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君のいない未来を選んだはずだった。  作者: つくよのかぐら


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第一話 「ふくれあがる感情」

 締切前の朝は、世界から音が減る。


 机の上には、描きかけの原稿が何枚も散っていた。白い紙に黒い線が走り、途中で止まり、また別のページで息を吹き返している。


 アシスタントが帰ったあとの部屋は静かで、ペン先が紙をこする音だけが、かろうじて私を現実につなぎとめていた。


 スマホが震えた。


『まひる先生、十時からの打ち合わせ、オンラインで大丈夫ですか?』


 担当編集の相沢由梨からだった。29歳の彼女は仕事が早くて、遠慮はない。

 私は、「大丈夫」とだけ返して、冷めたコーヒーをひと口飲んだ。苦い。もう何時間も前に淹れた味がした。


 壁際の棚には、単行本が整然と並んでいる。自分の名前が入った背表紙。平積みの写真。受賞の記事。アニメ化の話が進んでいる作品の設定資料。

 

 三十一歳にしては、たぶん十分すぎるくらい順調な人生だ。


 なのに、部屋の真ん中だけ、いつも少し寒い。


 そこに誰もいないせいだと、私は長いこと考えないふりをしてきた。


 

 


 出版社との打ち合わせを終えたあと、由梨はいつもの軽い口調で言った。


「新作、かなりいいです。今回のヒロイン、朝倉まひる先生っぽいって言われません?」


「言われる。安直だよね」


「でも、まひる先生が描くヒロインの“言えなかった気持ち”って、やっぱり強いんですよ」


 画面の向こうで、由梨は少しだけ首をかしげた。


「……なんか今日、顔色悪いですね。寝てないんですか?」


「いつも通りだよ」


「その“いつも通り”が危ないんですって」


 笑ってごまかしたけれど、本当は昨夜ほとんど眠れていない。新刊発売前は、毎回そうだ。

 売れているぶん、落とせない線がある。期待を裏切れないページがある。閉じたページの先まで、読者に続きを信じてもらわなければならない。


 それが仕事で、私が「選んだ道」だった。


 恋よりも、生活よりも、誰かと過ごす未来よりも、漫画家を選んだ。


 昔の私は、それを誇りだと思っていた。


 午後、原稿の修正をひと区切りつけて外に出た。冬の終わりの空気は、まだ冷たいのに、光だけはやわらかい。

 駅前のガラス窓に映る自分は、思っていたより疲れて見えた。


 ★


 なじみのカフェは、駅から少し歩いた路地裏にある。木の扉を開けると、コーヒーと焼き菓子の匂いがした。


「顔、ひどいよ」


 親友の第一声がそれだった。


「何よ、そこなの?会ってすぐそれ言う?」


「真昼には言う。はい、座って。甘いの出すから」


 水野莉子は、高校のころから変わらない調子で私の向かいに座った。

 店内には午後のやわらかいざわめきが流れていた。

 それが少しだけ心地よかった。


「新刊前?」


「うん」


「売れてる人は大変ねえ」


「他人事みたいに」


「他人事だからね」


 莉子は笑って、それから少しだけ目を細めた。


「……また、無理してるでしょ」


 私は返事の代わりに、湯気の立つカフェラテを見た。きれいな泡の上に葉っぱの模様。

 こんなふうに整ったものを見ると、余計に自分の中の余白が目立つ。


「真昼」


「なに?」


「まだ、思い出すの?」


 聞かれた名前はなかった。なくても、その”思い出す”は誰のことかわかった。


 私はカップを持つ手に少しだけ力を入れた。

 でも、カップの縁に指がうまくかからない。


「思い出さない……日もあるよ」


「ゼロじゃないんだ。より戻しちゃえば」


「……うるさい」


 莉子は責めるでもなく、ただ、ため息をついた。


 佐垣光太。七年前、私が自分から別れを告げた同い年の彼。


 当時の私は二十四歳で、連載を勝ち取ったばかりだった。寝る時間も惜しかった。

 

 会いたいと言われることすら重く感じる日があった。

 誰かを大事にする余裕がない自分を、最低だと思いながら、それでも手放せなかったのは夢のほうだった。


「中途半端なまま一緒にいたくない」


 そう言ったのは私だ。


 光太は、少し黙ってから、「わかった」と答えた。


ーー引き止めてくれないんだ、とも、思ってしまった。


 あのとき、なぜか少しだけ腹が立った。

 でも同時に、救われた気もした。

 そのくせ、自分をひどい女だとも思った。

 相手の優しさに甘えて、選びたい未来だけを選んだのだから。


「あ、そうだ。この前さ」と、莉子が言った。

「駅前の書店で見かけたよ」


 心臓が、ひどく静かに跳ねた。


「……光太?」


「うん。今も出版社なんでしょ?」


「らしいね」


「漫画家・朝倉 まふゆ先生の、新刊フェアの準備してたよ」


 私は顔を上げた。


「なんで知ってるの?」


「本人が店長さんと話してたから。営業で来てたみたい」


 店の窓の向こうを、雨が細く流れ始めていた。いつのまにか空が曇っている。


「真昼……彼とは会わなかったの?」


「会ってない。私、向こうは気づいてないと思う」


 莉子は言葉を選ぶように続けた。


「ねえ真昼。あんた、平気?」

 

 平気なわけがなかった。

 七年も前のことだと、自分に言い聞かせる。

 

ーー今さら動揺するほうがおかしい。

 

 そう思うのに、雨粒の向こうで駅の光景がよみがえった。

 

 傘を持っていなかった私に、光太は自分の傘を差し出した。

 私は受け取らなかった。受け取ったら、戻れなくなる気がしたからだ。


「平気だよ」


 嘘は、思っていたより簡単に口から出た。


 数日後、出版社での打ち合わせが入った。由梨に連れられて会議室へ向かう廊下で、私は無意味に資料を握りしめていた。


「先生、手、白いですよ」


「寒いだけよ」


「館内あったかいのに?」


 由梨の視線は鋭い。けれど私は、何も言わずにエレベーターのボタンを押した。


 その日も、光太には会えなかった。

 会議室にいたのは編集長と販促担当だけで、企画の話はつつがなく終わった。

 拍子抜けするほど何も起きず、私は少しだけ安堵して、少しだけ落胆した。


 帰り際、一階ロビーの横にある小さな展示スペースに、著者のパネルと新刊ポスターが並んでいた。自分の笑顔の写真を見上げていると、後ろから声がした。


「朝倉さん、ですよね」


 振り向くと、落ち着いた色のコートを着た女性が立っていた。やわらかな目元が、誰かに似ていた。


「佐垣……美和です」


 名前を聞いた瞬間、時間が一拍遅れた。


「光太の姉です」


 図書館司書だと、昔一度だけ聞いたことがある。

 会ったのは初めてだったのに、なぜだかすぐにわかった。


「少しだけ、お話し、いいですか」


 近くの図書館併設カフェに移動した。夕方の窓辺は白く、棚に並ぶ本の背表紙が静かだった。

 美和さんは紅茶を一口飲んでから、まっすぐ私を見た。


「突然ごめんなさい。会うつもりはなかったんです。でも、今日お見かけして……たぶん、今しかない気がしてしまって」


 私は何も言えなかった。


「光太、あなたの本、ずっと買ってるんです」


 胸の奥に、細い針が刺さった気がした。


「新刊が出るたびに、ちゃんと読むんです。サイン会がある日は仕事を調整して、行けないときは近くまで行って帰ってくるような子で」


 冗談ではないのだと、美和さんの静かな声が教えていた。


「別れてからも、誰とも付き合わなかった」


 私はそこで初めて、美和さんの言葉の意味を理解できなくなった。


「……え」


「七年……ですか?」


 カップを持つ手が、少し遅れて震えた。


「待っていたんです。あなたが戻るのを、というより……あなたのことを、ずっと好きなままでいるんだと思います」


 世界の輪郭が、急に遠のいた。


 カフェの食器が触れ合う音も、ページをめくる音も、全部ガラス越しの向こう側みたいに薄かった。


「そんな……」


 やっと出た声は、自分のものじゃないみたいだった。


「本人は言わないでしょうけど」


 美和さんは目を伏せた。


「あなたの邪魔をしたくなかったんだと思います。あの子、昔からそういうところがあって。大事な人ほど困らせたくないから、何も言わないんです」


 何も言えなかったのは、私のほうだった。


 別れを告げたあの時も……

 責めてくれたら、もっとよかったのに、と思った。


ーーどうして待っていたの。

ーーどうして忘れてくれなかったの。

ーーどうしてそんなふうに優しいままでいるの。


 そう。責める資格なんてないくせに、胸の中ではそればかりが渦を巻いていた。


「ごめんなさい」と美和さんが言った。

「知らないままでいたほうがよかったかもしれないのに」


 私は首を振った。でも、その動きすらひどく鈍かった。


 泣けなかった。


 泣くには、事実が静かすぎた。


 ただ、七年、待っていた。


 その言葉だけが、白い紙の上に引かれた一本の線みたいに、消せないまま残った。


 その夜、部屋に戻っても原稿に触れなかった。

 締切前の部屋は、いつもなら戦場みたいなのに、その日はがらんとして見えた。

 机の上の白い紙がまぶしい。

 

 描きかけのコマの中で、ヒロインが何かを言いかけたまま止まっている。


 私も、ずっと止まっていたのだと思う。

 七年前から……


 スマホに、由梨からメッセージが入った。


『修正、明日の昼でも間に合います。だから今日は寝てください』


 私は返信しなかった。


 代わりに、閉じた原稿ファイルの背表紙みたいな黒い画面に、自分の顔を映した。

 ひどい顔だった。成功した漫画家の顔じゃない。

 

 何かを手に入れて、その代わりに自分でも気づかないうちに大事なものを落としてきた人の顔だ。


 夢は叶った。仕事もうまくいっている。

 それなのに、人生のどこかひとつのコマだけ、ずっと空白のままだ。

 何が描かれていないのか、本当はずっとわかっていた。

 ただ、認めたくなかっただけだ。


 朝方になって、ようやく一枚だけ原稿に線を引いた。

 でも、いつものようにまっすぐ引けない。手元がぶれて、消して、描き直して、また消した。


 由梨に電話をかけたのは、昼前だった。


「先生?」


「ごめん。今日、少し遅れる」


 珍しく、向こうがすぐに返事をしなかった。


「なにか……ありました?」


 私は黙った。由梨はそれで察したらしい。


「修正、夕方でも大丈夫です。今は原稿より、そっちなんじゃないですか」


「そっちって」


「先生がずっと描かないようにしてたページのことです」


 若いのに、変なところで刺してくる。


 通話を切ったあと、私はコートを着て外に出た。

 目的地も決めないまま駅まで歩いて、改札前で立ち止まる。人の流れは途切れない。

 誰もがちゃんと今日を生きていて、私だけが七年前に置き去りになった気がした。


 たった一つの後悔が、時間をかけてふくれあがっている。

 もう一度、彼に会いたい、と思った。






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