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番号違いの恋  作者: 蒼月想
8/14

8話:傘のない帰り道

天気予報は、曇りのち雨。

けれど、玄関の傘立ては空っぽのままだった。


「まあ、降らなければいいんだけどな」


ひとりごとのような声が、静かな部屋に吸い込まれていく。

洗いかけのカップ。畳まれたままの洗濯物。何も変わらない日常の景色。

なのに、胸の奥にだけ、小さく風穴があいたようだった。


昨夜、湊からのメッセージが届いた。


《正式に辞令が出ました。異動、決まりました》


東京の外れ、電車で一時間ちょっとの場所。

決して遠くないけれど、歩いていける距離でもない。


《会えなくなるわけじゃないから》


そう続いていたはずなのに。

私はずっと、言葉の余白ばかりを眺めていた。



土曜の午後。

湊の部屋を訪ねるのは、これが最後になるかもしれなかった。


玄関の棚が空っぽになっていたのが、なぜだか一番こたえた。

お気に入りのスニーカー。読みかけの文庫本。見慣れていたはずの景色が、どこかよそよそしくなっていた。


「“最後”って言うと、寂しいね」


「ですね。でも、“また”って言えると思うから。たぶん、大丈夫です」


私たちは、段ボールの山を前に、他愛もない会話を交わした。

本を詰めたり、ケーブルを束ねたり。手は動いていたけれど、心はずっと、時間の隙間に立ち止まっていた。


ふと、押し入れの奥から見覚えのあるものが出てきた。


「これ、持ってく?」


それは、あのネイビーの折りたたみ傘。

初めて湊から借りた日、雨の中を並んで歩いたあの傘だった。


「……あ、返すの忘れてた」


「いや、それはもう譲ったつもりだったんだけどな」


「じゃあ、いったん返して、また借り直します」


私は傘を湊に差し出す。

彼は笑いながらそれを受け取って、すぐにまた私へと返してくれた。


「貸します。永遠に」


「……重くない?」


「軽量タイプだから」


ふたりで笑った、その音にかぶさるように、外で雨が降り始めた。


「傘、使う?」


「ううん。いらない。ちょっとだけ、濡れて帰る」


「風邪引くよ」


「じゃあ、引いたらまた会いに来てくれる?」


湊は、ちょっと困ったように眉を下げて、それから少し照れた顔で言った。


「風邪じゃなくても行くよ」


たったそれだけの言葉が、心の奥に、じんわりとにじんで広がっていく。

私は思わず、笑ってしまった。小さく、でも確かに。



帰り道、私は本当に傘を開かなかった。

しとしとと優しく降る雨が、肩に、髪に、静かに積もっていく。


遠くで駅のアナウンスが聞こえる。

いつもと同じ風景。なのに、少しだけ世界がちがって見えた。


――この距離は、きっと変わってしまう。


けれど、不思議と怖くなかった。

ポケットの中には、まだ湊からもらった手紙がある。

あのノートも、湊の部屋に置いてきた私のメモも。

どこかでつながっている感覚が、ちゃんとあった。


たぶん、物語はまだ途中だ。

これからも、雨に降られる日もあるだろう。

だけど私は、そのたびに思い出すと思う。


――傘を差し出してくれた誰かのことを。

――あたたかい言葉をポケットに忍ばせてくれた人のことを。


そして、こう思えるのだ。


傘がなくても、大丈夫。

だって、ちゃんとまた会いにいける。

私も、きっと――行くから。


この雨の先に、またふたりで笑える日がある。

そんな気がした、傘のない帰り道だった。


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