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君のいない未来を選んだはずだった。  作者: つくよのかぐら


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第三話 君がいない未来を選んだはずなのに

 雨上がりの駅前は、夜の光を薄く引きのばしていた。

 濡れた舗道の色まで、七年前のあの夜に似て見えた。


 街灯の下だけが白く、濡れたアスファルトには、途切れた電飾と信号の色が揺れている。

 さっきまで耳に入っていたはずの車の走る音も、改札を抜けていく人の足音も、今はどこか遠い。

 冷たい空気のなかで、駅前だけが現実から少し切り離されたみたいに静かだった。


 改札横の柱にもたれて息を整えようとした、そのときだった。


「朝倉さん……?」


 背後から名前を呼ばれて、私は振り向いた。


 光太がいた。


 ほんの少しだけ痩せて、昔より大人びて、それでも目元のやさしさだけは変わっていない。

 私の喉はひどく乾いて、声が出るまで数秒かかった。


「あ……いや、偶然だね」


「そうだね」


 久しぶりの会話は、ひどくぎこちなかった。


 人の気配は多いのに、私たちのあいだだけ妙に静かだった。


「新刊、おめでとう」


 最初にそんなことを言う。


 やっぱり、この人はそうなのだ。


「読んでくれたの?」


「うん。毎回」


 知ってしまったあとで聞くその一言は、ひどく重かった。


 私は笑おうとして、うまくいかなかった。


「彼女、できた?」


 心にもない言葉が、口をついて出た。

 自分でも、こんなことを聞くつもりじゃなかったのに。


 光太は少しだけ驚いた顔をした。


「彼女?」


「……だって、もうお互いいい歳だし」


「いないよ」


 言い切る声は静かだった。


「あれから、誰とも付き合ってない」


「なんでよ」


 そう言った自分の声が、思ったよりやわらかかった。


 光太はすぐには答えなかった。

 昔と同じ、答えを急がない沈黙だった。


「……真昼も?」


 その一言に、息が止まった。


 隠していたものを、うっかり自分から零してしまった気がした。


「真昼が選んだものを、間違いにしたくなかっただけだよ」


 はぐらかされたような気がした。

 でも、その言い方があまりにも光太らしくて、胸の奥がじくりと痛んだ。


「……そうなの」


「言うつもりなかったから」


「なんで?」


「困るだろ」


 泣きそうなのに、泣けないまま笑ってしまった。

 ほんとうに、この人はひどい。ひどいくらいやさしい。


 けれど、そのやさしさの奥に、今夜の光太は、何か別のものを隠している気がした。

 ただ懐かしんでいるだけの顔ではなかった。

 何かを言い残さないために、ここへ来た人の沈黙だった。


 駅前の風が、濡れた舗道の匂いを薄くさらっていく。

 私はコートの袖口を握った。指先が冷えているのに、胸の奥だけが落ち着かない。


 どうして、こんな時間に。

 どうして、こんなふうに、まっすぐ私を見ているの。

 ただの偶然なら、こんな目はしない。


 光太の視線が、一瞬だけ私から外れて、コートのポケットのあたりへ落ちた。


 その小さなしぐさに、理由のわからない息苦しさが胸に広がる。


 ――何かある。


 そう思った瞬間、胸が苦しくなった。


 聞きたいはずなのに、聞くのが怖い。

 もし今ここで、七年前に置いたままの何かを差し出されたら、私はちゃんと立っていられるだろうか。


 光太は何かを言いかけて、やめた。

 そのためらい方まで、昔と同じだった。


「……光太?」


 呼ぶと、彼はすぐには答えなかった。


「どうしたの?」


 そう聞いた自分の声が、思っていたよりずっと弱かった。


 彼はようやく何かを決めたみたいに、小さく息をついた。


「俺、今さらだけど、真昼に会いに行こうとしてた」


「うん」


「遅いかもしれないって思った」


「うん」


「それでも、会いたかった」


 風が吹いて、ホームへ向かうアナウンスが遠くで流れた。

 春の匂いが、かすかに混じっていた。


「何も言えないまま、後悔したくなかった」


 その言葉に、今度こそ涙がこぼれた。


 私もだよ、と言えないまま、喉の奥だけが熱くなる。


 七年分の後悔が一気に押し寄せたわけじゃない。

 たぶん、もっと静かだった。


 白い紙の余白に、ようやく本当に描くべき線が見えたみたいに。

 閉じたページの向こうに、まだ続きがあると知ってしまったみたいに。


 私は泣きながら笑った。


「真昼」


 名前を呼ばれる。


 昔と同じ、低くてやわらかい声だった。

 その変わらなさが、ひどく痛い。


 光太はゆっくり右手を上げた。

 何かを差し出すというより、見せるためだけの仕草だった。

 押しつけるつもりなんて最初からないような、あの人らしい不器用な静けさ。


 開いた手のひらの上に、小さな指輪がのっていた。


 息が止まった。


 細いリングだった。飾り気のない、シンプルな銀色の輪。

 見覚えがあるなんてものじゃない。

 昔、まだ何も失っていなかったころ、ふたりで笑いながら選んだものだった。

 おそろいなんて照れくさいねと言いながら、それでも結局、手放したくなくて買った。


 あの頃の私たちが、そこにいた。


「……まだ」


 声がかすれる。


「まだ、持ってたの」


 光太は少しだけ目を伏せて、ほんのわずかに笑ったようにも見えた。


「うん」


 それだけだった。


 それだけなのに、どんな言葉よりずっと重かった。


 手のひらの上の小さな光が、二人の過ぎた時間そのものに見えた。

 七年のあいだ言えなかったことも、誰にも見せずに抱えてきた気持ちや、捨てられなかった想いも、全部そこにある気がした。


 そんなものを見せられたら、もう立っていられない。


 胸の奥が熱くなる。視界が揺れる。

 けれど、そんな顔だけは見られたくなかった。

 泣き顔を、好きな人に見られたくないなんて、七年経っても変わらない自分が情けなかった。


 私はほとんど反射みたいに、光太に背を向けた。


「真昼……?」


 その声に振り向けない。

 肩が小さく震えるのを、自分でも止められない。


 こみ上げるものを押し戻せないまま、最初にこぼれたのは、いちばん言いたかった言葉ではなかった。


「……ごめんね」


 その一言だった。


 言ってしまった瞬間、空気が変わった。

 背中越しでもわかった。


 光太の気配が、すっと静かに遠のく。


 たった今まで、かろうじて残っていた小さな灯りが、一度消えかけるような気配だった。

 私は振り向けないまま、その変化だけをはっきり感じてしまった。


 恐る恐る横目で見た先で、光太は動かずに立っていた。


 表情を大きく崩したわけじゃない。

 ただ、何かを受け取るために差し出しかけていた心を、そっと引き戻した人の顔だった。

 ああ、この人はこれまで何度もこうやって、自分の期待を自分で閉じてきたのだと、そんなことが一瞬でわかってしまう顔だった。


 違う。


 そうじゃない。


 終わらせたかったわけじゃない。

 拒絶したかったわけでもない。


 遅すぎたことが苦しくて、待たせてしまったことが痛くて、謝る言葉しか出なかっただけなのに。


「違う……」


 声が震える。


 返事はない。

 その沈黙が、余計に苦しかった。


 私は背を向けたまま、唇を噛んだ。

 こらえていた涙が頬を伝って落ちる。もう隠しきれない。


「わがままな女で、ごめんなさい……」


 その一言で、とうとう涙が止まらなくなった。

 

 言葉にしてしまうと、七年前の身勝手な自分があまりにも幼くて、胸が痛んだ。


「ずっと、自分の夢のことばっかりで……あなたの気持ち、ちゃんと見ようともしなかった」


 息がうまく継げない。


「待たないでほしかった、とか……忘れてほしかった、とか……そんなこと、本当は言えない。だって、私……」


 そこで息が詰まる。


 ここから先を言ってしまったら、もう戻れない。

 それでも、言わないままでは、何も始まらないこともわかっていた。


 夜の空気が冷たい。

 遠くで電車の走る音がした。


 すぐそばにいるはずの光太が、まだ遠い。


 その距離を埋められるのは、たぶん私の言葉しかなかった。


「私も、忘れられなかった……」


 声が、泣きながらほどけていく。


「締切に追われてるときも、もう平気だって言い聞かせた。でも……気づけば、光太のことを思い出してた」


 白い原稿用紙に線を引くたび、ふとした余白に思い出す顔があった。

 閉じたページの向こうに押し込めて、それでも消えなかった人がいた。


「私、前に進んだつもりだった……ちゃんと選んだつもりだったのに……」


 涙で声が揺れる。


「私が、あなたのいない未来を選んだのに……」


 背中の向こうで、光太が息を呑むのがわかった。


「ずっと……ずっと、忘れたふりをしてただけ……」


 もうごまかせなかった。

 七年分、しまい込んできた気持ちが、堰を切ったみたいにあふれてくる。


「……遅すぎて、ごめんって……今さらで、ごめんって……そういう、ごめん、で……」


 最後のほうは、ほとんど息みたいだった。

 言い切ったあと、急に世界が静かになる。


 雨上がりの匂い。冷えた空気。街灯の白さ。遠い改札のアナウンス。

 その全部のなかで、光太がしばらく何も言わない。


 返事がないことが怖くて、でも振り向く勇気はなくて、私はただ立ち尽くした。

 自分の肩がかすかに震えているのがわかる。

 みっともないと思うのに、もうどうしようもなかった。


 やがて、背後で小さく息を吸う音がした。

 長いあいだ胸の奥に押し込めていたものが、ようやく動き出すときの音みたいだった。


 光太の足音が、ひとつだけ近づく。


 でも、触れない。

 その距離が、たまらなく光太らしかった。


「……真昼」


 呼ばれた声は、少しかすれていた。


「うん……」


「……ありがとう」


 短い声だった。

 けれど、その奥に、こぼしそこねた息みたいな震えがあった。


 好きだとも、やり直そうとも言わない。

 簡単な約束で、この七年を埋めたりしない。

 それでも、そのひと言のなかには、閉じかけた光をもう一度ともすような温度があった。


 私は濡れた指先で頬を拭った。うまく拭えなくて、また涙が落ちる。


 背中のすぐ向こうに、光太の気配がある。

 昔は近すぎて壊した距離が、今は慎重に、でも確かに縮まっている。


 たぶん、この先は簡単じゃない。

 失った時間は戻らないし、何もかもがすぐ元通りになるわけじゃない。


 それでも、もう一度だけ信じてみたいと思った。

 遅すぎるかもしれない今だからこそ、ようやく届くものがあるのかもしれないと。


 光太が、もう一歩だけ近づく。


 私はまだ振り向けない。

 泣き顔を見られたくないまま、それでも逃げたくはなかった。


 春には少し早い風が、濡れた道をかすめていく。


 その冷たさのなかに、どこか朝に似た気配がまじっていた。

 まるで長い夜の終わりに、まだ見えないはずの光だけが、先にこちらへ届いてくるみたいに。



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