、少しだけ安心した。
間に合った、と思ってしまった。
まだ大丈夫だと、勝手に信じた。
間に合った、と思ったんだ。
忙しくても、会いに来てくれた。
ちゃんと話せば大丈夫だと、勝手にそう思った。
「ごめん、待った?」
そう聞いた俺に、真昼は首を振った。
「ううん。今来たとこ」
その言い方が、少しだけ固く感じた。
違和感はあった。
けど、そのときの俺はまだ、自分のポケットにある小さな輪のことを考えていた。
いつ渡そうか、どんなふうに言えば真昼を困らせないか、そんなことばかり考えていた。
電車の近づく音が、レールの向こうから低く響いてきた。
真昼はその音にかき消されないようにするみたいに、少しだけ顔を上げた。
「光太、話があるの」
その一言で、空気が変わった。
俺はたぶん、あの瞬間に気づいていた。
真昼の顔を、ずっと見てきたからだと思う。
これから言われることが、俺の持ってきた未来とは別の方向を向いていることに。
「……うん」
真昼は、一度だけ息を整えた。ひどく慎重な顔だった。
誰かを傷つけるとわかっていて、それでも言わなければならないことを抱えた人間の顔だった。
「私、ちゃんと描きたい」
最初は、意味がわからなかった。
「え?」
「中途半端なまま、何かを持ちたくないの。仕事も、人も。今の私、全部が半端で……たぶん、このままだと、誰のこともちゃんと大事にできない」
真昼は言葉を選んでいた。俺を傷つけない言い方を探しているのがわかった。だからこそ、余計につらかった。
「今は、夢を選びたい」
雨の音が急に大きくなった気がした。
ホームに風が吹き込んで、真昼の髪が揺れる。蛍光灯の青白さのせいで、顔色がいつもより悪く見えた。
「光太を嫌いになったわけじゃない」
そう続けた声が、少しだけ震えていた。
「でも、だからこそ……このまま一緒にいるのは、違うと思う」
意味ならわかった。
わかりたくなかったけど、わかった。
真昼が本気でそう決めていることも、その決意がその場の勢いなんかじゃないことも、顔を見ればわかった。
もし泣いていたら……
もし迷っている顔をしていたら……
俺は何か言えたかもしれない。
いや、違うな。言えたかどうかはわからない。
ただ、少なくとも“言わなかったこと”をここまで引きずらなかったかもしれない。
でもあのときの真昼は、張り詰めていた気がした。
無理をしているのもわかった。限界の上に立っていることもわかった。
そのうえで、なお自分で決めた顔をしていた。
俺は……本当は、言いたかった。
一緒にやればいい、と。
ーー俺が支える。そんなふうに一人で決めるな。
ーー夢を選んでもいい。でもその中に俺がいてもいいはずだと。
ただ、傍にいたかった。
言葉はいくつも喉元まで来たが、でも、ひとつも言えなかった。
それを言うことが、真昼の進む方向に自分をねじ込むことに思えた。必死で立っている人間の足元を、自分の寂しさで揺らすことに思えた。
理解したかった。
ちゃんと、大人でいたかった。
その結果、俺は何も言えなかった。




