8話:傘のない帰り道
天気予報は、曇りのち雨。
けれど、玄関の傘立ては空っぽのままだった。
「まあ、降らなければいいんだけどな」
ひとりごとのような声が、静かな部屋に吸い込まれていく。
洗いかけのカップ。畳まれたままの洗濯物。何も変わらない日常の景色。
なのに、胸の奥にだけ、小さく風穴があいたようだった。
昨夜、湊からのメッセージが届いた。
《正式に辞令が出ました。異動、決まりました》
東京の外れ、電車で一時間ちょっとの場所。
決して遠くないけれど、歩いていける距離でもない。
《会えなくなるわけじゃないから》
そう続いていたはずなのに。
私はずっと、言葉の余白ばかりを眺めていた。
*
土曜の午後。
湊の部屋を訪ねるのは、これが最後になるかもしれなかった。
玄関の棚が空っぽになっていたのが、なぜだか一番こたえた。
お気に入りのスニーカー。読みかけの文庫本。見慣れていたはずの景色が、どこかよそよそしくなっていた。
「“最後”って言うと、寂しいね」
「ですね。でも、“また”って言えると思うから。たぶん、大丈夫です」
私たちは、段ボールの山を前に、他愛もない会話を交わした。
本を詰めたり、ケーブルを束ねたり。手は動いていたけれど、心はずっと、時間の隙間に立ち止まっていた。
ふと、押し入れの奥から見覚えのあるものが出てきた。
「これ、持ってく?」
それは、あのネイビーの折りたたみ傘。
初めて湊から借りた日、雨の中を並んで歩いたあの傘だった。
「……あ、返すの忘れてた」
「いや、それはもう譲ったつもりだったんだけどな」
「じゃあ、いったん返して、また借り直します」
私は傘を湊に差し出す。
彼は笑いながらそれを受け取って、すぐにまた私へと返してくれた。
「貸します。永遠に」
「……重くない?」
「軽量タイプだから」
ふたりで笑った、その音にかぶさるように、外で雨が降り始めた。
「傘、使う?」
「ううん。いらない。ちょっとだけ、濡れて帰る」
「風邪引くよ」
「じゃあ、引いたらまた会いに来てくれる?」
湊は、ちょっと困ったように眉を下げて、それから少し照れた顔で言った。
「風邪じゃなくても行くよ」
たったそれだけの言葉が、心の奥に、じんわりとにじんで広がっていく。
私は思わず、笑ってしまった。小さく、でも確かに。
*
帰り道、私は本当に傘を開かなかった。
しとしとと優しく降る雨が、肩に、髪に、静かに積もっていく。
遠くで駅のアナウンスが聞こえる。
いつもと同じ風景。なのに、少しだけ世界がちがって見えた。
――この距離は、きっと変わってしまう。
けれど、不思議と怖くなかった。
ポケットの中には、まだ湊からもらった手紙がある。
あのノートも、湊の部屋に置いてきた私のメモも。
どこかでつながっている感覚が、ちゃんとあった。
たぶん、物語はまだ途中だ。
これからも、雨に降られる日もあるだろう。
だけど私は、そのたびに思い出すと思う。
――傘を差し出してくれた誰かのことを。
――あたたかい言葉をポケットに忍ばせてくれた人のことを。
そして、こう思えるのだ。
傘がなくても、大丈夫。
だって、ちゃんとまた会いにいける。
私も、きっと――行くから。
この雨の先に、またふたりで笑える日がある。
そんな気がした、傘のない帰り道だった。




