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番号違いの恋  作者: 蒼月想
9/14

番外編:ただいまと、おかえりの練習(数年後)

湊がこの家に引っ越してきてから、もう三年が経つ。

あの日の空も、今日みたいにやけに青くて、六月のくせに梅雨を忘れてるみたいな天気だった。


「引っ越しって、もうちょっと生活感あると思ってた」

段ボールは三箱だけ。ベッドもテーブルも処分してきたくせに、新調する気満々の顔でこっちを見てた。


「ミニマリストなの?」って聞いたら、

「思い出もだいたい、ポケットに入る量だったし」って、ちょっとだけ照れたように笑ったのを覚えてる。


あれから、ちゃんと生活は増えた。

家具も食器も増えたし、洗濯物の量も、冷蔵庫の中身も、私たちの「ただいま」と「おかえり」も、少しずつ、着実に。



いまは、同棲、という言葉よりも、もっと馴染んだ言い方が似合っている。

お互いの癖も、体調のリズムも、好きなパン屋も知っている。


湊は今でも、ちょっと意地悪なことを言っては私の反応を楽しんでるし、

私はたぶん、それに付き合いながら笑っている。何年経っても。


「帰ってきたら冷蔵庫がちゃんとしてるの、やっぱありがたいよね」

「それ、昔も言ってた」

「言ってたっけ?」

「豆腐が水に沈んでなくて、袋野菜が開封済みじゃない話」

「あー、それ、名言だな」


あの日の会話を、今もふたりで笑って言い合える。

記憶って不思議。消えたり薄れたりするくせに、肝心なところだけ、ちゃんと残ってる。



ある雨の夜、ベランダにいた私に、湊が傘を差し出してきたことがあった。

「覚えてる? 最初に傘借りた日」って、少し懐かしそうな声で。


あの時、返してない傘はまだクローゼットにある。

もはや記念品みたいになってるけど、捨てられない。たぶん、ずっと。


あの夜、湊は「おかえりって言ってくれる?」って、冗談みたいな顔で聞いた。

私は「ただいま」の練習だと知りつつ、ちゃんと返してあげた。


それから、何度も言い合った。「おかえり」と「ただいま」を。

それは今でも、日々を支える魔法の合図みたいだ。



——手紙は、もう渡した。

湊の寝ぐせのひどい朝に、台所でコーヒーを入れてるときに、ふと思い立って。


「これ、昔書いたやつ。あの傘借りた頃」

「え、ラブレター的な?」

「読んだら引くかも」

「読む前からもう好きだけど」


読んだあと、湊は何も言わなかった。ただ、ぎゅっと抱きしめてきた。

今もそのときの温度を覚えている。


手紙の最後の一行。

“最初に傘を借りたときから、たぶん私はちょっとだけ、あなたを好きになっていた気がします。”


あの日の自分に、ちゃんと伝えてあげたい。

大丈夫だったよって。渡せたよって。笑われなかったよって。



今日もまた、夕立が来そうな空だった。


玄関の鍵が回る音に振り返ると、湊が、少しだけ濡れたシャツで帰ってきた。

「ただいま」と言う声は、以前より少し低くなってる気がした。

私は、少しだけ背筋を伸ばして言う。


「おかえり」


きっと何年後も、何十年後も、何度もこの言葉を練習して、少しずつ上手くなっていくんだと思う。


——ふたりで暮らすということは、

“さようなら”を使わずに生きていく、静かで優しい革命みたいなものだから。

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